121話:堺の男
朝の光が障子を透かしていた。昨夜の雨が上がり、酒田の港に靄が薄く残っている。潮の匂いに混じって、どこかの家で炊く飯の煙が流れてきた。
宿の二階。湊と銀次が向かい合って座っている。左内は下で荷の帳簿を整理していた。膳はまだ運ばれていない。湊が朝一番に銀次を呼んだからだ。
「昨日の続きだ。堺で会った面白い男の話を聞かせろ」
銀次は壁に背を預け、片膝を立てていた。昨夜は水夫たちと浜で飲んでいたらしく、目の下に隈がある。だが声ははっきりしていた。堺から十二日の船旅を終えた翌日に、もう次の話を聞かせろと言われている。普通なら三日は休む。だが銀次は文句を言わなかった。湊が「急いでいる」と言った一言を、体で受け止めている。
「納屋衆の一人だ。歳は四十がらみ。痩せていて、目つきが鋭い。着物は地味だが、帯の金具だけが妙に良い品だった。ああいう男は大抵、見た目と中身の桁が違う」
「どうやって繋がった」
「向こうからだ。俺が堺の鉄砲鍛冶に五十丁の注文を入れたとき、鍛冶の親方と一緒に現れた。倭寇の船を使った南方交易にも手を出していて、こちらの仲間と顔が繋がっていた。商いの話をしていたら、酒を注ぎながら聞いてきた。『庄内の商人と言うたが、会津の人間じゃないのか』と」
「名を出したのか」
「出してない。庄内の商人だと通した。だがあの男は笑っていた。鉄砲を五十丁も買う商人がただの商人じゃないことくらい、堺の男は嗅ぎ分ける」
窓の外で、鷗が一声鳴いた。靄が少しずつ薄くなり、港の輪郭が見え始めている。
「で、向こうは何者だと名乗った」
「名乗ったさ。自分から。『石田治部少輔の御用を務めている』と。三成の戦費、物資の調達を仕切っている男だ。堺の鉄砲鍛冶にも火薬屋にも話が通る。国友の鍛冶衆とも繋がりがあるらしい」
「国友」
「近江の鉄砲鍛冶の本場だ。堺と並ぶ二大産地のもう一つ。あの男は両方に顔が利く」
湊は黙った。窓の外に目を向けている。靄の中に、昨日銀次が乗ってきた船の帆柱がぼんやりと見えた。
「その男の評価を聞きたい。商人としてどうだ」
銀次は膝の上で指を組んだ。
「商人としては一流だ。数字に強い。鉄砲の相場も火薬の値も、聞く前に向こうから出してきた。堺の鍛冶の腕の良し悪しも知っている。商いの網が広い」
「だが」
「利の匂いだけで動く男じゃない。政の匂いも嗅いでいる。俺の荷を見て、俺の言葉を聞いて、俺の後ろにいる人間を読もうとしていた。あの目は、商人の目と役人の目が半分ずつ混じっている」
「危険か」
「危険ではない。だが油断はできない。こちらの正体を掴んだ瞬間、情報を三成に流す。それが仕事の男だ」
湊は頷いた。銀次の観察は正確だ。三成の御用商人。堺と国友の両方に顔が利き、南方交易にも手を出している。使えれば大きい。だが使い方を誤れば、上杉の動きが堺を通じて天下に漏れる。
「方針はこうだ」
湊は指を一本立てた。
「一つ。俺の名は出すな。上杉の名も出すな。お前はまだ庄内の商人だ」
銀次が顎を引いた。「向こうはもう嗅ぎつけている」
「嗅ぎつけていても、こちらから名乗らなければ向こうは動けない。確証のない情報を三成に上げれば、あの男自身の信用に傷がつく。だから確証が出るまでは泳がせる」
「泳がせている間に、何をする」
「荷を重ねる。次の便で漆と蝋を倍に増やす。佐渡の金も載せて、鉄砲の注文を百丁に上げる。五十丁が百丁になれば、あの男の目の色が変わる。三便目、四便目と続ければ、『この取引は手放せない』と思う」
銀次が片膝を立て直した。「利が大きくなれば、向こうも切れなくなる。商人はそういう生き物だ」
「そうなれば向こうから橋を架けてくる。こちらから架けた橋は、向こうの都合で落とされる。向こうが架けた橋は、向こうが守る。橋の主導権を渡すな。ただし——」
「ただし」
「あの男が橋を架けてきたとき、渡る準備はしておけ。国友の鍛冶衆に繋がる道は、あの男を通さなければ開かない。堺の鉄砲だけでは足りない。国友からも買えれば、二つの産地から同時に供給を受けられる」
銀次が低く口笛を吹いた。「堺と国友。二本の蛇口か」
「もう一つ頼みがある」
銀次の目が動いた。昨日の夕暮れ、湊が「もう一つ頼みたいこともある」と言っていたのを覚えているのだろう。
「堺から腕のいい鉄砲鍛冶を会津に連れてきてくれ」
銀次は膝を崩した。姿勢が変わった。
「鍛冶を雪国に呼ぶのか」
「堺では鉄砲の注文が減っている。鍛冶場で火が落ちているところがあると言っていたな」
「確かに。太閤の朝鮮出兵が終わって、大名が新しく買わなくなった。腕のいい職人ほど、仕事がなければ苦しい」
「そこに話を持っていく。上杉家お抱えの鉄砲鍛冶頭として迎える。町人から武家奉公人に身分が変わる。鍛冶場も一から建てる。弟子も道具も連れてきていい」
銀次が腕を組んだ。「鍛冶を動かすとなると一人じゃ済まないぞ。弟子が三人、四人。道具は鞴から金床から何から、船一艘分の荷になる。それに鍛冶は鉄が要る。砂鉄か玉鋼か、材料の供給も確保しなければ会津に来ても鉄砲は打てない」
「鉄は出羽の山から出る。砂鉄なら庄内の川でも採れる。玉鋼は越後から回せるかもしれないが、まずは砂鉄で始める。材料の目処は立てられる」
銀次が指を折った。「鍛冶場はどこに建てる。会津か、庄内か」
「会津だ。鉄砲を使うのは会津の兵だ。作った場所から戦場まで近いほうがいい。それに会津なら兼続様の目が届く。鍛冶の仕事を兼続様自身に見せたい。鉄砲がどう作られ、どれだけ手間がかかるか。それを知れば、鉄砲を揃える意味を理解していただける」
「なるほどな。鍛冶場そのものが、兼続殿への説得の道具になるわけだ」
銀次が天井を見上げた。「船がまた要るな。佐渡便、堺便、人を運ぶ便。全部、酒田から出る」
「だから船を造る。紙幣で」
銀次が笑った。声を出して笑ったのは、湊と付き合い始めてから初めてかもしれない。
「お前は本当に、全部繋げるな。金は佐渡、銭は紙幣、船は酒田、鉄砲は堺と会津。どれか一つ欠けたら全部止まる。綱渡りだ」
「綱渡りでも、渡り切れば向こう岸に着く」
銀次の笑いが収まった。目が変わった。昨日の夕暮れ、「どれだけ急いでいる」と聞いたときと同じ目だった。
「湊。一つ聞く」
銀次の声の調子が変わった。商人の声ではない。海の上で嵐を読むときの、船乗りの声だった。
「何だ」
「お前は戦の準備をしている。鉄砲を数百丁単位で買い、鍛冶まで会津に呼ぶ。鍛冶場を建てて自前で作るとまで言う。相手は誰だ」
障子の向こうで、鷗がまた鳴いた。港の靄はもう晴れていた。海が朝の光を受けて、青く広がっている。
湊は答えなかった。
銀次は待った。昨日より長い沈黙だった。
「……言えないなら聞かない。だが俺は商人だ。商いの先に何があるか見えていないと、船は出せない。お前が鉄砲を買う理由が戦なら、戦の形くらいは知っておきたい」
湊は窓の外を見ていた。海の上を、漁師の船が沖に向かって進んでいく。帆が朝日を受けて白く光っている。
「上杉は、四方を敵に囲まれている」
銀次の目が細くなった。
「北に最上。東に伊達。南には徳川の息がかかった連中がいる。いつ来るか分からない。だが来る」
「いつだ」
「分からない。だが——二年以内だと思っている」
銀次の指が膝の上で止まった。二年。その言葉の重さを、商人の頭で計算している。二年で鉄砲を揃え、鍛冶場を立ち上げ、佐渡の金を回し、船を増やす。全部を二年に押し込む。
問い詰めはしなかった。「二年以内」の根拠を聞くことの意味のなさを、商人の勘で悟ったのだろう。根拠を聞いても、自分にはそれを確かめる術がない。湊がそう言うなら、そうなのだ。
「分かった。堺の旦那と鍛冶の件、次の便で動く。佐渡便の段取りも考えておく」
銀次が立ち上がり、障子を開けた。階段を下りかけて、振り返った。
「湊」
「何だ」
「二年ってのは、短いな」
それだけ言って、銀次は階段を下りていった。足音が遠ざかり、下の階で左内と何か言葉を交わす声が聞こえた。
湊は一人になった座敷で、膝の上に手を置いたまま動かなかった。
銀次に話した。四方を敵に囲まれていると。二年以内だと。言えることの限界がそこだった。
未来の記憶が告げている。最上義光は七千余の兵しか持たない。伊達政宗は援軍を出しても傍観する。数の上では上杉が圧倒する。だが数で勝っても城は落ちない。最上は鉄砲を二千挺持っている。少数でも鉄砲で城に籠もられたら、どれだけ兵を集めても門は破れない。畑谷城で三百五十の守兵に千の死傷者を出し、長谷堂城で千の守兵に二万の大軍が止められる。——その光景が、湊の頭の中にある。言えない。なぜ知っているのかを説明できないからだ。
鉄砲では城は落ちない。大筒が要る。城門を砲撃し、石垣を崩し、守兵の気力を叩き折る力が。それがなければ、二万の兵を預かっても兼続は長谷堂で足止めを食う。歴史が繰り返される。
だが銀次は動いた。「二年ってのは、短いな」と言って、階段を下りていった。あの一言に、問い詰めない代わりに全力で走るという意思が入っていた。商人の信頼は言葉ではなく、態度に賭けられる。銀次はそういう男だ。
左内もそうだ。昨夜のうちに、佐渡からの金銀輸送の試算と船大工への紙幣払いの工程表を全部数字にしていた。あの男は理由を聞かない。数字が回るかどうかだけを見ている。数字が回ると確信すれば、「回ります」と言って動く。
二人とも、湊が何を知っているかは聞かない。湊が何をしようとしているかだけを見て、自分の持ち場で動く。
それが、ありがたかった。
同時に、苦しかった。この二人に嘘をついているわけではない。だが全部を話してもいない。未来の記憶を持つ者の孤独は、嘘ではなく沈黙の中にある。聞かれて答えないことの重さが、日を追うごとに増していく。
銀次は「二年」という数字を受け取った。左内は「数字は揃いました」と言った。二人とも、湊の沈黙の向こう側に何があるかを想像しているはずだ。だが踏み込まない。踏み込まないことが、この二人なりの信頼の形なのだろう。
その信頼に、いつか応えなければならない。全部を話す日が来るのか。来ないのか。それすらも分からない。
階段を上がってくる足音。左内だった。帳面を持っている。
「湊殿。数字は揃いました」
左内は帳面を広げた。佐渡から酒田への金銀輸送。月一便で金何枚、銀何枚。堺での鉄砲買い付け可能数。船の建造費と紙幣での支払い工程。兌換に必要な米の量と、現在の上杉の蔵米との比率。木材の調達先と船大工の人数。一晩で全部やったのか。いつ寝たのだ。
「蔵米の一割を兌換原資に充てれば、船二艘分の建造費を紙幣で賄えます。佐渡の金銀を月一便で酒田に運び、堺便に載せれば、鉄砲は月に百から二百丁の買い付けが可能です」
左内の声は淡々としていた。数字を読み上げているだけだ。だがその数字の裏に、昨夜一晩分の筆の走りがある。
「回ります。あとは兼続様次第です」
湊は帳面の数字を一つずつ目で追った。左内の字は小さいが整っている。数字の並びに迷いがない。
「左内。兼続様に会ったら、この帳面をそのまま見せる。お前の数字が、俺の言葉より説得力がある」
左内は一瞬だけ目を見開いた。それから帳面を閉じ、丁寧に懐に仕舞った。
宿を出ると、朝の光が港に満ちていた。靄はすっかり晴れ、海が空と同じ青さで広がっている。浜では銀次がもう水夫たちと船の準備を始めていた。帆を張り替え、綱を結び直している。次の堺便のためではない。佐渡へ渡る段取りだろう。昨日の話を聞いてから、もう動いている。
左内が馬を引いてきた。会津まで二日。兼続への掛け合いが待っている。佐渡の金を交易に回すこと。年貢米を紙幣の裏付けにすること。二つ同時に。
兼続様は数字で動く人ではない。義で動く人だ。上杉の武を強くするために佐渡の金を使うと言えば、耳を傾ける。だがその先に「なぜ急ぐ」と聞かれたとき、また沈黙するしかない。銀次に答えられなかったのと同じ問いが、兼続様からも来る。
「馬を飛ばすぞ」
「また尻が痛くなりますね」
「帳面は馬の上でも書けるだろう」
「……やります」
左内が馬に跨った。帳面を懐に押し込み、手綱を握る。その横顔に、昨日宿の座敷で「回ります」と言ったときの硬さが残っていた。数字を確信した男の顔だ。
湊も馬に乗った。
振り返ると、港の向こうに海が広がっている。銀次の船の帆柱が、朝日の中で一本、まっすぐに立っていた。あの船が次に堺へ向かうとき、佐渡の金が載っている。鉄砲百丁の注文書が載っている。そして堺の「面白い男」が、もう一度銀次の前に現れる。
馬を酒田の街道に向けた。会津へ。兼続様が待っている。




