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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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123/201

122話: 二つの蔵

 会津若松の城に、梅の匂いが残っていた。花はもう散り始めている。風が吹くたびに白い花弁が廊下の板の上を滑り、庭の土に落ちて茶色く染まっていく。三月の終わり。春はまだ浅い。


 湊は廊下の端で待っていた。面会を申し出てから三日が経っている。兼続は忙しい。新領地の検地、家臣団の配置替え、城下の町割り。会津百二十万石の内政を一手に仕切る男に、普請差配が面会を求めること自体が異例だった。取り次いだ小姓の顔には、明らかな困惑があった。


 左内が横に立っている。壁に背を預け、腕を組んでいる。帳面は懐にあるが、手に持って眺めるようなことはしない。酒田で一晩かけて仕上げた数字を、会津に戻ってから三日かけて磨き直した。すべての数字は左内の頭の中にある。蒲生家で一万石を預かり、その金を回してきた男だ。帳面は確認の道具にすぎない。


 「左内。帳面は俺に預けろ」


 左内が腕を解いた。


 「兼続様には俺一人で会う」


 「ほう。某を外すか」


 左内の声に怒りはなかった。品定めするような目で湊を見ている。蒲生家を出て上杉に仕え直したこの男は、四千二百石を食む上杉の侍だ。湊より格は上である。それでも兼続の指図で湊についている。金の匂いを嗅ぎ取ったからだろう。この男は金が集まる場所に自ら寄っていく。


 「話の切り出しを間違えたら、数字を見る前に突っぱねられる。まず入り口を開ける。それは俺の仕事だ」


 左内は湊の顔をしばらく見ていた。それから懐に手を入れ、帳面を抜いた。躊躇いはない。渡す所作に、金を扱い慣れた男の手つきがあった。


 「数字に穴はない。兼続様が何を聞いても、帳面が答える」


 「分かっている」


 「ただ——兼続様が見るのは数字だけではない。数字の向こうに何があるかを見る方だ。そこは湊殿、お前の仕事だ」


 奥の障子が開き、小姓が顔を出した。「お通りください」


 湊は帳面を懐に入れ、廊下を歩いた。障子の向こうに、墨の匂いが漂っていた。


 兼続の居室は質素だった。掛け軸もなく、花もない。文机の上に書状の束が積まれ、硯の墨はまだ乾いていない。部屋の隅に刀架けがあり、太刀が一振り置かれている。兼続の佩刀だろう。鍔に愛の字の前立てと同じ意匠が刻まれていた。


 兼続は書状に目を落としたまま、湊が入っても筆を止めなかった。


 湊は座った。待った。兼続の筆が紙の上を走る音だけが、部屋に響いている。速い。迷いのない筆だった。一つの書状を書き終え、脇に置き、次の紙を引き寄せる。もう一通。それも書き終えてから、ようやく筆を置いた。墨の匂いが部屋に満ちている。


 兼続が顔を上げた。


 「何の用だ。普請の報告なら書面で出せと言ったはずだ」


 「普請の話ではありません」


 兼続の目が動いた。湊が普請以外の話を持ち込むのは初めてだった。


 「上杉の鉄砲について、お話があります」


 兼続は何も言わなかった。腕を組みもしなければ、身を乗り出しもしなかった。ただ目だけが湊を見ている。城を攻め、政を動かし、数万の兵を率いてきた男の目だった。


 「言ってみろ」


 湊は膝の上に手を置いたまま、声を落とした。


 「城下の普請で職人への支払いが滞っています。銭が足りません。大工も左官も石工も、仕事はあるのに報酬が届かない。このままでは人が離れます」


 「知っている。会津に入ったばかりだ。銭の回りが悪いのは分かっている」


 「紙幣を発行させてください。上杉の年貢米を裏付けにします」


 兼続の眉が僅かに上がった。


 「紙で米が買えると言うのか」


 「紙を持ってきた者には、いつでも蔵の米を渡す。その約束を上杉の名で立てれば、商人も職人も紙を信じます。城下の商人十二軒から試験受入の同意を取りました」


 湊は懐から帳面を出し、兼続の前に置いた。兼続は手に取らなかった。目だけが帳面の表紙を見ている。


 「誰がその十二軒を回った」


 「左内殿です」


 兼続の目が細くなった。左内を湊につけたのは兼続自身だ。蒲生家で一万石を回してきた男の勘を、普請の金回りに使えと。だがその左内が商人を回って紙幣の同意を取ってきた。金を知り尽くした男が、紙幣に乗った。兼続にはその意味が分かるはずだった。


 「左内がこの数字を組んだのか」


 「はい。木綿問屋の主人に『三日で米に換えられなかったら張り倒す』と言われたそうですが、左内殿は笑っていました」


 兼続の口元が僅かに動いた。左内の性分を知っている顔だった。金に厳しい男が金に厳しい商人と渡り合う。その構図が見えたのだろう。


 帳面に手を伸ばした。表紙を開き、数字を目で追う。ゆっくりと。一つずつ。百二十万石の内政を動かしてきた目が、左内の数字を読んでいる。三頁にわたって追い、帳面を閉じた。


 「蔵米の一割を兌換原資に充てたいと」


 「はい。一割で回ります」


 「やってみろ。ただし一割だ。それ以上は許さん。商人が紙を持ってきて米に換えられなかった日、お前の首が飛ぶ。分かっているな」


 「承知しております」


 兼続は帳面を文机の脇に置いた。紙幣の話はここで終わりだった。普請の実務改善。蔵の一割。合理的な話だ。兼続は合理的な話には速い。


 部屋の外で、風が梅の枝を揺らした。白い花弁が一枚、障子の隙間から入ってきて、畳の上に落ちた。兼続が次の書状に手を伸ばしかけたとき、湊が言った。


 「もう一つあります」


 兼続の目が鋭くなった。


 「一つで済まないのか」


 「佐渡の金銀を、堺との交易に使わせてください。鉄砲を買い付けます」


 部屋の空気が変わった。紙幣の話は普請の延長だった。だが佐渡の金銀は違う。上杉家の根幹だ。全大名の金の三割、銀の六割を産む山の金を、交易に回すと言っている。普請差配が口を出す領域ではない。


 兼続が立ち上がった。文机を離れ、庭に面した障子を開けた。梅の木が見える。枝にはもうほとんど花がない。


 背中を向けたまま、声が低くなった。


 「なぜ鉄砲が要る。お前は城を建てる男だ。鉄砲はお前の仕事ではない」


 「城を建てても、守る力がなければ意味がありません」


 「守る力は俺が考える」


 「お言葉ですが——上杉の鉄砲は、五、六百丁です」


 兼続の背中が動いた。振り返りはしない。だが肩が僅かに上がった。


 「城を攻める力がありません。謙信公以来、上杉は騎馬と槍の軍です。野戦では天下に並ぶ者がない。ですが城を囲んだとき、門を破る力がない。力攻めを繰り返して兵を失い、時を失います」


 兼続は動かない。庭の梅を見ている。だが聞いている。その背中が聞いている。


 「兼続様も、越後でそれをご経験されているはずです」


 長い沈黙があった。庭の梅の枝が風に揺れ、また花弁が落ちた。兼続の呼吸が聞こえるほどの静けさだった。


 兼続が振り返った。


 「お前は何者だ」


 声に怒りはなかった。だが重かった。この城で何百人もの家臣を束ねてきた男の声だった。


 「上杉家普請差配、湊です」


 「普請差配が航路を開き、紙幣を考え、佐渡の金で鉄砲を買うと言う」


 兼続が一歩近づいた。湊の目を覗き込むように。


 「お前は何者だ」


 二度目の問い。同じ言葉だが、意味が違った。お前の正体を言えではない。お前がどこまで本気かを見せろ。


 湊は兼続の目を見た。逸らさなかった。


 「……上杉を、負けさせたくない者です」


 兼続は湊の顔を見ていた。城の外で鳥が鳴いた。どこかで木を打つ音がしている。普請の音だ。湊が差配している現場から、風に乗って聞こえてくる。


 「堺に航路を開いたと言ったな。誰がやった」


 「倭寇上がりの商人です。某が雇いました」


 「すでに鉄砲を買い付けたのか」


 「五十丁。堺から運びました。会津の漆と蝋を堺で売り、その銀で買い付けています。往復で持ち出しはありません」


 兼続の目が細くなった。普請差配が、報告もなしに航路を開き、交易を始め、鉄砲を五十丁も買い付けていた。越権だ。斬られてもおかしくない。だが兼続は叱責しなかった。


 鼻から息を一つ抜いた。笑いではない。だが険が一つ取れた。


 「佐渡の金は景勝様のものだ。俺の一存では動かせん」


 「存じております。景勝様にお取り次ぎいただきたい」


 「取り次ぐかどうかは、お前の数字次第だ」


 兼続が文机に戻り、先ほど閉じた帳面をもう一度手に取った。


 「この帳面を預かる。佐渡の数字も入っているな」


 「入っています。佐渡から酒田への金銀輸送、堺便の損益、船の建造費、鉄砲の買い付け可能数。すべて入っています」


 兼続は帳面を開き直した。佐渡の頁を探し、指でなぞった。金の産出量。銀の産出量。月あたりの輸送可能量。堺での鉄砲の相場。数字を追う目は、先ほどの紙幣の頁のときより遅かった。一つずつ噛むように読んでいる。


 帳面を閉じた。


 「数字が通れば、景勝様に話を持っていく。通らなければ——」


 「通ります」


 兼続の目が光った。一瞬だけだった。


 「下がれ」


 湊は頭を下げ、居室を出た。障子が閉まった。廊下の板が足の裏に冷たい。春の光が障子の紙を透かして、廊下に白い影を落としていた。


 兼続の居室に、左内の帳面が残っている。


 あの帳面に穴はない。蒲生家で一万石を回していた男が組んだ数字だ。甘い見積もりを出す男ではない。金の匂いに敏く、金の重さを知り、金の動き方を体で覚えている。兼続もそれを知っている。左内をつけたのは兼続自身だ。あの男の数字を信じるかどうかは、兼続にとって自分の目利きを信じるかどうかと同じことだ。


 だが兼続が本当に見ているのは数字ではない。


 「お前は何者だ」。あの問いが二度来た。銀次の「相手は誰だ」、兼続の「お前は何者だ」。問いの形は違うが、聞いているものは同じだ。お前は何を見ている。お前は何を知っている。なぜそこまで急ぐ。


 銀次には「四方を敵に囲まれている。二年以内だ」と言えた。兼続には「負けさせたくない」としか言えなかった。兼続は上杉の中枢にいる。未来の記憶を匂わせた瞬間、湊は「何者か」ではなく「得体の知れない者」になる。得体の知れない者の言葉に、兼続は従わない。


 未来の記憶が胸の中で鳴っている。長谷堂城。千の守兵に鉄砲を持たせれば、二万の大軍が止まる。上泉泰綱が敵陣に斬り込み、討ち死にする。弁之助を鍛えているあの男が、長谷堂の土の上で倒れる。——大筒があれば長谷堂は一日で落ちる。城門を砲撃し、石垣を崩し、守兵の気力を断つ。上泉は斬り込む必要がなくなる。死なない。弁之助の師匠は帰ってくる。


 そのために鉄砲が要る。大筒が要る。佐渡の金が要る。全部が繋がっている。だがその全部の始点にあるもの——未来の記憶——だけは、誰にも見せられない。言えば楽になる。だが言った瞬間、すべてが崩れる。


 城の普請場の方角から、木槌の音が響いてきた。湊が差配している現場だ。職人たちが今日も石を積み、梁を上げている。紙幣が通れば、あの職人たちへの支払いが回り始める。小さいが、確かな一歩だ。


 廊下の角を曲がると、左内がいた。壁に寄りかかり、腕を組んでいる。待つ姿勢に焦りはない。蒲生家で何度も主君の裁定を待った男だ。待つことに慣れている。湊の足音に目を上げた。


 「紙幣は通った。蔵の一割。兼続様の許しが出た」


 左内は頷いた。当然だという顔だった。


 「佐渡は」


 「帳面を預けてきた。数字が通れば、景勝様に取り次ぐと」


 左内の目が動いた。帳面を預けた。それは兼続が数字を精査するということだ。左内の数字が兼続の目に晒される。


 「某の数字は通る。穴はない」


 声に迷いはなかった。酒田の宿で「回ります」と言ったときと同じ確信があった。だが左内はそこで言葉を切り、少し考えてから続けた。


 「ただ、兼続様が数字だけで動くとは限らん。あの方は義で動く。数字が通っても、筋が通らなければ首を縦に振らない。景勝様への話の持っていき方は——兼続様次第だ。某たちにはどうにもできん」


 四千二百石の侍の目だった。主君の器量を測り、自分にできることとできないことを分けている。この男は自分の領分を知っている。金を回すのは得意だが、主君を動かすのは別の仕事だと分かっている。


 廊下の先から、木剣を打ち合う音が聞こえてきた。一定の間隔で、止まらない。稽古場の方角だ。


 「行くぞ。普請場を回る。紙幣の話が通った以上、明日から左内殿が商人を回ってくれ。木綿問屋から始めたい」


 左内が口の端を上げた。笑みとは違う。商人と渡り合う前の、金勘定の男の顔だった。


 「木綿問屋の親父か。張り倒すと言っていた男だ。今度は某が値を決める番だな」


 湊は歩き出した。左内が横に並んだ。後ろではなく、横に。四千二百石の侍は、普請差配の後ろをついて歩く男ではない。二人の足音が廊下の板の上で重なった。


 城の外に出ると、普請場の喧騒が耳に戻ってきた。石を運ぶ声。鑿を打つ音。職人たちはまだ銭で動いている。明日からは紙で動く。


 城の奥から、木剣の音がまだ聞こえていた。打つ音と、受ける音と。誰かが誰かを鍛えている。止まらない。

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