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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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11話:決める者の重さ、逃げぬ者の道

翌朝の空気は、冬の名残を含んだように冷たかった。

 湊は深呼吸を一つし、城の広間へ向かう廊下を歩いていた。


 昨夜は眠れぬほど緊張したわけではない。

 けれど胸の奥で、ざわりと小さな波が立ち続けている。


 ——今日、僕はどう評価されるんだろう。


 その問いに、弥藤は隣で静かに歩きながら答えた。


「湊さま。昨日の働きを見れば、悪く取る者はおりますまい」


「……分かってるけどね。やっぱり、緊張するよ」


「緊張は、責任を背負う者の証でございます」


 涼しい顔でそんなことを言うから、少し救われる。


 やがて広間の前へ辿り着くと、侍番が襖をゆっくりと開いた。


「御入室くだされ」


 湊は唾を飲み込み、一歩踏み出した。



 広間には三名の家老が座していた。

 中央には宮森主膳。

 その両脇を、年嵩の家老と、細身で眼光鋭い家老が固めている。


 その眼光の鋭い男——梶浦という家老が、湊を見るなり、眉をしかめた。


 嫌な気配を感じた。


 主膳は穏やかに口を開いた。


「湊。巡察の働き、ご苦労であった」


「恐れ入ります」


「十日前とは、見違えた。弥藤からの報告も、そなたを高く評価するものばかりだ」


 静かな言葉が胸に染みる。


 だが次の瞬間、横の梶浦が鋭く言った。


「——だが、その“働き”とやら、本当に褒めてよいものか?」


 空気が一瞬止まった。


 主膳が目だけで梶浦を制そうとしたが、梶浦は意に介さない。


「民の家へ勝手に踏み入り、女に触れ、倒れた者に素人判断で処置をした。これは軽い話ではないぞ」


 弥藤が湊の後ろで息を呑むのが分かった。


 湊は反論すべきか迷った。


「……勝手に、ではありません。娘さんが助けを求めて……」


「娘が泣いて頼めば、誰にでもついていくつもりか?」


 声は低いが、刃のように冷たい。


 主膳が静かに言った。


「梶浦、それは言い過ぎだ」


「そうでしょうか。私はむしろ、この“甘さ”こそ問題だと考えますが」


 甘さ——

 その言葉が胸に刺さった。


「“優しい”だけでは務まらぬ。

 情に絆され、軽率に踏み込めば、賊に利用されることもあろう。

 この国では、正しさより“慎重さ”の方が人を守る場合が多い」


 湊は拳を握りしめた。


 梶浦の言いたいことは、分かる。

 分かるが——昨日の娘の涙、母の弱い呼吸が頭に浮かぶ。


 湊は唇を結び、迷いながらも声を出した。


「……確かに、僕は慎重さに欠けていたかもしれません。でも、助けを求める人を前にして、目を逸らすことはできませんでした」


 梶浦の眼光がさらに鋭くなる。


「“逸らせぬ”とは、なんと危うい言葉か。

 それでは己が情に流されるのみで、民を導く器ではない」


「違います!」


 湊の声が響いた。

 自分でも驚くほどまっすぐな声だった。


「僕は……僕は、情だけで動いているわけじゃありません。

 危険があれば庁へ報告するつもりでしたし、ひとりで判断しようとしたわけでもない。

 ただ、放っておいたら母親が命を落とすかもしれない。その可能性を考えたら……どうしても、足が勝手に動いてしまったんです」


 梶浦はしばし沈黙し、やがて低く言った。


「……やはり甘い」


 その瞬間——


「甘さではございませぬ」


 弥藤が前へ出た。

 湊の袖を掴むようにして止めたい衝動をこらえ、姿勢を崩さず頭を下げる。


「湊さまは、危険を顧みず民を救われました。

 その行いは、我ら武士が本来果たすべき役目。

 甘さではなく“覚悟”でございます」


「覚悟、とな?」


「はい。見捨てぬ、逃げぬ、向き合う……それは容易いものではございません。

 湊さまは、十日の間にその覚悟を手に入れられた」


 梶浦の眉がぴくりと動く。

 だが反論はしない。


 主膳が緩やかに息をつき、


「この件は、問題なしとする。

 湊よ、これからも判断には注意を払え。しかし——」


 主膳は湊の目をじっと見た。


「弱き者を見捨てぬ心を忘れてはならぬ。

 それは、そなたの強さの根であろう」


 湊は深く、深く頭を下げた。


「……はい!」



 面談を終え広間を出た湊は、張りつめていた肩の力が抜け、その場に座り込みそうになった。


「湊さま……」


 弥藤がそっと寄り添う。


「ありがとう、弥藤。君が庇ってくれなかったら、僕……」


「庇ったのではありません。真実を申しただけです」


 その言葉は、湊の胸に静かに落ちた。


 だが次の瞬間、


「——あれが“真実”? 笑わせるな」


 背後から嘲るような声がした。


 振り向くと、廊下の柱にもたれるようにして、

 若い武士がこちらを見ていた。


 鋭い眼、棘のある立ち姿。

 明らかに“敵意”を隠すつもりがない。


「民を庇って功を立てた気か。

 お前みたいな甘っちょろい若造が、上に立てると思うなよ」


 湊は息を呑む。


 弥藤が即座に湊の前に立った。


「八代どの。言葉が過ぎます」


「ふん、何とでも言え。俺は上から言われたことを代わりに伝えただけだ。

 ——湊。お前のやり方が気に入らぬ者は多い。せいぜい背中に気をつけるんだな」


 八代と呼ばれた男は、鼻で笑い去っていく。


 その足音を聞きながら、湊の胸にじわりと冷たい汗が滲んだ。


「……弥藤。僕、嫌われてるの?」


「湊さま。“正しいこと”をすれば、敵は必ずできます」


「正しい……のかな」


「はい。

 ですが、今の言葉を真に受ける必要はございません。

 湊さまが揺らげば、それこそ相手の思うつぼ」


 湊はゆっくりと頷いた。


 ——初めての“反感”。

 それは、昨日の救助よりずっと胸を締めつけた。


 だが逃げたくはなかった。


 逃げないと決めたから。


「……僕、間違ってないよね?」


「はい。湊さまは、強くなっておられます」


 その言葉が、湊の胸をまた一度支えた。


 だが、この“揺らぎ”はまだ序章にすぎない——

 そんな予感が、静かに湊の背を撫でていた。

昼下がり。

 面談を終えたあとも、湊の胸の内には、梶浦と八代の言葉がいつまでも残っていた。


(甘い……か)


 十日前なら、ただ刺さるだけの言葉だったろう。

 だが今は違う。

 甘さを責められながらも、その甘さの中に守るべきものがあると、薄々感じている。


 ——それでも、揺れはする。


「湊さま。本日の巡察、どうなさいますか?」


 弥藤の問いかけに、湊は立ち止まった。


「行くよ。今日も町の声を聞きたい」


「畏まりました。では、本日は南側の町並から――」


「……その必要はない」


 廊下の先から、聞き覚えのある声がした。


 八代である。

 腕を組み、こちらを見下ろすように立っていた。


「城代より命があった。

 今日の巡察には、俺も同行する」


「八代どのが……?」


 弥藤の眉がわずかに寄る。

 湊も、胸の内にひやりとしたものを感じた。


「何か、不都合か?」


「いえ。ただ――」


「よかろう。案内は任せる。

 清原湊、だったな。お前の“働きぶり”を、この目で見させてもらう」


 挑むような視線。

 その眼差しには、好奇心ではなく、あからさまな“値踏み”が込められていた。


「……分かりました。一緒に行きましょう」


 湊は、静かにそう答えた。



 城を出ると、昼の日差しが石垣を白く照らしていた。

 城下の通りには、荷を運ぶ人々や物売りの声が満ちている。


 いつもと変わらぬ景色。

 だが、背後に八代の気配を感じるだけで、空気が少し違って見えた。


「まずはどこへ向かう?」


 八代がぶっきらぼうに尋ねる。


「南の町並……水路沿いの集落の様子を見たいと思ってます。

 十日前の用水争いで、まだしこりが残っているはずなので」


「ほう、“しこり”と言い切るか。

 面倒な場所を選ぶ」


 皮肉とも取れる声音。

 だが湊は、そこに真正面から向き合うと決めていた。


「問題が残っているところから見るのが、巡察の役目だと思うから」


 八代は何も答えず、ただ「ふん」と鼻を鳴らした。



 川沿いの小さな集落に着くと、用水の分岐点に数名の男たちが集まっていた。

 顔ぶれは見覚えがある。十日前、声を荒げていた両方の村の代表たちだ。


「清原さま……」


 一人が、こちらに気づいて気まずそうに頭を下げた。

 もう一人は、露骨に視線を逸らす。


「今日は、争いに来たわけじゃありません。様子を見に来ただけです」


 湊は柔らかく声をかけた。


「先日の件、その後はどうですか?」


 二人は顔を見合わせ、重い口を開いた。


「……一応、水の配分は決め直したんですがね」


「だが、上流の村がやっぱり多く持っていく形になりまして」


「こっちだって、田を休ませれば飢える家が出ます。上杉さまのお膝元で飢えたなんて言われたら、申し訳が立ちません」


 それぞれの言い分は、どちらも切実だった。


 湊は分岐点に立ち、水の流れをしばらく黙って見つめた。


 上流の堰から落ちる水。

 その一部が右の水路へ、残りが左の水路へ流れていく。


(配分を変えただけでは、根本は解決していない……)


 湊は膝を折り、石の位置や水の勢いを確かめた。


「このあたり……夜になると、誰かが石を動かしている気配はありませんか?」


 問いかけると、二人が同時に目を逸らした。


「さぁ……どうでしょうな」


「こっちがやったなんて言われたら困りますし」


(やっぱり、どちらか、あるいは双方が“こっそり”動かしている可能性が高い)


 湊は深く息をついた。


「全部、見直しましょう」


「見直す?」


「はい。

 今の田の数、家の人数、子どもの数、去年の収穫……それを全部出してもらって、一度“白紙”に戻して考えたい」


 二人の顔に、うんざりした色が浮かぶ。


「そんな、面倒な」


「せっかく決め直したのに、また?」


 背後で、八代がやれやれと肩をすくめた。


「清原。そんな細工に、何の意味がある。

 上流が多く取る。下流が我慢する。

 古くからそうやってきた土地はいくらでもある」


「でも、それでは納得していないから、争いが起きたんですよ」


「納得など、させるものではない。

 上から命じればよい」


 きっぱりとした言い方だった。


「“上意”を通すのが武士の役目だ。

 民の言い分をいちいち聞いていては、物事は決まらぬ」


 湊は、堰に落ちる水音を聞きながら考えた。


(……それも、一理ある)


 現代でも、全員が納得する決定など滅多にない。

 強引でも決めなければならない場面はある。


 だが——


「上意だけで押さえつけて、心の中に火種を残すのは危険です。

 十日前の騒ぎは、その火種が噴き出した結果じゃないんですか?」


 八代の目がすっと細くなる。


「ではお前は、どうするつもりだ?」


「記録を出してもらって、流れを測って……

 田の数と人の数を、できるだけ公平に見て配分を決めたい。

 両方の村に、“これなら仕方ない”と思ってもらえる形を探します」


「甘いな」


 今度の「甘い」は、先ほどより冷たかった。


「そんなことをしているうちに、田は乾き、稲は枯れる。

 決めねばならぬ時に、決められぬ者。

 それが一番、害になる」


 男たちも、不安そうな顔で湊を見た。


「そりゃあ、公平に見てくれるのはありがたいですが……」


「田んぼは待ってくれません。今日、どれだけ水を引けるかが大事で……」


 湊は、胸が締めつけられる感覚を覚えた。


(時間がない……)


 公平でありたい。

 だが判断には猶予がない。


 どちらかを待たせれば、確かにその日の稲が危うくなる。


「清原。

 俺なら、上流に命じてこう言う」


 八代が、わざとらしくゆっくりと告げた。


「『今年は下流を優先する。来年、天候がよければ、その分を上乗せしてやる』

 これで終いだ。

 不満は出るが、命じれば従う。

 “武士の言葉”とは、そういうものだ」


 男たちの表情が揺れた。


「来年……本当に上乗せしてもらえるなら……」


「いやしかし、天候しだいと言われると……」


 ぐらりと、こちらの足元まで揺らぐ。


(……たしかに、早い。分かりやすい。

 でも、“来年”にそれが守られる保証は?)


 武士の約束が常に守られるなら、世の中これほど不満は溜まらない。


「八代さま。そのお言葉、嘘はございませんな?」


 下流の男が、おそるおそる尋ねた。


「俺は嘘はつかぬ。

 だが、“俺の知らぬところで何が起きるか”までは保証せん」


「それじゃ話になりません!」


 湊の声が、思わず強くなった。


 八代が、ぴたりとこちらを見る。


「……言ったな」


 睨みつけるような眼光。

 弥藤が、一歩湊の横へ出た。


「八代どの。湊さまは――」


「弥藤。

 お前は黙っていろ」


 ばっさりと切り捨てる一言。

 その冷たさに、弥藤でさえ口を閉ざした。


「清原。お前は、この場で決められるのか?」


 八代の声には、試すような色があった。


「田は待たぬ。

 水は流れ続ける。

 “正しさ”だの“公平”だの、そんなものは後からいくらでも語れる。

 だが、今日ここで決めねば、明日の稲は枯れる。

 その重みが、分かっているか?」


 湊の喉が鳴った。


 分かっている。

 頭では、とっくに分かっている。


(でも……だからといって、適当に決めるのは違う)


 心の中で、二つの声がせめぎ合う。


 “早く決めろ”という声。

 “ちゃんと見ろ”という声。


 今までの巡察では、悩みながらも、最後には一本の道が見えた。

 だが今回は、どちらも痛みを伴う。


(どうする……?)


 沈黙が、じわじわと重く広がっていく。


 そのとき――


「清原さま」


 弥藤が、小さく囁いた。


「本日で、すべてを決める必要はございません。

 “仮の策”と、“本決めの策”を分けて考えては?」


 湊の目がわずかに開かれた。


(……そうか)


 全部を一度に決めようとするから、足がすくむ。

 今日必要なのは、「今夜までの稲を守る策」。

 本当の公平を決めるのは、その後でも遅くない。


「……分かった」


 湊は顔を上げた。


「今日の水配分は、十日前に決めたもののまま。

 ただし――」


 二人の代表に、向き直る。


「今夜から三日間、両方の村で田の様子を見てください。

 枯れかけた田の数、苗の高さ、家族の人数……できる限りの記録を、三日後に僕のところへ持ってきてほしい」


「三日……?」


「その記録をもとに、“来年以降も続けられる配分”を一緒に考えます。

 武士の言葉だけではなく、皆さん自身の目で見た数字を並べたうえで」


 八代が鼻で笑った。


「三日も待てば、その間に不満が爆ぜるかもしれんぞ」


「爆ぜるなら、“今”でも爆ぜます。

 心の中に火種が残ったままでは、いつか必ず燃え上がる。

 だから、火種ごと出してもらいたいんです」


 男たちは、難しい顔をしていた。

 だが先ほどよりも、どこか“話を聞こう”とする気配がある。


「三日後……必ず顔を出してくれますか?」


「……分かりました。こっちの村は、出します」


「俺たちも、出します。

 数字ってやつが、どれほど役に立つかは分かりませんがね」


「ありがとうございます」


 湊は深く頭を下げた。


(完璧な答えじゃない。

 でも、今の自分が出せる限りの精一杯だ)



 村を離れ、帰り道。

 川沿いの土手を歩きながら、八代がぽつりと言った。


「……筋は悪くない」


「え?」


「いきなり田の数や家の数を持ち出した時は、また机上の理屈かと思ったが……

 “仮”と“本決め”を分けたのは、悪くない。

 あれなら、三日のあいだに俺たちも動きようがある」


 意外な言葉だった。


「じゃあ……少しは認めてもらえた?」


「勘違いするな。

 お前のやり方が気に入ったわけではない」


 ぴしゃりと切り捨てる。


「ただ……“決めずに逃げる”という最悪の道を選ばなかったことだけは、評価してやる」


 それが、八代なりの精一杯なのだと感じられた。


「八代どの」


 弥藤が、恐る恐るといった様子で口を開いた。


「先ほどの場で、もし湊さまが何も決めず引き下がっておられたら……?」


「俺が勝手に決めていた」


 あまりにもあっさりと言う。


「お前たちの“巡察”など無視してな」


 湊は苦笑した。


「それはそれで……村の人たち、納得しなかっただろうね」


「納得させるのが、武士の仕事だ」


 八代は空を仰いだ。

 薄雲の切れ間から、白い光が差し込んでいる。


「覚えておけ、清原。

 “決める”というのは、嫌われることだ。

 誰もが笑っている決定など、この世にない」


「……分かってる」


「ならば、そのうえでどう動くかだ。

 今日のように、せめて“仮”だけでも決めるのか。

 それとも、うろうろして時間だけ浪費するのか」


 湊は、その言葉を胸の中で何度もなぞった。


(決める、か)


 現代でも、自分はどれだけ「決める」ことから逃げてきただろう。


 波風を立てぬように。

 誰かに嫌われぬように。


 だが、ここでは――

 嫌われることから逃げていては、何も守れない。


「……ありがとう、八代さん」


「礼を言われる筋合いはない」


 そっけなく言い捨てるその横顔は、どこか寂しげにも見えた。



 夕刻。

 城へ戻ると、宮森主膳から呼び出しがかかった。


「用水の件、聞き及んだ」


 主膳は、湊の報告を黙って聞き終えると、短く言った。


「決めきれぬかと思ったが……“仮”であれ決したか。

 よくやった」


「……ありがとうございます」


「お前のやり方は、時に遠回りであろう。

 だが、その遠回りゆえに見えるものもある。

 その目を、易きに流して鈍らせるな」


 主膳の言葉が、静かに胸に沈んでいく。


「はい。僕なりに、逃げずに決めていきたいと思います」


「それでよい」


 主膳は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「それと――」


「はい?」


「八代のことだがな。

 あれはああ見えて、不器用なまでに真っ直ぐな男だ。

 気に入らぬ相手には刃を向けるが、一度認めた者には、誰よりも剣を振るう」


「……そんなふうに見えませんでした」


「見えぬように振る舞っているだけだ。

 そのうち、分かる時が来よう」


 主膳は、湊の手元に視線を落とした。


「筆を握る手が震えておらぬか、清原」


「……少しだけ」


「ならば、よい震えだ。

 逃げぬ者の手は、いつだって震えている」


 その言葉に、湊は自然と背筋を伸ばしていた。



 部屋へ戻ると、窓の外には鱗雲が薄く広がっていた。

 夕暮れの光を受けて、細かな影が空いっぱいに散っている。


(予兆の雲、か)


 明日、何が起こるかは分からない。

 用水の件も、まだ始まりにすぎない。


 だが――


(僕はもう、“決めないで済ませる側”には戻らない)


 湊は、机の上の紙を広げた。


 今日の巡察の記録。

 八代の言葉。

 村人たちの表情。


 一つひとつを書き記しながら、胸の奥で小さな炎が静かに燃え続けていた。


 弱さを抱えたまま、それでも前へ進もうとする炎。

 それが、清原湊という“武士ではない武士”の、最初の武器になろうとしていた。

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