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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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117話: 剣の匂い

 正月の雪が薄く光を返していた。空は澄み、風は冷たいのに、陽だけは妙に柔らかい。城下は正月の飾りをまだ残し、餅の匂いと子らの笑い声が白い息の中に溶けていた。


 兼続の屋敷に入ると、炭の匂いが静かに広がった。廊下の奥では人の気配がゆっくりと動いている。湊は書付を胸に抱え、座敷へ通された。


 「左内より、これが今朝の数字です」


 帳面を開くと、穀、銭、流通の量が細かく記されている。湊は兼続へ正月半ばの進捗を淡々と述べた。市場の銭の総量調査、紙幣の発行上限、裏付けとなる倉の整理、春の銀次再来に向けた倉庫の再配置。左内の仕事は速かった。商人ごとの信用格付けもほぼ終わり、紙幣を最初に扱わせる御用商人の候補が三名に絞られている。帳簿の余白に走る左内の注記は日を追うごとに精密さを増しており、湊が見ても唸るほどの出来だった。


 兼続はいつものように腕を組み、頷きながら聞いた。時折、帳面の数字を指先でなぞる。その仕草に無駄がない。数字の意味を、触れただけで読み取っているように見えた。


 「左内は動きが早いな。紙幣の裏付けも、春までには目処が立つだろう」


 「はい。商人たちの反応も想定より早いです。納税に使えると分かれば、紙幣を嫌う理由がなくなりますから」


 「御用商人の選定は慎重にやれ。最初の三人が躓けば、紙幣そのものが信を失う」


 「承知しています。左内殿が直接面談を重ねています。帳簿だけでなく、人柄も見ている、と」


 兼続の口元がわずかに緩んだ。左内の仕事ぶりが気に入っているのだろう。


 「よし。では、しばらくはその調子で進めよ」


 兼続が帳面を閉じた。実務の時間が終わったことを、その仕草が告げている。湊が退出しようと立ち上がったそのとき、廊下の向こうから声が飛んだ。


 「あ、湊殿! ちょうどよかった!」


 明るい声に振り向くと、於梅が小走りで駆けてきた。頬が赤い。雪の冷気か、走ったせいか、それとも別の理由かは分からない。手には小さな包みがあった。


 「これ、お菓子をもらったんです。湊殿も食べませんか?」


 断る理由はなかった。於梅に導かれ、湊は縁側へ出る。冬の陽が縁側の木肌を温め、庭の雪が白く光を返している。正月の宴のとき、ここには大勢がいた。今は二人きりだった。


 於梅が包みを開き、小さな饅頭を二つ差し出す。湊は一つ受け取り、静かにかじった。甘味が舌に広がり、雪の冷気が後から追ってくる。


 「正月の宴、楽しかったですね」


 「うん。……八代が騒ぎすぎていたけど」


 「ふふ。父上はああいう場だと喋らなくなりますから、八代殿ぐらいの賑やかさがちょうどいいんです」


 於梅は饅頭を指先でゆっくり割りながら、庭の雪を見ていた。食べる仕草ひとつにも、姉にはない独特の間がある。急がず、でも退屈もしていない。何かを待っているような静けさだった。


 「湊殿って、いつも考え事をしていますよね」


 「そうか?」


 「父上と話した後は特に。眉のあいだに皺が寄るんです、ここ」


 於梅が自分の眉間を指さして見せた。湊は思わず自分の額に手をやる。


 「……癖なのかもしれない」


 「治したほうがいいですよ。怖い顔に見えますから」


 於梅は饅頭の欠片を口に運び、ゆっくり噛んだ。頬が動くたびに、耳元の後れ毛が揺れる。


 「湊殿は、怖いものってありますか?」


 穏やかな問いだった。だが目は真正面から湊を捉えている。宴の席では大勢の中に紛れていたその目が、今は湊だけを映していた。


 「……あるよ。たくさん」


 「たとえば?」


 「自分の判断が、間違っていたとき」


 「ふうん。姉上みたいなことを言うのですね」


 その言い方には、比較の意思があった。於松と湊が似ている、と言っているのか。それとも、似ているから退屈だ、と言いたいのか。湊には判断がつかなかった。


 於梅がわずかに体を寄せた。肩が触れるか触れないかの距離。於松なら決してこの距離には来ない。湊は気づきながらも、身を引くことはしなかった。冬の光だけが二人の間に落ちている。


 「湊殿は、海のことを話すとき、声が変わりますね」


 「そうか?」


 「なんだか……遠くを見るような声です。普段はもっと、こう、硬いのに。正月の宴のとき、於梅に海の話をしてくれたでしょう? あのときの声が、ずっと耳に残っていて」


 於梅が小首を傾げた。その拍子に、髪がさらりと肩から滑り、白い襟元がちらりと覗いた。


 「あの声、好きです」


 返す言葉を探す間もなく、縁側の空気がふっと張りつめた。


 「湊殿」


 上泉がいつの間にか廊下に立っていた。足音がなかった。剣を極めた者の歩き方が、ここでは少し恨めしい。


 於梅は一瞬だけ湊の横顔を見て、「つまんない」と小さく呟いた。包みを片手に立ち上がり、廊下を去っていく。その背中は宴のときの弾むような歩き方とは違い、どこか大人びた静けさがあった。去り際、ふと振り返ったその目が、湊の視線を一瞬だけ捉えて離した。


 「……すまない、上泉殿。何の用だ?」


 「庄内から戻った間者より、報告がありました」


 湊は居住まいを正した。空気が切り替わる。於梅の残り香がまだ鼻の奥にあったが、上泉の声がそれを断ち切った。


 「例の、腕の立つ少年の件か」


 「はい。あれからも何度か山中を探らせましたが……近頃、野盗を三人、一人で倒したとのこと」


 「三人を、一人で」


 「しかも、一人は刀を持っていたそうです。それを素手で制し、奪った刀で残り二人を斬った。村人の証言によれば、息ひとつ乱していなかったと」


 湊は柱に背を預け、視線を庭に向けた。梅の枝が風に揺れ、蕾がわずかに膨らんでいる。


 「年は」


 「十五か十六。確かとは申せぬようですが、髭もなく、声変わりは済んでいるとのこと」


 「流派は」


 「名乗らず。ただ、刀の振り方に我流とは思えぬ筋がある、と間者は申しております。力の使い方が独特で、体の芯から刃に伝わるような振り方をするそうです。足の踏み方にも癖があり、常に半身で構える。これは教わらなければ身につかぬ動きです」


 「……誰かに習ったことがある、と」


 「おそらく。しかし本人は何も語らぬそうで」


 湊は目を閉じた。十五か十六。流派を名乗らない。庄内の山中。倭寇の交易網で大陸から流れてきた可能性もある。そしてもし——1584年の生まれなら、ある名前と年齢が一致する。だがそれを口にするわけにはいかなかった。


 「上泉殿。なぜそこまで気にする?」


 上泉は答える前に、わずかに間を置いた。言葉を選んでいるのではなく、記憶の奥から何かを引き出しているような沈黙だった。


 「某の祖父・上泉信綱は、生涯で数えるほどしか”天賦の才”を認めませんでした。柳生宗厳、丸目長恵……そして数名」


 「……うん」


 「某自身は、その域には到底及びませぬ。しかし才を見る目だけは、僅かに祖父より引き継いだつもりです」


 上泉の声が低くなった。


 「間者の報告を聞いたとき、背筋が震えました。あの少年は——教えれば、化ける」


 雪が風に揉まれる音が庭から聞こえた。湊は目を閉じ、ゆっくりと開いた。


 「行ってくれ。庄内へ」


 「はい」


 「ただし一つ、条件がある。無理に連れてくるな。少年が自分の意思で来るなら、俺が引き受ける」


 上泉が湊を見た。静かで、深い目だった。


 「湊殿は……その少年を御存知なのですか」


 「知らない。ただ、勘が言っている。あの少年は大事にしたほうがいい」


 上泉は小さく頭を下げた。湊の「勘」が只者ではないことを、この男はもう知っている。松ヶ崎でも、左内の件でも、湊の直感は外れたことがなかった。


 そこへ、八代が襖の陰からひょいと顔を出した。


 「なんだ、難しい顔して。会議か?」


 「八代。お前にも頼みがある」


 「え、俺?」


 「庄内へ行く。上泉殿と一緒だ」


 八代の顔が一瞬こわばった。


 「待て待て。剣の目利きなんて俺にゃ無理だぞ。振り方がどうとか、足の運びがこうとか、言われても分からん」


 「目利きは上泉殿がやる。お前は少年と話してくれ。山の中で一人で暮らしてる少年だ。いきなり上泉殿が現れたら、身構える」


 「……まあ、そりゃそうだろうな。上泉殿は怖いもんな、黙ってると」


 上泉が無言で八代を見た。八代が「ほら、こういうところ」と肩をすくめる。


 「お前が笑うと、人は安心するんだよ。初対面の相手の警戒を解くのは、お前のほうが上手い」


 「……買い被りすぎだろ、湊」


 「買い被ってない。松ヶ崎で銀次と最初にまともに話せたのは、お前だっただろう。あのとき銀次が心を開いたのは、お前が飯の話をしたからだ」


 八代は頭を掻いた。否定できないらしい。


 「少年が何を食ってるか聞いてやれ。山の中で一人なら、ろくなもん食ってないだろう。飯の心配をする大人が一人いるだけで、人は少し安心する」


 「……お前、そういうの考えるの上手いよな」


 「俺じゃない。お前がそういう人間だってだけだ」


 上泉が静かに頷いた。


 「八代殿がおられると、某も助かります。某一人では、剣の話しかできませんので」


 「……分かったよ。行く。行けばいいんだろ」


 八代の声は渋々だったが、目は笑っていた。


 上泉と八代が出立の準備に向かい、廊下に足音が消えていく。座敷に一人残された湊は、ふと縁側に目をやった。さきほど於梅と並んで座った場所に、菓子の包みがひとつ残されていた。


 開くと、小さな紙が入っている。


 「また海の話、聞かせてくださいね。——梅」


 湊は紙を指先で折り、懐にしまった。捨てようとは思わなかった。その自分に、わずかに引っかかるものがあった。


 於松殿は静かで深い。言葉の選び方に知性があり、兼続の娘としての教育が隅々まで行き届いている。一方で於梅は——掴めない。無邪気に見えて、問いが鋭い。距離を詰めるのが上手い。十四歳にしては、人の隙を見つけるのが早すぎる。


 「好きです」と言ったのは、海の話をするときの声のことだ。湊自身のことではない。そう受け取るのが自然だった。だが、あの目。振り返ったときの、探るような一瞬の光。あれは無邪気の範囲に収まるのだろうか。


 湊は首を振った。考えすぎだ。兼続殿の次女で、於松殿の妹。それ以上でも以下でもない。


 庭では梅の蕾が風に揺れている。まだ堅いが、確かに膨らんでいた。


 翌朝。夜の冷えがまだ残る空気の中、上泉と八代が馬を引いて門に現れた。雪は固く踏み締められ、白い道が真っ直ぐに続いている。空は薄い雲に覆われていたが、東の端だけが橙に染まっていた。馬の息が白く上がり、蹄が凍った雪を踏むたびに乾いた音が響く。


 上泉は鞍を整え終え、湊に向き直った。旅装の上からでも分かる、一切の弛みのない体つき。八代は隣で馬の首を撫でながら、欠伸を噛み殺している。


 「湊殿。もしその少年が本物であれば」


 「本物であれば?」


 「……某が責任を持って、お預かりします」


 「いや。居場所を作るのは俺の仕事だ。上泉殿は剣を教えてくれればいい」


 上泉がわずかに目を細めた。


 「あなたは人を拾うのが上手い」


 「拾ってるつもりはない」


 「だからこそ、なのです」


 八代が馬上から身を乗り出した。


 「おーい湊! 心配すんな、ちゃんと連れてくるからな!」


 「お前は余計な約束をするな」


 「ははっ。任せとけって!」


 蹄が雪を蹴り、二つの影が白い道を遠ざかっていく。上泉の背は一本の刀のように揺れず、八代の背はどこか軽やかだった。並んで走る二頭の馬が雪煙を上げ、朝の光に白く溶けていく。


 湊は二人の姿が見えなくなるまで立っていた。冬の光が城下へ落ち、屋根の雪がきらきらと光る。遠くの鍛冶場から、鉄を打つ澄んだ音が聞こえた。


 懐に手を入れると、於梅の紙に指が触れた。


 その山のどこかに、まだ名もない少年がいる。世界がまだ彼を知らず、歴史がまだ彼に気づかない場所で、剣を振っている。


 湊は空を見上げた。雲の切れ間から光が差し、雪がその光を受けて細かく瞬いた。


 春はまだ遠い。だが、動き始めた歯車は止まらない。

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