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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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121/201

120話:春の帆

 酒田の港に、春の風が吹いていた。雪解け水で最上川が膨れ上がり、河口に泥の匂いが溜まっている。干された網が風に揺れ、浜に打ち上げられた海藻の間を、蟹が横向きに走っていた。三月。日本海はまだ冷たいが、空の色だけが冬と違っていた。


 湊と左内は、港を見下ろせる番小屋の前に立っていた。会津を発って二日。馬を飛ばしてきたせいで、左内の尻はまだ痛んでいるらしく、立ったまま帳面を広げている。


 会津城下の商人十二軒が紙幣の試験受入に同意した報告。木綿問屋、蝋燭屋、米穀商。だが左内の声には焦りが混じっていた。


 「同意はしております。しかし、いざ紙を渡したとき米に戻せるのかと問われれば、裏付けがありません。兌換の原資がなければ、紙はただの紙です」


 「分かっている」


 「木綿問屋の主人に言われました。『紙で払いますと言って、三日後に米に換えられなかったら、わしはお前を張り倒す』と」


 「そう言う商人ほど、うまくいけば一番に乗ってくる」


 「そうでしょうか」


 「銭に厳しい奴は、銭の流れに敏い。紙幣が回り始めたら、真っ先に使い道を考えるのはああいう男だ」


 左内は帳面の数字を睨んでいた。原資の目処が立たなければ、この数字は全部絵に描いた餅になる。紙幣の受入に同意した十二軒の商人たちは、左内の顔を見て同意したのではない。上杉という名前に頷いただけだ。いざ紙を渡して米に換えられなかった日、上杉の信用ごと崩れる。


 この冬、倭寇交易が成立した直後、湊は銀次に新たな指示を出していた。南方ではなく、まず堺への沿岸航路を開け。日本海を南下し、下関を回って堺に入るなら片道十日から二週間。畿内との定期的な物流線。それが湊の狙いだった。銀次は正月に酒田を発った。約束は「雪が解けたら」。もう二ヶ月になる。


 左内が帳面を閉じ、港の水平線に目を向けた。波が陽の光を弾いて白く砕ける。遠くに漁師の小舟が二艘、浮かんでいた。


 「銀次殿は、本当に堺まで行けたのでしょうか」


 「行けた。銀次は約束を破らない」


 「根拠は」


 「あいつの歩き方だ。金を掴んだ男は、帰る道を間違えない」


 左内には意味が分からなかっただろう。だが湊には確信があった。倭寇の中で生き残ってきた男の嗅覚。銀次にはそれがある。


 浜のほうで声が上がった。見張り番が沖を指している。


 「帆だ! 帆が見える!」


 水平線の際に、小さな白い点が浮かんでいた。左内が目を凝らしたが、湊はもう歩き出していた。浜への坂を下りながら、風の向きを確かめる。南西の風。堺から戻るなら、この風に乗る。


 帆の形は見覚えのある倭寇仲間の関船だった。湾に入り速度を落とすと、舳先に立つ影が手を振った。潮焼けした顔に、白い歯が覗く。


 銀次だった。


 船が浜に寄せられ、水夫たちが綱を引く。銀次は船縁を跨いで浅瀬に降りた。膝まで海水に浸かりながら歩いてくる。髪は潮で固まり、着物の裾は塩を吹いている。頬が削げ、顎の髭が伸びていたが、足取りは軽い。左内が浜に駆け下り、銀次の荷を受け取ろうとしたが、銀次は笑って「先に見ろ」と船の荷を指した。


 「待たせたな、湊」


 「遅い。あと三日来なければ、別の手を考えるところだった」


 「堺の商いが思ったより伸びた。値を叩くのに三日余計にかかった」


 銀次が水夫に荷降ろしを指示した。木箱が次々と浜に運ばれる。生糸の束。火薬の樽。そして細長い木箱が幾つも。左内が一つの蓋を開け、中を覗いた。油紙に包まれた火縄銃が、整然と並んでいる。


 「五十丁。堺の鍛冶が作った新品だ。火薬と鉛も積んできた」


 左内の指が銃身を撫でた。鉄の冷たさと油の匂い。戦道具だと頭では分かっていたが、実物を目の前にすると空気が変わる。


 「会津の漆と蝋は堺で飛ぶように売れた。塩鮭と干鮑もな。畿内の連中は東国の海産物に目がない。売った銀で鉄砲と生糸を買い付けた。行きの荷で帰りの荷が賄える。持ち出しはない」


 左内が帳面を出し、銀次の言葉を書き留めながら数字を弾いた。漆の仕入れ値と堺での売値。その差と鉄砲の買い付け費用。唇が動いている。声にならない計算を、体が勝手にやっている。


 「往復で持ち出しなし。これが毎月回れば……」


 「回せる。航路はもう掴んだ。それと——堺で面白い男に会った。詳しくは後で話す」


 湊は五十丁の木箱を見つめていた。上出来だ。だが足りない。圧倒的に足りない。それを口にはしなかった。


 港近くの宿。二階の座敷で三人が膳を囲んだ。窓の外に港が見える。銀次の船から荷を運ぶ水夫たちが、蟻のように浜を行き来していた。銀次は飯を三杯平らげ、汁を二杯啜ってから、ようやく箸を置いた。左内はその間も帳面から目を離さなかった。


 「航路はこうだ。酒田を出て、日本海を南へ。能登沖で一泊、下関で補給して瀬戸内に入る。堺まで十二日。戻りは潮次第で十日から十四日。月に一便は回せる」


 「頻度を上げたい。船をもう一艘造って月二便にする。鉄砲の注文も桁を変える。五十ではなく、数百の単位で買いたい」

 銀次が眉を上げた。「数百。金はどうする。産物を売った分だけじゃ、五十丁が精一杯だったぞ」


 「佐渡だ」

 左内が顔を上げた。銀次の箸が止まった。


 「佐渡の金銀山は今も上杉の領だ。太閤から直々に金銀山の支配を任されている。越後は手放したが、佐渡は残った。あそこから出る金と銀は、諸大名の中でも群を抜いている。全大名の金の三割、銀に至っては六割が佐渡から出ている」

 銀次の目の色が変わった。商人の顔になっている。


 「佐渡か……。庄内から海を渡ればすぐだ。順風なら一日で着く。だが——」


 銀次は一度言葉を切った。茶碗を持ったまま、窓の向こうの港を見ている。


 「佐渡の金は上杉の蔵に入っている。俺のような余所者が触れる金じゃない。兼続殿の許しが要るぞ」


 「分かっている。兼続様には俺が掛け合う」

 「掛け合って、出るのか」

 「出させる」

 銀次はしばらく湊の顔を見ていたが、やがて茶を啜った。それ以上は聞かなかった。


 「佐渡から金銀を酒田に集め、酒田から堺に送る。堺で鉄砲と物資を買い付けて酒田に戻す。酒田がすべての線の結び目になる」


 銀次が首を傾げた。「だが船がもう一艘は要る。佐渡から酒田への金銀便と、酒田から堺への交易便と。今は仲間に借りた一艘だけだ」


 「船は造る。庄内には船大工がいる」


 左内が口を挟んだ。「費用は」


 「紙幣で払う」


 座敷が一瞬静まった。左内が湊を見つめる。


 「紙幣の裏付けは、上杉の年貢米だ。兼続様に掛け合う。年貢米の蔵の一部を兌換原資に充てさせてくれと。紙を持ってきた者には、いつでも蔵の米を渡す」


 左内の声が低くなった。「……米が裏付けなら、確かに信じられます。上杉の蔵に米がある事実は城下の誰もが知っている」


 「船大工への報酬を紙幣で払う。大工が紙幣で飯を買い、飯屋が紙幣で米を仕入れ、米屋が蔵で米に戻す。流れを作れば、紙は銭になる」


 左内が首を振った。「しかし、船大工が紙を受け取りますか。木を削る連中は腕に自信がある分、気も荒い」


 「だから左内が最初に回れ。紙を持っていけばいつでも米に換えると、顔を見せて約束しろ。帳面の数字ではなく、左内の顔が担保になる」


 左内は黙った。自分の顔が担保。帳面の向こう側で数字を弾いていた男に、湊は帳面の手前に立てと言っている。


 銀次が膝を叩いた。「つまり、紙は国の中で回す。佐渡の金は外で使う。別の銭が、別の場所で回るわけだ」


 「そういうことだ。堺との取引に年貢米は持ち出さない。紙幣は会津の中だけで完結する」

 左内は帳面の上で数字を組み替えていた。目が据わっている。紙幣の兌換原資として必要な米の量。船一艘を造るための工賃。木材の調達。数字の中に仕組みの形が見え始めたのだろう。やがて筆を止め、帳面を膝に置いた。


 「回ります」


 声が低かった。数字を積み上げた末の、確信の声だった。


 銀次が茶を啜った。「で、堺の旦那にはどうする。金を増やすなら、向こうにも話を通さないと回らないぞ」


 「それは明日話す。堺の旦那のことも、もう一つ頼みたいこともある」

 銀次がちらりと湊を見た。


 「湊。一つ聞いていいか」


 「何だ」


 「どれだけ急いでいる」


 湊は答えなかった。窓の外の海を見ている。銀次は待った。波が三つ、四つ、浜に打ち寄せた。


 「……急いでいる」


 それだけだった。銀次はそれ以上聞かなかった。商人の勘で、踏み込む場所と引く場所を分けている。だが目の奥に、何かを読み取った光があった。


 銀次と左内が下で荷の仕分けに戻った後、湊は二階に残って海を見ていた。窓から入る風は、もう冬の刃ではない。湿り気を含んだ春の風だった。座敷には銀次が食い散らかした膳がそのまま残っている。飯粒の一つも残していない。あの食い方は銀次らしかった。


 「どれだけ急いでいる」


 銀次の問いが、まだ耳に残っている。


 五十丁。


 金はある。佐渡の金銀がある。諸大名の中で群を抜く産出量。堺で鉄砲を買う金に困ることはない。


 だが足りないのは、時間だ。


 未来の記憶が、胸の奥で鳴っている。上杉の弱点は攻城能力の欠如だ。野戦では強い。だが城を囲んだとき、落とす手段がない。力攻めを繰り返して兵を消耗し、時間を失う。それが歴史の中で何度も繰り返された。謙信公以来、上杉は騎馬と槍の軍だった。鉄砲を揃えるという発想そのものがなかった。その伝統が、そのまま弱点になっている。


 鉄砲がいる。大筒がいる。桁が違う数が要る。今日の五十丁は始まりにすぎない。金で職人を動かし、金で船を増やすことはできる。だが鍛冶が鉄砲を打つ速さは変わらない。船を造る日数も変わらない。金で縮められる時間と、縮められない時間がある。


 兼続様を説得しなければならない。佐渡の金銀を堺交易に注ぎ込むこと。年貢米の一部を紙幣に回すこと。どちらも上杉家の蓄えの使い方を根本から変える話だ。普請差配の立場で頼めることの限界を超えている。


 しかも全部は言えない。なぜこれほど急ぐのか。なぜ鉄砲の数にこだわるのか。その理由の核にあるものを、口にすることはできない。


 言えることだけを言う。上杉は鉄砲が少なすぎる。城を攻める力がない。——兼続様も感じているはずだ。越後時代、何度も城攻めで苦しんできた。あの人は自分の軍の弱さを知っている。知っているからこそ、聞く耳を持つ。


 ふと、弁之助のことを思い出した。八代から文が来ていた。「飯を三杯食って、倒れるまで振って、起きたらまた振っている」。あの「暗くなる」としか言えなかった少年は、まだ振る理由を見つけていないだろう。だが振ることだけは止めていない。


 鉄砲も大筒も、結局は人が使う。道具を揃えるのは俺の仕事だ。


 海の上を、白い鳥が一羽、風に乗って沖へ消えていった。


 夕暮れ。浜に下りると、銀次が船の修繕を指示していた。板を張り替え、帆の綻びを繕っている。水夫たちが船底の貝殻を削り落とす音が、波の間に混じる。次の堺便は来月。佐渡の金を載せて、鉄砲の注文を百丁に上げる。初めての定期便になる。


 銀次が水夫に声を飛ばしながら、こちらを見ずに言った。


 「明日の話、楽しみにしてるぜ」


 湊は答えず、浜の先の海を見ていた。明日、銀次にもう二つ頼む。堺から鉄砲鍛冶を連れてくること。そして堺で出会ったという「面白い男」を、もう一段深く探ること。


 左内が湊の横に歩み寄った。帳面はもう閉じている。潮風で紙の端がめくれるのを、手で押さえていた。


 「湊殿。帰ったらすぐ動きます。商人への説明は某が回ります。年貢米の件と佐渡の件、兼続様への掛け合いはお任せしてよろしいですか」


 「俺がやる。二つ同時に頼む。断られたら——別の言い方を考えるだけだ」


 「木綿問屋の主人にも、今度は張り倒されずに話ができそうです」


 左内の横顔に、以前とは違う硬さがあった。数字を追う目ではない。仕組みを守る者の目だった。


 波打ち際で銀次が振り返り、声を飛ばした。


 「湊! 次は堺の菓子でも買ってくるか! 南蛮渡りの金平糖ってのがあるらしい!」


 湊は片手を上げて応えた。銀次の声が波にかき消されかけたが、笑い声だけが風に乗って残った。


 酒田の港に潮の匂いが満ちている。雪解け水が最上川から海に注ぎ、灰色だった水面が春の空を映して、少しだけ青みを帯びていた。


 庄内から堺へ。佐渡から酒田へ。海の道が繋がり始めた。

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