表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

124/201

123話:紙と米

 四月に入って、会津の空が高くなった。城下の通りには朝の光が差し込み、商家の暖簾が風に揺れている。梅はもう終わり、桜の蕾が枝の先で膨らみ始めていた。前の晩に降った雨が石畳を濡らし、朝日を受けて光っている。


 木綿問屋の暖簾をくぐったのは、左内だった。腰に刀を差し、背筋を伸ばしたまま店の土間に入る。番頭が振り向き、目を見開いた。四千二百石の侍が商人の店に足を踏み入れること自体が異様だった。だが左内はこの店の土間の匂いを知っている。蒲生の時代、木綿の買い付けで何度も来た場所だった。土間の隅に積まれた反物の山。帳場の上に置かれた算盤。蒲生の頃と変わっていない。


 「主人はいるか」


 番頭が奥に駆け込んだ。しばらくして、年配の男が姿を現した。木綿問屋の主人、辰蔵。体が厚く、手が大きい。商人というより職人のような手だった。左内を見て、一瞬目を細めた。それから太い首を傾げた。


 「岡の旦那。久しいな」


 「蒲生の殿様が出ていってから、この店の暖簾をくぐるのは初めてだ」


 辰蔵は框に腰を下ろすよう促した。左内は座らなかった。立ったまま、懐から紙を一枚取り出した。半紙より少し厚い。墨で額面が刷られ、上杉の印が押されている。辰蔵がそれを見て、眉を寄せた。


 「これが銭の代わりだと」


 辰蔵が紙を受け取った。裏返し、透かし、指で触った。商人の指だった。紙の厚さ、墨の乗り、印の深さを一瞬で読んでいる。


 「兼続様の許しが出ている。この紙を持って上杉の蔵に行けば、いつでも米に換えられる。蔵米の一割が裏付けだ」


 辰蔵は紙を持ったまま、左内を見上げた。


 「紙は燃える。水に濡れれば破れる」


 「銭は重い。運べば人が要る。米で払えば蔵が減る。紙なら懐に入る」


 「だが紙は紙だ。蔵に米があるうちはいい。なくなったらどうする」


 「なくならん。年貢は毎年入る。会津百二十万石の年貢だ。お前の店の木綿を百年分買っても底を突かん」


 辰蔵は鼻を鳴らした。左内の物言いに商人相手の丁寧さはない。だが数字に嘘がないことも、辰蔵は知っていた。


 「蔵に米があるのは分かった。だが蔵と紙の間に何がある。紙を持っていけば本当に米が出るのか。出す人間は誰だ。蔵番に話は通っているのか」


 「通っている。兼続様から蔵奉行に下知が出ている。紙を持ってきた者には、額面通りの米を渡せと。蔵奉行の名は丸田三左衛門。お前も知っている男だろう」


 辰蔵の目が動いた。丸田の名は知っている。蒲生の頃から蔵の管理をしていた男だ。上杉に代わってからも蔵奉行を続けている。堅い男だ。


 「丸田か。あの男が蔵の番をしているなら、米は出るだろう。だが——」


 辰蔵は紙を帳場の上に置いた。指で額面の数字をなぞった。


 「旦那。あんたは蒲生のお殿様がいた頃、この店に出入りしていたな」


 「覚えているか」


 「一万石の侍が帳面を覗き込んで値切る男を、忘れるものか。あんたに値切られた分、うちの女房に怒られた」


 左内の口の端が上がった。


 「今度は値切りに来たんじゃない。新しい銭を持ってきた」


 辰蔵は紙をもう一度手に取った。額面を読み、裏の印を指でなぞり、それから左内の顔を見た。長い間だった。


 「紙の信用は、蔵の米だけじゃない。持ってきた人間の信用もある。岡の旦那が持ってきたなら——まず木綿十反分だけ受ける。それで蔵に行って米に換えてみる。換えられたら、次は百反分で受けよう」


 左内は頷いた。それ以上何も言わなかった。商人が「まず試す」と言ったのだ。試して信用が通れば、紙は走り出す。左内にはそれが分かっていた。


 辰蔵が紙幣を帳場の棚にしまった。銭箱の隣に。紙が銭と同じ場所に置かれた。小さなことだが、左内の目はそれを見逃さなかった。


 「旦那。一つ聞いていいか」


 「何だ」


 「あんたは蒲生で一万石を持っていた男だ。それが今は上杉で四千二百石。石高は半分以下だ。それなのにこんな仕事を引き受けている。紙を持って商人を回るなんぞ、侍の仕事じゃない。なぜだ」


 左内は暖簾に手をかけたまま、振り返った。


 「金が動く場所にいるのが好きなんだ。石高が減ろうが増えようが、それは変わらん」


 辰蔵は太い首をゆっくり振った。呆れたのか感心したのか、左内にも読めなかった。


 店を出ると、通りに朝日が差していた。石畳の上を、荷車を引く男が通り過ぎていく。城下は動いている。蒲生が去り、上杉が来て、人も店も変わった。だが金の流れ方は変わらない。信用が銭を動かし、銭が人を動かす。紙がその間に入れるかどうかは、最初の一枚が米に換わるかどうかで決まる。辰蔵が蔵に行くのは明日か明後日だろう。それまでに蔵奉行に段取りを通しておかなければならない。


 湊が茶屋の前で待っていた。左内が通りを歩いてくるのを見て、立ち上がった。


 「どうだった」


 「木綿十反分で試すと言った。蔵で米に換えられれば、百反に上げる」


 「張り倒されなかったか」


 「某を張り倒せる商人は、会津にはおらん」


 茶屋の縁台に並んで座った。左内が茶を頼み、湊が金を払おうとすると、左内が手で制した。


 「茶代くらい某が持つ。蒲生の頃はこの茶屋で団子も食っていた。主人の婆さんは某の顔を覚えているはずだ」


 茶が来た。左内が一口飲み、湊を見た。


 「辰蔵は紙を受けた。だがあれは某の顔で受けたのだ。蒲生の時代にこの街で金を回していた某の顔で。次の店はそうはいかん」


 「蝋燭屋か」


 「蝋燭屋の主人は蒲生の後から来た男だ。某の顔を知らない。あの店は紙の信用だけで勝負になる。辰蔵が蔵に行って米に換えた実績を作ってから回る。順番が要る」


 湊は深く頷いた。左内の段取りは正確だ。最初に顔の利く店で実績を作り、その実績で次の店を開く。金を回してきた男の手順だった。


 「紙幣の偽造が心配だ。紙の質と印を変えるか」


 左内が首を振った。「今はまだいい。紙幣の数が少ないうちは偽造する旨味がない。偽造が出るのは紙が広まってからだ。そのときに手を打てばいい。今は速さが先だ」


 「蝋燭屋と米穀商が乗れば、城下の流通の三割に紙が入る。そこまでいけば、あとは紙が紙を呼ぶ。勝手に広がる」


 「速いな」


 「金は速く回すほど増える。止めた瞬間に腐る」


 左内は茶碗を置き、通りの向こうに目を向けた。普請場から石を運ぶ人足の列が見えた。あの人足たちへの支払いが、明日から紙に変わる。


 「普請場の職人は紙で受け取るしかない。上から下ろされるものだ。だが商人は違う。商人は選べる。銭か紙か。選ばれた紙は強い。選ばれなかった紙は死ぬ。だから商人を先に回している」


 湊は左内を見た。金の理屈だけではない。人の動き方を知っている。強制されたものは根を張らない。選ばれたものが根を張る。蒲生家で一万石を回し、金を動かし、人を動かしてきた男の言葉だった。


 「普請場の職人への紙幣払いは明日から始める。左内殿に蔵奉行の丸田への連絡を頼みたい。辰蔵が蔵に来たとき、段取りが滞ったら一発で信用が崩れる」


 左内が頷いた。「丸田には今日のうちに会う。あの男は堅いが遅い。紙を見せて、手順を叩き込んでおく。紙を持ってきた商人には、待たせずに米を渡せと。待たせた瞬間に信用が割れる」


 「辰蔵が来るのは明日か明後日だろう」


 「明後日だ。あの男は慎重だ。まず番頭に蔵の場所を確かめさせ、自分は店で待つ。番頭が米を持ち帰って初めて動く。商人とはそういう生き物だ」


 左内は会津の商人の性分まで読んでいる。主家が変わっても、この街の金の流れ方を体が覚えている。


 「湊殿。紙幣は回せる。城下の金なら某に任せておけ。だが紙幣だけでは鉄砲は買えん。堺の商人は紙を受け取らない。佐渡の金が要る」


 「分かっている」


 「兼続様の答えは」


 「まだ来ない」


 左内が茶碗の中を覗いた。茶柱が立っている。左内はそれを指で弾いた。沈んだ。


 「某は金を回すことはできる。だが主君を動かすことはできん。あれは湊殿、お前の仕事だ」


 前にも同じことを言っていた。城の廊下で。自分の領分を知っている男は、同じことを繰り返さない。だが繰り返した。それだけ佐渡の金が重いということだ。


 通りの向こうから、城の方角から、小姓が一人走ってきた。若い。息を切らしている。茶屋の前で湊を見つけ、真っ直ぐ走ってきた。膝に手をつき、顔を上げた。


 「湊殿。兼続様がお呼びです。すぐに城へお越しくださいと」


 左内の目が動いた。湊を見た。茶碗を縁台に置く音が、やけに大きく聞こえた。


 「帳面の答えが出たか」


 湊は立ち上がった。茶代を縁台に置こうとして、左内がすでに払っていたことに気づいた。


 「行ってくる」


 「某は蝋燭屋に回る。辰蔵の話を持っていけば、蝋燭屋も動くかもしれん。佐渡が開こうが開くまいが、紙幣は止めない。城下の金を回すのは某の仕事だ」


 左内は縁台に座ったまま、茶碗を傾けた。見送りはしなかった。四千二百石の侍が普請差配を見送る道理はない。だが湊の背中に、左内の視線を感じた。あの男は金の匂いを追っている。佐渡が開けば、動く金の桁が変わる。その匂いを、左内は嗅ぎ取っている。


 城下の通りを歩く。石畳の上を、荷車と人足と商人が行き交っている。この街の金の流れが、今日から変わり始める。紙が米に換わり、米が紙に戻る。その循環が城下に根を張れば、上杉の足元が固まる。


 左内が言った。「金は速く回すほど増える」。その通りだ。だが回す金の元手が足りない。紙幣は城下の内側を回す仕組みだ。外——堺との交易に使える金は、佐渡からしか出ない。


 佐渡がなければ鉄砲は五十丁で止まる。堺便の規模は変わらない。鍛冶を呼ぶ金も出ない。大筒など夢のまた夢だ。


 城が近づくにつれて、木剣の音が聞こえてきた。稽古場の方角だ。一定の間隔で、止まらない。上泉が弁之助を打っている音だろう。


 上泉泰綱。長谷堂城で敵陣に斬り込み、討ち死にする男。大筒があれば長谷堂は落ちる。上泉は斬り込む必要がなくなる。死なない。——だが大筒を買う金がなければ、歴史は繰り返される。


 佐渡が開かなければ、別の手を考えるしかない。越後の金山は手放した。出羽の砂金は量が知れている。庄内の海産物を増産しても、堺で鉄砲に換えられる量には届かない。佐渡しかない。全大名の金の三割、銀の六割を産む島。あの金が動けば、堺との交易が戦の規模に変わる。動かなければ、上杉は歴史通りに負ける。


 木剣の音が、歩くたびに近くなる。打つ音。受ける音。弁之助が打たれている音だろう。あの少年は毎日打たれている。毎日立ち上がっている。上泉がそうさせている。師匠が弟子を鍛えている。その師匠を死なせるわけにはいかない。


 城門をくぐった。廊下を歩く。兼続の居室に向かう。前回と同じ道だ。だが足の裏に伝わる板の冷たさが違う。前回は自分から申し出た。今回は呼ばれた。呼ばれたということは、答えが出たということだ。通ったか。通らなかったか。


 居室の前で立ち止まった。障子の向こうから声が聞こえた。兼続ともう一人。低い声。静かな声だった。兼続の声が答えている。言葉は聞き取れないが、兼続の声の調子がいつもと違った。硬さが取れている。主君の前に出ているときの声だ。


 小姓が障子を開けた。


 兼続がいた。文机の前に座っている。その奥に、もう一人。上座に。


 景勝だった。


 湊は膝をついた。額が畳に触れた。畳の匂いがする。新しい畳だ。この城に上杉が入ってから、畳を替えたのだろう。


 上杉景勝。会津百二十万石の主。謙信公の跡を継いだ男。豊臣五大老の一人。湊が未来の記憶で知っている景勝は、寡黙で、忍耐強く、最後まで上杉を守り抜いた男だ。関ヶ原で西軍について百二十万石を失っても、家臣を一人も捨てなかった。——その男が、目の前にいる。


 兼続の声が聞こえた。


 「帳面は景勝様にお見せした。景勝様がお前に直接聞きたいと仰せだ」


 湊は顔を上げた。景勝は何も言わなかった。ただ湊を見ていた。目が深かった。怒りでも好意でもない。何かを見定めようとしている目だった。謙信公がこういう目をしたのだろうかと、湊は思った。


 部屋の外で、木剣の音がまだ聞こえていた。遠い。だが確かに聞こえている。止まらない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ