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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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116話:正月の絹

 正月の陽は雪を透かして町の屋根を白く照らしていた。凍てついた空気の中に、どこか柔らかい匂いが混ざっている。餅の焼ける香り、朝市の魚の匂い、松飾りの青さ。そのすべてが、会津に静かな正月を告げていた。


 湊は八代と並んで城下の通りを歩いていた。雪を踏む音が、朝の光に吸い込まれていく。


 「湊、顔がゆるんでるぞ。珍しいな」


 「ゆるんでる……?」


 「だって正月だろ。少しは気が抜けてもいいんだよ」


 人々の明るい声が響く中、湊の胸には別の考えがよぎっていた。左内殿が動き始めて一月。市場の銭の流れは把握されつつあり、紙幣の発行上限ももうすぐ定まる。商人の格付けも進んでいると聞いた。春に銀次が来るまでにやるべきことは山ほどある。だが今日くらいは——。


 ふと、自室に置いた呂宋絹を思い出した。銀次が渡した上物の絹。あれを正月の挨拶として兼続様へ贈るのはどうだろう。海の道が開いた証として、これ以上のものはない。松ヶ崎の潮風がまだ指先に残っている気がした。


 「湊、また考えてるな?」


 「兼続様のところへ伺うのに、贈り物を考えていて」


 「なら絹で十分だろ。あれは本当にすげえ光沢だったぞ。景勝様だって目の色変えてたじゃねえか」


 城下の空気は正月らしい明るさに満ちていた。子供たちが雪玉を転がし、商人たちが正月用の野菜を競って叫んでいる。遠くの神社から太鼓の音が届き、餅をつく杵の音が重なった。そこを通り抜けるうちに、湊の両腕には呂宋絹を包んだ小さな包みが抱えられていた。布越しでも分かるほど、滑らかで冷たい手触りが指先へ伝わる。


 兼続の屋敷に近づくと、門松が控えめに飾られていた。湊と八代が玄関口に立つと、家臣が出てきて案内する。


 座敷には景勝と兼続が並んでいた。いつも通りの簡素な場だが、正月だけは酒と餅が並んでいる。慶次はもう座って酒を煽り、上泉は静かに杯を傾けていた。火鉢の炭が赤く光り、障子越しに庭の雪が白く透けている。


 湊が正座し、小さく包みを差し出す。


 「兼続様。新年のご挨拶として、ささやかな品をお納めください」


 兼続が包みを解くと、光がふっと跳ねた。呂宋絹独特の光沢が、座敷の空気を変える。


 「……呂宋か。見事な絹だ」


 兼続の指が絹の上を滑る。その触り方で、絹の質を確かめているのが分かった。


 「はい。松ヶ崎での交易で入手したものです。海の道が開いた証として」


 景勝が静かに手を伸ばし、絹に触れた。わずかに頷く。


 「湊、ようやった」


 酒が行き交い、餅が配られた。八代は湊の隣で笑い、慶次は早くも上機嫌で景勝に突っ込まれている。上泉は相変わらず静かに場を見ていた。慶次が「正月くらい笑え」と景勝に酒を勧め、景勝が無言で杯を受ける。その無言が笑みの代わりだと、もう皆知っていた。


 しばらくして、襖が静かに開いた。


 「……ああ、紹介しよう」


 兼続の声が、わずかに柔らかくなる。湊が見たことのない声色だった。


 「長女の於松だ。今年で十八になる。そして次女の於梅。十四だ」


 湊は顔を上げた。初めて知る事実だった。兼続に娘がいると聞いたことすらなかった。政策の話、軍備の話、紙幣の話。兼続とはいくつもの議論を重ねてきたが、家族の話は一度もなかった。


 於松は慎ましい歩みで湊の前に進み、静かに頭を下げた。黒髪が雪の光を映して、淡く揺れる。目元が父に似ていた。だが兼続の刃のような鋭さとは違い、水を湛えたような静けさがあった。


 「湊殿。父から、あなたのお話はよく伺っております」


 「……恐れ入ります」


 兼続が自分の話を家でしているという発想がそもそもなかった。言葉を返すのに、わずかな間が要った。


 於梅が姉の横からひょこっと顔を出した。姉とは対照的に、好奇心がそのまま体になったような娘だった。


 「あなたが湊殿? 海賊とお話した方?」


 「えっと……倭寇、ですね」


 「海の向こうってどんな匂いがするんですか? やっぱり塩っぽいの?」


 正月の場に、明るい笑いが広がった。慶次が酒を持ったまま笑い、八代が「この子は面白いな」と声を上げる。於松が小さく溜息をついたが、その目元は笑っていた。


 兼続が呂宋絹を取り上げ、於松に見せた。


 「湊殿が海から持ち帰った絹だ。触れてみろ」


 於松がそっと手を乗せる。指先が絹の上をゆっくり滑り、光沢の下で止まった。


 「……これは、会津にはない質です。肌に吸いつくようで、それでいて冷たい」


 「触らせて!」と於梅が身を乗り出し、姉から絹を受け取る。「わ、すべすべ……! これが海の向こうの絹なんですか? こんなの見たことない!」


 銀次たちと命がけで結んだ交易。その成果の絹が、こうして兼続の娘たちの手の中にある。海の道が、思いもよらない場所に繋がっていた。松ヶ崎の灰色の波と、この座敷の温かさ。同じ絹が、まるで別の意味を持って光っている。


 兼続が湊に目を向ける。


 「於松、湊殿に酒を注いでやれ」


 何気ない声だった。だが、その一言の前に兼続の目が一瞬だけ景勝へ向いたことを、湊は見ていなかった。


 於松が湊の前へ移り、丁寧に酒を注いだ。所作は静かで無駄がなく、徳利を傾ける角度にまで神経が行き届いている。指先がほんの少しだけ震えている気がした。


 「ありがとうございます」


 湊が杯を受け取る。酒は温かく、正月の冷気を溶かすように喉を下りていった。於松はすっと身を引き、元の位置に戻る。その引き際の綺麗さに、兼続の教育が見えた。


 兼続が景勝へわずかに視線を送った。景勝は杯を持ったまま動かない。だが、その沈黙にはあの日の言葉が沈んでいた。


 湊だけがまだ、その意味に気づいていない。


 宴が進む。慶次が於梅に「将来の夢は?」と聞いた。


 「父上より賢くなることです!」


 兼続が杯を持ったまま固まり、景勝の口元がわずかに動いた。慶次が膝を叩いて笑う。


 「こいつは強敵だな」


 上泉が静かに「末恐ろしい」と呟き、八代が「兼続様、味方はおらんぞ」と追い打ちをかけた。


 「ねえ湊殿! 海って怖くないんですか!」


 於松が「こら」と小声で叱るが、於梅は止まらない。


 「だって波がこう——がばーって——」


 「於梅、やめなさい。湊殿が困っています」


 「俺は……最初は怖かったですよ」


 「えっ、やっぱり!?」


 「でも、向こうに人がいると思うと……怖さより、知りたい気持ちのほうが勝った」


 「知りたい気持ち……」


 於梅は湊の言葉をなぞるように小声で呟いた。瞳が好奇心に満ちて透き通っている。於松がそっと於梅の肩に手を置いた。止めるのではなく、支えるような手つきだった。姉妹の距離感が、そこに見えた。


 慶次が杯を掲げる。


 「いい子たちだな、兼続殿。父親の顔をしてるのは初めて見た」


 「うるさい」


 兼続が扇で慶次の杯を軽く叩いた。酒がわずかに揺れる。上泉が静かに笑い、八代が「慶次は相変わらず口が軽い」と呟いた。


 景勝が杯を置き、静かに言葉を落とした。


 「湊。……楽しんでおるか」


 短い問いだった。だが、景勝が問うと途端に意味が変わる。


 「はい。……とても」


 「ならば良い」


 宴の終わりが近づく頃、於松が湊のそばに来て、声を落とした。庭に面した廊下の端。障子を透かして、細い雪が降り始めている。


 「湊殿。海の道を開かれたと……父はとても喜んでおりました」


 「そう……でしたか」


 「口には出しませんが、父はあなたを高く買っています。まして……会津の将来に関わることなら、なおさら」


 於松は一度視線を庭へ向けた。降り始めた雪が、梅の枝に薄く積もっていく。


 「父は、あなたが”外から来た風”だと仰っていました」


 「外から……」


 「この地に、良い風を呼ぶ人だと」


 控えめな声音なのに、不思議と胸の奥に残る響きだった。襖の向こうで八代と慶次が笑っている。その音が少し遠くなる。


 「於松殿……」


 「はい」


 「……俺は、ただ必死だっただけです。海の道も、紙幣のことも。景勝様や兼続様が背中を押してくださらなければ、何もできなかった」


 「それが良いのだと、父は思っているのだと思います。必死に走れる者がどれほど少ないか、父はよく知っておりますから」


 ふっと、於松の笑みがほどけた。雪の日の息のように柔らかい笑みだった。湊はその表情に、兼続とは違う種類の聡明さを見た。兼続が刃物なら、於松は水だった。静かに、深く、広がっていく。


 於松が去り際に一度振り返り、ほんの少しだけ会釈した。於梅は姉の後ろから手を振り、足音軽く廊下を去っていく。


 湊はその後ろ姿を見送りながら、胸の奥で何かが静かに動くのを感じていた。


 兼続様に娘がいた。当たり前のことなのに、まったく考えたことがなかった。この一年、湊が見てきたのは政策と制度と数字ばかりだった。紙幣の裏付け、交易の利益率、兵站の効率。その先に人がいることを、頭では分かっていたはずだった。だが、於松の横顔を見たとき、分かっていたはずのことが初めて実感に変わった。


 歴史の知識として、兼続の娘が誰かに嫁いだことをぼんやり覚えている。だが名前も相手も思い出せない。歴史書に載るような話ではなかったのかもしれない。於松殿も於梅殿も、歴史の注釈にすらならない人生を生きている。でもここでは、確かに息をしている。笑い、問い、絹に触れ、雪を見ている。


 湊が何かを動かせば、この人たちの人生も変わる。紙幣制度が成功すれば、会津の暮らしが変わる。交易が続けば、物が豊かになる。逆に失敗すれば、その影響もまた、名前のない人々に及ぶ。


 於松が注いでくれた酒の温かさが、まだ掌に残っていた。あの丁寧な所作の向こうに、兼続の家があり、娘たちの暮らしがあり、会津の冬がある。自分が背負おうとしているものの重さが、少しだけ形を変えた気がした。


 兼続が湊のそばに腰を下ろし、声を落とした。座敷には景勝と上泉だけが残り、慶次と八代は廊下で酒の残りを争っていた。


 「呂宋絹、確かに受け取った。会津にとって、あれは象徴になる」


 「いえ。俺は、海で拾った機会を形にしただけです」


 「その”拾える者”がどれほど少ないか、分かっておるか」


 兼続の横顔はまっすぐに庭の雪を見つめていた。炭の赤が頬に映り、目の奥に鋭い光が残っている。


 「会津は百二十万石の大国だ。だが内を見れば、雪に閉ざされ、海に遠く、京からも江戸からも離れておる。閉じていては生き残れぬ。外を知る者が必要だ」


 兼続が湊へ向き直った。


 「湊、おぬしはその役だ」


 「……はい」


 「左内が銭の道を整え、おぬしが海の道を開く。二つの道が合わされば、会津は変わる。春に銀次が来るまで、やるべきことは山ほどある。頼みたいことも、増えていく」


 「任せてください」


 言葉が自然に出た。兼続は目を細め、微かに頷く。


 「……その覚悟、しかと受け取った」


 景勝が座敷の奥から、黙ってこちらを見ていた。その視線の中に、何かを確かめるような静かな光があった。


 庭から風が吹き込み、梅の枝がかすかに揺れた。まだ蕾のままの小さな枝先が、白い息のように震えている。春にはこの蕾が開く。銀次が戻り、交易が再び動き出す頃に。


 外に出ると、夜気はさらに冴えていた。雪は細かい粒となって落ち、月明かりに淡く光っている。屋敷の灯りが背後で揺れ、二人の影を長く引き伸ばした。


 「いい正月だったな」


 八代が白い息を吐きながら言った。


 「……うん」


 「どうした。ぼんやりしてるぞ」


 「いや……兼続様に娘さんがいたんだなって」


 「知らなかったのか?」


 「……うん」


 「お前、政のことしか見てなかったからな」


 八代が笑う。湊も少しだけ笑った。


 「でもまあ、今日で分かったろ。兼続様も景勝様も、“家”があって、生きてる家族がいるってこと。お前が動かしてるのは、そういう世界だぞ」


 雪の道に、二人の足跡が並んで続く。空には星が出始めていた。


 呂宋絹の手触りと、於松の横顔と、於梅の笑い声が、胸の中で混ざり合って残っていた。それが何を意味するのか、湊にはまだ分からなかった。

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