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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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125話:風が変わる

 峠を越えると、風の匂いが変わった。山の土と木の匂いが薄れ、塩と魚の匂いが混じり始める。桜が咲いていた。街道の両脇に、白と薄紅の花が揺れている。四月の半ば。会津を発って三日目の朝だった。


 街道を歩く人間が増えている。荷を担いだ商人、馬を引く人足、材木を積んだ荷車。会津と酒田を結ぶこの道の往来は、半年前に湊が初めて通ったときの倍以上になっていた。銀次が開いた堺航路が、街道にまで影響を及ぼしている。会津の漆と蝋が酒田に運ばれ、酒田から船で堺に向かう。その流れに乗ろうとする商人たちが、峠道を行き交っている。


 すれ違った荷車の上に、漆の桶が積まれていた。会津塗の漆だ。あの漆が堺で売れ、銀に換わり、銀が鉄砲に換わる。街道を歩く人間の一人ひとりが、知らないうちに上杉の軍備に繋がっている。左内の言葉が頭に浮かんだ。金は速く回すほど増える。止めた瞬間に腐る。


 湊は足を速めた。佐渡が開いた。一日でも早く銀次に伝えなければならない。次の堺便に佐渡の金を載せるには、船の準備と積荷の段取りが要る。景勝が「使え」と言った金を、止めておく余裕はない。


 酒田の港が見えた。


 半年前とは違う港だった。船着き場に船が三艘繋がれている。荷揚げの人足が動いている。木材、漆、蝋。会津からの産物が桟橋に積み上げられ、人足たちが声を掛け合いながら運んでいる。桟橋の先に干物を並べた店が出ている。船乗り相手の飯屋の煙が上がっている。港が町になり始めていた。


 銀次が桟橋にいた。船の横に立ち、荷の積み込みを目で追っている。袖をまくり、潮風に顔を晒している。倭寇上がりの男は港が似合った。城下の茶屋より、潮の匂いの中にいるときの方が体が一回り大きく見える。


 湊を見つけた。眉が上がった。


 「早いな。文を寄越せば済む話に、わざわざ来たのか」


 「文では伝わらん話がある」


 銀次の目が変わった。湊の顔を見て、何かを読み取ったのだろう。荷の確認を番頭に任せ、港から歩き出した。湊がその横に並ぶ。二人の草鞋が、砂利の上で同じ速さで鳴った。


 銀次の宿は港から少し離れた裏通りにあった。二階建ての古い旅籠の奥の部屋。窓から港が見える。潮の匂いが畳に染みついていた。部屋の隅に帳面が積まれ、壁に堺までの航路を墨で描いた紙が貼ってある。風向き、潮の流れ、寄港地。銀次がこの部屋で一人、航路と金の計算を回している跡だった。


 銀次が茶を出した。湊は茶碗を受け取り、一口含んでから言った。


 「佐渡が開いた」


 銀次の手が止まった。茶碗を持ったまま、湊の目を見ている。港で荷を確認していたときの軽い目ではない。据わった目だった。それから茶碗を畳に置き、立ち上がった。壁の航路図の前に行き、指で酒田から佐渡、佐渡から酒田、酒田から堺の航路をなぞった。


 「……桁が変わるな」


 「景勝様の直接の許しだ。佐渡の金銀を堺便に載せられる」


 「景勝様が直接。兼続様ではなく」


 「兼続様が帳面を見せ、景勝様が俺に会った。三つ問いを発して、一言で許した。『佐渡の金を使え』と」


 銀次が航路図から手を離し、振り返った。目の色が変わっていた。佐渡の金が動くということの意味を、この男は一瞬で計算し終えている。漆と蝋だけで回していた航路に、金銀が加わる。堺で買えるものの幅が変わる。量が変わる。船の積荷の構成が根本から変わる。


 「鉄砲百丁。次の便で発注したい」


 銀次が畳に腰を下ろした。足を組み、腕を組んだ。目は湊を見ているが、頭の中では数字が回っている。百丁の鉄砲の代金。佐渡から運べる金の量。堺までの輸送日数。すべてを同時に計算している顔だった。


 「百丁は堺で調達できる。紀州の根来崩れの鍛冶が堺に流れてきている。腕のいい連中だ。百丁なら二月で揃う」


 「だが百丁では止まらん」


 「分かっている。大筒の話だな」


 「堺で大筒は手に入るか」


 「完成品は難しい。大筒を鋳れる鍛冶は限られている。国友か、堺の一部の職人だけだ。しかも大筒は大名の注文で動く。流れ品はほとんど出ない」


 銀次は窓の方を見た。港に停まっている船の帆が、風に揺れている。


 「だが、手がないわけではない」


 「聞かせろ」


 「前の便で堺に行ったとき、鍛冶を当たった。お前に言われる前にな」


 湊は黙った。銀次が、自分の判断で先を読んで動いていた。


 「鉄砲の修理ができる男を二人見つけた。一人は若いが腕がいい。鉄砲の銃身を一日で挽く。火縄の調整も自分でやれる。もう一人は国友の出で、歳は四十を越えている。大筒の鋳造に立ち会ったことがあると言っていた」


 「立ち会ったことがある、と鋳れるは違う」


 「違う。だが鉄の扱いが分かる男なら、数をこなせば鋳れるようになる。堺の鍛冶はそうやって鉄砲を覚えた。五十年前、種子島にポルトガルの鉄砲が来た。あれを一丁渡されて、分解して、自分で組み直して覚えた。図面はなかった。手と目で盗んだ。同じことが大筒でもできる」


 「大筒は鉄砲より鋳造が難しい。砲身が厚い。鋳型が要る。冷却を間違えれば暴発する」


 銀次の眉が動いた。湊が大筒の構造を知っていることに、驚いたのだろう。だが問い詰めはしなかった。この男は、湊の知識の出所を詮索しない。使えるものを使う。倭寇の流儀だ。


 「お前が仕様を伝え、鍛冶が形にする。鍛冶に必要なのは図面ではなく、何を作るかの明確な指示だ」


 「その二人を会津に呼べるか」


 「金次第だ。堺の鍛冶は腕で食っている。だが会津は遠い。堺を離れるということは、得意先を捨てるということだ。若い方は身軽だが、国友の男は家がある」


 「知行を出す」


 「知行を出すなら話は別だ。だがそうなれば上杉の家臣に組み込むことになる」


 「兼続様には俺から話す。佐渡の金がある。話は通る」


 「なら次の便で堺に行って、直接口説く」


 銀次が立ち上がり、窓を開けた。潮風が部屋に入ってきた。港の喧騒が近くなった。人足の声。荷を下ろす音。船の帆が風を孕む音。


 「もう一つ報告がある」


 銀次が窓枠に手をかけたまま言った。声の調子が変わった。


 「三成の商人——光屋が動いている」


 「光屋」


 「前の便で漆を堺に卸したとき、光屋が買い取った。値は悪くなかった。むしろ相場より少し高かった。普通の商人はそんな買い方をしない」


 「三成が会津との繋がりを持ちたがっている」


 「そう見ている。光屋が次の便でも買い付けると言ってきた。漆だけでなく、蝋と紅花も欲しいと。品目が増えている。商売だけの話ではないだろう」


 三成。五奉行の一人。この先、関ヶ原で西軍の中核になる男だ。その男の商人が、1599年の段階で会津の産物に手を伸ばしてきている。繋がりを持ちたいということだ。だが今はまだ早い。三成との接触は、使い方を間違えれば毒になる。家康の耳に入れば、上杉が西軍と通じていると見なされる。


 「光屋は泳がせろ。こちらから近づくな。向こうが来るなら受ける。値は相場通りでいい。高く買うなら買わせておけ。だが光屋の名前が出たとき、こちらから三成の名を出すな。あくまで商売にとどめろ」


 「承知した。三成がどう動こうが、某の仕事は変わらん。船を出して、金を回して、鉄砲を買う」


 「それでいい」


 銀次が窓を閉めた。部屋が静かになった。潮風が止まると、畳に染みついた塩の匂いだけが残った。銀次が壁の航路図の前に戻り、指で佐渡の位置を触った。


 「佐渡から酒田への航路を新たに組む必要がある。今は会津から陸路で酒田に運んでいるが、佐渡の金を陸路で運ぶのは危険が大きい。海路で酒田に入れる方がいい。佐渡から直接船を出せるか、確認する」


 「佐渡の金山奉行との段取りは兼続様を通す。そこは俺が動く」


 「分かった。では堺側の話をまとめるぞ。次の便で堺に持っていくもの。佐渡の金銀。会津の漆、蝋、紅花。堺で調達するもの。鉄砲百丁。鍛冶二人の招聘。大筒の部材の見積もり。この三つだ」


 「鉄砲と鍛冶は任せろ。大筒の部材は、国友の男に聞く。何が要るか、どれだけかかるか。見積もりを取って戻る」


 「頼む」


 銀次がふと口の端を上げた。


 「半年前、お前が最初にここに来たとき、鉄砲五十丁と言った。今は百丁だ。次は何だ。五百か」


 「千だ」


 銀次の口元が引き締まった。湊の目を見て、冗談ではないと分かったのだろう。窓の外の港を見た。三艘の船が揺れている。百丁なら今の船で運べる。だが千丁となれば、船の数も航路の頻度も桁が変わる。それを計算している目だった。何も言わなかった。


 宿を出た。日が傾き始めている。酒田の港に夕日が差して、海が橙色に染まっていた。干物屋の婆さんが店じまいをしている。人足たちが桟橋の端で足を洗っている。一日の仕事が終わる港の空気だった。


 湊は桟橋の端に腰を下ろした。足の下で波が桟橋の杭を叩いている。半年前、銀次と初めて会ったのもこの港だった。あのとき銀次は「何をさせたい」と聞いた。湊は「堺に船を出せ」と答えた。それだけの話だった。それが今、佐渡の金を載せた船が堺に向かう話になっている。


 佐渡の金が動く。百丁の鉄砲が来る。鍛冶が会津に来る。大筒への道が開く。半年前にはなかった手駒が、次々と揃い始めている。


 だが速さが足りない。慶長五年——一六〇〇年の関ヶ原まで、あと一年と少し。鉄砲を揃えるだけでは足りない。兵に撃たせる訓練が要る。大筒を鋳るには鍛冶場の建設から始めなければならない。一発目を撃てるようになるまでに何ヶ月かかるか。半年か。それ以上か。


 銀次が独自に鍛冶を見つけていた。命じたわけではない。「相手は誰だ」と聞いた男が、答えを待たずに自分の領分で先を読んでいた。左内も同じだ。紙幣を回す段取りを、湊の指示を待たずに組み、商人を自分の足で回っている。


 人が動き始めている。湊一人の頭にあった設計図が、銀次と左内の手に渡り始めている。設計図を持っているのは湊だけだ。だが手を動かすのは彼らだ。そして彼らは、設計図の全体を知らないまま、自分の持ち場で最善を尽くしている。全体を見せられない。見せた瞬間、未来の記憶が露出する。


 三成の影。光屋が動いている。三成は1599年の段階ではまだ表立っては動かないはずだ。家康との対立が決定的になるのはもう少し先——だが湊が歴史を変え始めている。佐渡の金を動かし、鉄砲を増やし、堺との交易を広げている。上杉の経済が変われば、周囲の力の均衡も変わる。その変化を、三成が嗅ぎ取ったのか。


 変えたかった歴史が変わり始めると同時に、知っていた未来が少しずつ使えなくなる。未来の記憶は地図だった。だが地図の上を歩き始めた瞬間から、地図と地形のずれが生じる。そのずれは、湊が動けば動くほど大きくなる。三成が想定より早く動いているなら、関ヶ原の形も変わるかもしれない。変わった形を、湊は知らない。地図のない場所を歩くことになる。それでも歩くしかない。


 翌朝。酒田の港。空は晴れていた。風が南から吹いている。雲が高い。船を出すにはいい風だった。


 銀次が船の準備を始めていた。帆を張り、荷を積み込んでいる。人足たちが桟橋を行き来している。佐渡の金を初めて載せる便だ。金は木箱に入れられ、麻布で包まれ、船倉の奥に収められた。銀次自身が箱の位置を確かめ、船倉の蓋を閉めた。金の扱いは人に任せない。倭寇上がりの男の流儀だった。


 湊は桟橋の端に立った。


 「鉄砲百丁。鍛冶二人。大筒の見積もり。この三つを次の便でまとめろ」


 「承知した」


 銀次が帆綱に手をかけたまま、湊を見た。


 「二年と言ったな。あの日。あれからもう半年が過ぎた。残りは一年半だ。間に合うのか」


 湊は港の向こうを見た。海が朝日を受けて光っている。北西の方角。佐渡の方角だ。島は見えない。だがあの島の金が、今日から海を渡る。


 「間に合わせる」


 銀次は何も言わなかった。帆綱を引いた。帆が風を孕んだ。南からの風だった。堺に向かう風だ。半年前には吹いていなかった風だ。


 船が桟橋をゆっくり離れた。港の水面を滑り、沖に向かっていく。帆が膨らみ、船足が上がった。銀次の姿が小さくなっていく。佐渡の金を載せた船が、堺に向かっている。


 風が変わり始めていた。

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