10話:十日の涙が育てたもの
用水争いから十日が過ぎた。
城下の空気はあの騒動を境に、張りつめていた糸がゆるみ、日常の息遣いを取り戻しつつあった。
だが湊にとって、この十日は決して軽いものではない。
弱さを突きつけられ、涙を流し、それでも前へ進むための覚悟を腹に落とした——そんな日々だった。
胸の奥に残るのは痛みではなく、かすかな熱。
あの日の涙は、弱さではなく“強さの始まり”だったのだと、湊はようやく思えるようになっていた。
この十日、湊は弥藤に付き添われ、城下巡察の任に就いていた。
弥藤は常に湊の一歩前を歩き、必要なときだけ振り返る。
踏み込みすぎず、離れすぎず、ほどよい距離で導いてくれている——そんな不思議な安心感があった。
「湊さま、こちらの町家は、火の用心が甘いと記録にございます。ご確認を」
「ありがとう、弥藤。入ってみよう」
湊の声には、以前より迷いが少なくなっていた。
言葉の奥に“責任を負う意識”が宿り始めている。
町家の主人——紺屋の老職人が出てきて、深々と頭を下げた。
「お役人さま、先日は……その、失礼いたしました」
「いえ。僕の方こそ、前回は十分に話を聞けませんでした。今日は詳しく教えていただければ助かります」
穏やかな物腰だが、以前の“遠慮がちな優しさ”とは違う。
湊の中に一本、折れない芯が通りつつある。
老職人は、どこか安堵したように口をひらいた。
「この町は木造の家ばかりでしてな。火の元には気を付けておるつもりなのですが、忙しい日には、どうしても……」
「分かります。しかし、“分かっている”というだけでは火事は防げません。実際に何が危険か、一緒に確かめましょう」
老職人が頷き、湊は店内へ。
釜場、梁、屋根裏、通気の流れ、濡れ布の位置、乾燥具合……
ひとつひとつ丁寧に見ていく湊の表情には、以前にはなかった“観察する意志”が宿っていた。
「湊さま、何かお気づきで?」
「うん。釜場の煙が屋根裏の梁に溜まっているね。あれは危険だ。積もれば炭化して、ある日突然燃え移る」
「さすがでございます」
弥藤の声が、本当に嬉しそうに響いた。
店を出ると、弥藤が小さく微笑みながら言った。
「湊さまは……以前とまるで違いますな」
「そんなに違う?」
「はい。以前の湊さまは、人の痛みを理解しながら、それ以上踏み込むことを恐れておられました。ですが今は、相手の痛みを受け止め、その奥にある“本当の問題”まで見ようとしておられる」
「……宮森さまに言われたから、かな」
「それだけではございません。あの日、流された涙——あれは湊さまの内から出たものでございました。あの日を境に、湊さまの背筋は確かに変わったのです」
「泣くなんて、自分でも驚いたよ」
「泣ける者は強いのでございます」
歩みを止め、弥藤が湊の正面に立った。
「私は、湊さまのような方に仕えられることを誇りに思っております」
その真っ直ぐな言葉に、湊は胸の奥がじん、と熱くなるのを感じた。
「……ありがとう、弥藤。僕は君に助けられてばかりだ」
「支えられているのは私の方でございますよ」
柔らかく笑う弥藤。
少年に見えるのに、時折とても大人びた横顔を見せる。
◆
午後。巡察を終えるころ、曇り空にほんのり夕陽が混じりはじめた。
城へ戻ろうとしたそのとき——
「お役人さま、ちょいと助けてくだせぇ!」
若い女性の声が響き、湊たちの前に荒物屋の娘が駆け寄ってきた。
息を切らし、顔は真っ青だ。
「どうしたんですか?」
「母が……倒れちまって……! 息はあるんですが、目を開けなくて……!」
湊の胸が跳ねた。
医療の知識は深くない。だが、放置していい状態ではないのは分かる。
「案内して。急ごう」
迷いは、なかった。
「湊さま!」
弥藤も即座に続く。
◆
荒物屋の奥に敷かれた布団の上で、細身の母親が横たわっていた。
顔は青ざめ、呼吸は浅い。それでも規則は保たれている。
「脈はある……でも弱い。体力を使い果たしてる」
湊は手早く脈と呼吸を確かめ、娘へ声を向けた。
「身体が冷えてるね。掛けられるものはある?」
「こ、これなら……!」
娘が慌てて持ってきた綿入りの半纏。
湊はそれをそっと肩と腹にかけ、締めつけないよう調整する。
「呼吸が浅いから、胸まわりはゆるくね。苦しくない姿勢にしてあげて」
「は……はい……!」
湊の指示は落ち着いているが、それは経験ではなく“逃げない意志”から来る行動だった。
少しして、母親のまぶたがかすかに動いた。
「……ん……」
「お母さん!!」
「ひどく無理をされたんです。今日はゆっくり休ませてあげてください」
娘は湊の手を握り、震える声で言った。
「お役人さま……あんたは、どんな侍より頼りになるお方だ……!」
「いや、そんな……僕はただ、できることをしただけだよ」
そう答えながらも、その言葉は湊の胸の奥で静かに灯をともした。
——誰かを救うとは、こういうことなのか。
強さとは、刀でも地位でもなく、“逃げずに向き合うこと”なのだと。
◆
店を出ると、夕日が城下町を朱に染めていた。
歩く湊の横で、弥藤が足を止める。
「湊さま」
「ん?」
「本日をもちまして、私は決めました」
弥藤は深く頭を下げる。
「湊さまが“弱さを抱えつつ、それでも前へ進む方”であるならば——
私、弥藤は、その歩みに生涯従います」
湊の胸が熱く締めつけられた。
「弥藤……」
「はい。これより私は、ただの案内役ではございません。
湊さまの剣となり、盾となる覚悟でございます」
湊はそっと笑う。
「……僕も、君を裏切らないよ」
夕陽の中、二人の影が長く伸びていった——。
城下に夜の帳が降りるころ、湊と弥藤はゆっくりと城へ向かっていた。
日が落ちるのは早い。気温もわずかに下がり、吐く息が白くなる。
「……今日はいろいろあったね」
「はい。しかし湊さま、どれも大事な一日でございました」
「そうかな?」
「はい。町家の点検も、荒物屋の娘さんの件も……どれ一つ欠けても、湊さまの歩みは今の形にはなっておりません」
弥藤の言葉は、湊を励ますように静かで、それでいて力があった。
「でも……僕はまだ迷うよ。これでよかったのかなとか、他にもっとできたんじゃないかとか」
「それこそ、“働く者の証”でございます」
歩みを止めずに、弥藤は言う。
「自身の行いに迷いを覚えるのは、責任を負おうとする者だけでございます。迷いのない者は、最初から何も見ておりませぬゆえ」
「……そんなものかな」
「はい。湊さまは“迷いながら進める方”でございます。それが、どれほど強いことか——ご自分では気づきにくいだけでございます」
その言葉に、湊は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
◆
城門の前に差しかかったときだ。
見張り役の兵がこちらに駆け寄り、湊に深く頭を下げた。
「湊さま、宮森さまがお呼びでございます。至急、執務所までとのこと」
「宮森さまが? 分かりました。すぐ向かいます」
湊は軽く息を整え、弥藤とともに城内へ歩みを進めた。
廊下は松明の光に照らされ、影が揺れている。
緊張と静寂が、足音をより響かせる。
「怒られるかな……」
「怒られるなら、私もご一緒いたします」
「弥藤は悪くないよ」
「そういう問題ではございませぬ。“共に任を負う”とはそういうことでございます」
くすっと笑ってしまいそうになるほど、弥藤は真剣だった。
◆
執務所の障子をそっと開ける。
「失礼いたします」
「入れ」
宮森主膳の声は、いつものように淡々としている。
机の上には文書が積まれ、その横に湯気の立つ茶が置かれていた。
「巡察はどうであったか」
「はい。町家の火の用心、通気の確認を行い、荒物屋では倒れられた方の応急の手助けをしました」
「……ほう」
宮森の目が湊を射抜く。
冷たいわけではないが、逃げ場を許さない真っ直ぐな眼差しだ。
「倒れた者に、どう対処した」
「呼吸と脈を確認し、体温を逃がさないよう綿の半纏をかけました。意識が戻るまで、娘さんと一緒に様子を見ました」
「なぜ、そうした」
「……できることが、それしかなかったからです。見過ごすわけにはいきませんでした」
宮森の眉が、わずかに動いた。
「十日前の湊であれば、迷っただろうな」
「……はい」
「だが今は違う。自ら判断し、行動し、責を負った。言葉で飾る必要などない。よい働きであった」
短い言葉だったが、胸の奥にまっすぐ刺さる重みがあった。
「それと——湊」
「はい」
「お前の筆で書く巡察記録。あれは悪くない」
湊は思わず息を呑む。
「ただし、“まだ優しい”」
「……っ」
「だが、その優しさの奥に“覚悟”が芽生えたのは読めた。お前は今日、それを行動で示した」
宮森は机の上の紙束を指で押し、とん、と軽く叩いた。
「湊。お前が書く報告は、上に届けるための紙ではない。“民の声を残すための記録”だ。迷いがあっても構わん。その迷いごと書け」
「……はい」
「よい返事だ」
宮森はゆっくりと湯を口にふくみ、少しだけ表情を和らげた。
「その調子で精進せよ。お前の筆はまだ細い。だが、磨けば誰よりも深く届く」
その一言が、湊の胸の奥でじん、と響く。
「ありがとうございます」
「行け。明日も巡察だ」
「はい!」
湊は深々と頭を下げ、執務所を後にした。
◆
城を出たとき、夜空は星が瞬いていた。
冷えた空気の中、湊は胸いっぱいに息を吸い込む。
「……はぁ」
緊張が解け、静かに笑みがこぼれた。
「宮森さまに褒められたのは初めてだね」
「はい。湊さまが褒められるのを、私も誇らしく思いました」
弥藤が、小さく柔らかな笑みを浮かべる。
「ありがとう。……でも、まだまだだよね」
「まだまだで結構。それほど伸びしろがあるということでございます」
その言葉に、湊はふっと吹き出してしまった。
「弥藤、君ってほんと……」
「はい?」
「支えてくれるよね」
「当然でございます。湊さまの歩みは、私の誇りでございますので」
また胸が熱くなる。
この十日間、湊は何度も自分の弱さと向き合い、それに応えるように周囲の人々も変わってくれた。
強さとは一人で握りしめるものではない。
誰かと歩むことで形になるものなのかもしれない。
◆
「湊さま、本日はお疲れでございましょう。温かいものでも——」
「ううん、今日はゆっくり眠れそうだよ」
「そうでございますか。では、明日も早うございますゆえ、お体をお大事に」
「弥藤もね。いつもありがとう」
「……勿体ないお言葉でございます」
弥藤は軽く頭を下げ、静かに離れていった。
その背中は細いのに、不思議と頼もしさが宿っている。
湊は夜空を一度だけ見上げ、小さくつぶやいた。
「強くなりたいな……もっと」
その声は夜気に溶け、星々の間に吸い込まれていく。
——弱さは消えない。
——でも、それを抱えながら進むことならできる。
湊はそう思いながら、静かに歩き出した。




