106話:揺らぎの中で紡がれる文
朝の薄明かりが会津の城下を包み込み、雪に覆われた屋根が淡く光を返していた。空気には張り詰めた冷たさがあり、吐く息が細い墨のように漂ってはすぐに消える。湊はその冷気を胸いっぱいに吸い込み、気持ちを引き締めた。
報告書は既に八割が仕上がり、残るは整えと検証作業。だが外では倭寇の影が濃くなり、内政と外圧の両方が同時に揺れながら進み続けている。
期限まで残り五日。今日を乗り切れれば、明日が変わる。そして、景勝様の前に文を届けるその瞬間まで、止まるわけにはいかなかった。
朝の道を歩く中、湊の耳に雪を踏む乾いた音が規則的に響いた。気配を察して振り向くと、八代、三雲、浅香、慶次らがいつものように合流してきた。
「湊。顔色悪くはねぇか」
「寝不足だけど、動けるよ。今はとにかく量より質だから」
「質、ね。お前は量と質を同時に求めるから困るんだよ」
「困ってるのは僕のほうだよ。時間がない」
軽口のようでいて、言葉の端には全員の緊張が滲んでいた。今日の作業は、報告書の中でも最も重要な部分。紙幣が社会をどう変えたか、その核心を読み解く工程だ。数字は増え、民は動き、商人や兵の声もある。だがそれを事実ではなく意義として積み上げなければ、文として力を持てない。
「湊様」
浅香が歩調を合わせ、静かに言った。
「本日は、南殿も少し早めに帳場を開いたそうです。湊様に読み合わせをご希望とのこと」
「良かった。今日の南殿なら、もっと強くなってるはず」
「ええ。昨日の南殿は、泣いたぶんだけ前に進んだように見えました」
「泣ける人は強いからね」
湊は少し笑い、深く息を吐いた。胸の奥にある緊張がわずかにほどけていく。
慶次が腕を組みながら言った。
「でもよ、湊。お前、自分で言ってて疲れてねぇか」
「疲れてるよ。当たり前だろ」
「だよな。顔がちょっとやつれてる」
「指摘しなくていいよ」
彼らの軽口に救われながら、湊は南殿の屋敷へ足を速めた。
◆
南殿の屋敷に入ると、昨日とは違う空気が流れていた。
帳場には火鉢が置かれ、墨の香りが静かに漂っている。南殿は既に席につき、草案を広げ、筆を整えていた。背筋が昨日より伸び、眼差しの奥には固い決意が宿っていた。目の下の隈は消えていないが、その奥にある光は確かに強くなっている。
机の上には、昨夜のうちに南殿が書き足した草案が並んでいた。墨の匂いがまだ新しい。夜を越えて、南殿は一人で筆を握り続けたのだろう。消し跡は少なくなり、言葉の選び方にも迷いが減っている。
「湊殿。今日も、頼む」
「こちらこそ。昨日の草案、とても良かったですよ。南殿の言葉が前へ進んでいた」
「わしは、まだ震えておる。だが、不安の震えではない。前へ進むと決めた震えだ」
「それが一番強い震えです」
南殿は照れくさそうに目を伏せた。だがその手元は確かに昨日より落ち着いている。筆先が迷うことなく紙の上を滑り、小さな文字が整然と並んでいく。
三雲が帳場に入り、資料を置いた。
「湊殿。昨夜から今朝にかけての市場記録です。紙幣の流通量は五百五十枚を超えました。庶民の間での小取引にも使用例が出ています」
「庶民の間で。それは大きいね。価値が日常に入り始めた証拠だよ」
「ええ。それと、商人の一部が、紙があれば動けると口にしています」
曽根が続けた。
「湊殿。紙幣の流入量と普請場の動員数を照らし合わせた表です。人足の増加は紙幣支給後、平均して一日あたり八名増。過去に例のない速度です」
「八名。数字が語ってるね。紙があると動けるって」
「それと、普請場での紙幣配布累計は三百八十枚になりました。市場での流通と合わせると、会津全体で五百五十枚以上が動いています」
「五百五十枚。それだけの紙幣が、会津の中を流れているんだ」
◆
慶次が腕を組んですすっと近づく。
「湊。こういうのも文に入れんのか」
「入れるよ。数字は社会の声。商人の言葉は民の声。文はどっちも拾わないと生きない」
「お前、相変わらずだな。文を武器みてぇに使いやがる」
「武器っていうより、橋だよ。景勝様と現場をつなぐための」
八代が苦笑し、肩を揺らす。
「なら折れるなよ。その橋」
「折れないように今、みんなに支えてもらってるんだ」
「言ってくれるじゃねぇか」
報告書の第三節。紙幣導入によって何が生まれ、何が変わったか。その要点をまとめる作業が始まった。
「湊殿」
南殿が草案を差し出す。内容は昨日よりも深く、言葉の迷いも減っている。
「紙幣導入により、普請場への人足が安定し、工期短縮が見込める。わしなりに、現場で見たことを書いた。まだ粗いが」
「すごく良いです。現場の実感は数字より説得力があります」
「そうか。良かった」
「南殿の文は強くなってます。弱さを隠していないから、読み手の心に届く」
南殿は少しだけ顔をほころばせた。
その横で、三雲が地図を広げる。
「湊殿。縄張りの最新状況ですが、普請場の人手は昨日よりさらに十名増加。紙幣支給の影響で、兵だけでなく一般の人足も安定的に集まっています」
「普請場に広がる動く理由が紙幣なんだね。これは文に入れる」
八代が低い声で割り込む。
「湊。ところで、縄張りって、そんなに早ぇもんか」
「早くはないよ。ただ、人数が多いほど密度が変わる。今は人手が集まりやすい。つまり動きやすい時期だよ」
「紙の力で普請が進む。変な時代だな」
「変だけど、変じゃなきゃ未来は動かない」
慶次が軽く笑う。
「湊、お前さ。ちょっとカッコつけたろ」
「かっこつけてないよ」
「いや、今のはつけた」
「違うってば」
場の空気が少し和む。だが湊の筆先は止まらなかった。数字と事実の線が一本に繋がるように、慎重に、丁寧に、しかし迷いなく書き進める。
浅香が静かに口を開いた。
「湊様。商人の中には、紙幣のおかげで商売が続けられたと感謝している者もいるそうです」
「その声も、報告書に入れたい。数字だけじゃなく、人の声があると、文に温度が生まれる」
「湊様は、本当に、文で誰かを守ろうとする方ですね」
「守りたいんだ。南殿も、村の人たちも、兵も、商人も」
◆
昼に近づいた頃、外から急ぎ足の音が響いた。上泉の配下の兵だ。胸の前で手を合わせて挨拶し、緊張した顔で湊へ向き直る。
「湊殿、南殿。海沿いの村から続報です。昨夜の火の件、やはり倭寇と名乗る者の影を見たという証言が増えています」
帳場が一瞬静かになった。湊は息を吸い、静かに問い返す。
「被害は」
「幸い、怪我人なし。しかし、村人たちは怯えております。すぐにでも海を離れたいと言う者も」
三雲が眉をひそめる。
「揺らぎが加速していますな」
「ええ。紙幣の広がりに反比例するように、外の影も濃くなっている」
南殿の顔が青ざめ、指が震えた。
「湊殿。わしは、どうすべきか」
湊はゆっくりと立ち上がり、南殿の前に膝をついた。
「南殿。大丈夫です。倭寇の件は景勝様へ口頭で補足します。文には最小限しか書きません」
「しかし、わしは、わしの紙が」
「南殿の紙は、人を守る紙です。揺らぎと戦う紙じゃない」
南殿の肩が震え、その震えを浅香がそっと支えた。
「南殿。湊様は、南殿を責めてはおりません」
「そうか」
南殿は深く目を閉じ、力を込めて息を整えた。その横で八代が小声で言った。
「湊。お前、本当に大丈夫かよ」
「大丈夫じゃないよ。でも、動くしかない」
「そういうとこだよ、お前の強さは」
湊は深く息を吸い、筆を握り直した。文による戦いの続きは、まだ終わっていない。いや、ここからが本番なのだ。
◆
午後に入り、湊は報告書の第四節をほぼ書き終えていた。市場の動き、普請の速度、紙幣の価値、民の声。それらを一本の流れとして組み立てた結果、文は徐々に景勝様が読める文へと形を成し始めている。
三雲がそっと言う。
「湊殿。この先は第五節。外圧と備えについて、ですな」
「うん。ここが大事。倭寇の影にどう備えるか。それと紙幣がその備えにどう繋がるか」
「恐怖を煽る必要はない。ただ、紙幣が内を固め、外の揺らぎに備える力となり得る。その一点だけ示せばいい」
南殿は静かに言った。
「湊殿。わしは、この文を、景勝様に読んでいただけるのだろうか」
「読んでいただけます。南殿の文は、嘘がない」
「嘘がない、か」
「嘘がない文は、届きます」
南殿は深い呼吸を繰り返し、紙へと視線を戻した。
湊は筆を握り直し、第五節の冒頭を書き始めた。紙幣の広がりが民心をどう支え、外の影がどう揺さぶり、そして会津がどう備えるべきか。それらを一本の意味の線として結ぶ作業は、報告書の中でも最も重要な部分だった。
八代が息を吐いた。
「湊。お前、本当に覚悟できてんのか。景勝様にこの文を渡すってのは、つまりお前が矢面に立つってことだぞ」
「うん。分かってる」
「怖くねぇのか」
「怖いよ」
しかし湊の声は揺れていなかった。
「でも、怖くてもやる。それが僕の役目だから」
八代はしばらく湊を見つめ、そして静かに言った。
「強ぇな、お前」
湊は苦笑した。
「強くご指摘ありがとうございます。段落間に空行を入れて書き直します。ないよ。強くないから、みんなが必要なんだ」
慶次が茶化すように言った。
「俺たちがいないと、お前は倒れるってことか」
「そうだよ。だから、これからも支えてくれ」
「任せろ。俺たちは、お前の足場だ」
◆
陽が完全に沈み、屋敷の灯りが夜の帳を押し上げるように広がった頃、湊は第五節の最後の文を書き終えた。筆を置いた瞬間、肩から一気に重さが抜け落ちる。
「書けた」
南殿が顔を上げる。
「読みたい」
「もちろんです」
湊が紙束を差し出すと、南殿は深く息を吸い込み、ゆっくりと読み始めた。部屋は静まり返り、火鉢の炭が崩れる音だけが響いた。
南殿は読み進めるうち、目を細め、そして紙にそっと触れた。
「湊殿。これは」
「お気に召しませんでしたか」
「違う。違うのだ」
南殿は胸に紙束を抱き締めるようにしながら、震える声で続けた。
「わしの言葉が、ここにある。弱い声も、恥ずかしいほど震えた声も、すべて、ここに残っておる」
湊の胸に静かな熱が広がった。
「南殿が前に進んだからです。止まっていたら拾えなかった」
「湊殿。わしは、そなたに救われてばかりだな」
「救ってるのは南殿自身ですよ。僕は隣にいるだけです」
三雲が静かに口を開いた。
「湊殿。報告書、全体の九割が完成です。推敲を含め、残り五日。間に合います」
曽根が記録帳を閉じた。
「湊殿。今日の作業、記録しました。第三節から第五節まで、合計で約三千字の加筆。数字と事実の整理も完了です」
「三千字。予定より早いね」
「湊殿の筆が速いおかげです」
南殿は深く頷き、かすかに笑った。その笑みは弱いまま、でも確かな強さを宿していた。
「湊殿。そなたと会えて、良かった」
「僕もですよ、南殿」
外では雪が細かく降り続け、静かな音を立てて地面を白く覆っていく。風が屋根を叩き、遠くで犬の声がかすかに響いた。
報告書は形を持ち、あと一歩で景勝様が読む文へと変わる。そして、会津の未来を動かす文へと。
湊は胸の奥で静かに決意した。
あと五日。必ず仕上げる。この文で、会津を、南殿を、すべての人を守るために。
筆を置いた静かな音が、夜の帳に吸い込まれた。




