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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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105話:文が未来を切り拓く夜

 朝の気温は昨日より低かった。空気が硬く、吐く息が白いというより薄い氷の粒になって散っていくようだった。


 報告書の骨子が完成した翌日。湊にとって、今日からの六日は勝負の六日だった。骨子はあくまで骨だ。筋肉をつけ、血を通し、景勝様が一読して納得する文の体に仕上げなければならない。


 そして外では倭寇の影が濃くなる。内と外、二つの流れが同時に加速している今、湊は自分の心が細く張り詰めた糸の上を歩いているような感覚を覚えていた。


 期限まで残り六日。もう立ち止まる余裕はない。


 浅香が湊の横に並び、声を落として言う。


「湊様。南殿の様子、少し落ち着いたように見えました」


「うん。昨日、泣けたことが大きい。弱さを隠すと、前に進めなくなるから」


「泣いた南殿を見て、湊様、逆に安心していたように見えました」


「強がり続ける人のほうが危ないよ。南殿は、泣けるほど頑張ってたってことだから」


 その言葉を聞き、浅香は静かに笑った。


「湊様は、本当に、誰かの心の形を見るのが得意です」


「得意じゃないよ。ただ、昨日の南殿は、すごく孤独そうだった」


「孤独」


「うん。でも、もう一人じゃない。僕たちが支える。今日からは形をまとめて、景勝様の前に堂々と出られる報告書にしていく」


 八代が後ろから声をかけた。


「湊、今日も南殿の屋敷か」


「うん。今日は骨子に肉をつける。数字の意味、因果の線、民心の動き。そのすべてを読みやすい形に整えていく」


「お前、ほんと止まらねぇな」


「止まったら、みんなも止まる。だから止まれないんだよ」


 慶次が腕を組みながら言った。


「でもよ、湊。お前、自分で言ってて疲れてねぇか」


「疲れてるよ。当たり前だろ」


「だよな。顔がちょっとやつれてる」


「指摘しなくていいよ」


 彼らの軽口に救われながら、湊は南殿の屋敷へ足を速めた。


            ◆


 南殿の屋敷は、昨日よりも少しだけ温かさがあった。


 同じ帳場、同じ紙束。しかし空気だけが変わっていた。南殿の背筋が、わずかではあるが伸びている。声も昨日より芯があった。目の下の隈は消えていないが、その奥にある光は確かに強くなっている。


 机の上には、昨夜のうちに南殿が書き足した草案が並んでいた。墨の匂いがまだ新しい。夜を越えて、南殿は一人で筆を握り続けたのだろう。


「湊殿。昨日の骨子を基に、わしも少し手を加えてみた。まだ粗いが」


「見せてください」


 南殿が差し出した草案には、震えの残る筆跡があった。だが、その震えの奥には、昨日とは違う意志の線があった。消し跡は少なくなり、言葉の選び方にも迷いが減っている。


「南殿。これ、すごく良いですよ。昨日より言葉が前に出ています」


「そうか。わしは筆を持つ手が震えるばかりで、まともに書けておるかどうか」


「震えは弱さじゃない。伝えたい気持ちが強いほど、筆は震えるんです」


 南殿はしばし黙り、目を伏せた。だが、その頬には昨日より血の気があった。


 三雲が控えめな声で入る。


「湊殿。最新の情報です。市場での紙幣流通、昨日時点で五百枚を超えました」


「五百。増え方が速い」


「はい。特に商人同士の取引での使用が増えています。銀不足がさらに深刻化しているため、紙幣の価値を実質銀として扱う動きが出ています」


 曽根が続ける。


「本日の紙幣使用記録もまもなく届きます。普請場にも、今日も新しい人足が集まっているとのこと。昨日より十名ほど増えているそうです」


「紙幣が生活の一部になり始めている。これは大きい」


 南殿が少し肩を震わせた。


「湊殿。紙が、こんなにも人を動かすとは、わしは思わなんだ」


「南殿が最初に出した勇気が、ここまで広がったんです」


「わしは、勇気など」


「ありますよ。なければ、あの日、紙幣の導入など提案できなかった」


 南殿の目が潤み、口元がわずかに震えた。だが、昨日のように涙は落ちなかった。代わりに、静かな笑みが浮かんだ。


「湊殿。そなたは、わしを過大に」


「過大じゃありません。南殿は弱くて、でも前へ進む。だからこそ、僕たちが支えられる」


            ◆


 湊は筆を取り、報告書の第二節に手を入れ始めた。昨日の骨子に肉をつけ、数字の意味、因果の線、民心の動き、普請の速度、そのすべてを読みやすい形に整えていく。


 八代が背後から覗き込み、呟く。


「おい湊。文字が生きてるみてぇだぞ」


「生きてる」


「お前が書くと、数字や出来事が、ひとつの流れになって見えてくる。南殿の草案と併せて読むと、なんか胸が熱くなるというか」


 慶次が横から肘で軽くつつく。


「湊よ。正直に言う。お前、こういうまとめは尋常じゃねぇぞ」


「褒めてるのか貶してるのか、どっち」


「褒めてる。心底な」


 場が少しだけ和む。だが湊は筆を止めなかった。流れを切らせば文が死ぬ。数字は意味を失う。


 三雲が問いかける。


「湊殿。第三節、市場の動きですが、商人の受容の部分はどこまで踏み込みますか」


「二段階に分けよう。一つは銀不足の代替手段としての紙幣。もう一つは紙幣が新たな価値基準になり始めているという事実。前者は必要性、後者は将来性を示す」


「なるほど」


 曽根が頷いた。


「では市場での変化を、数字と商人の証言で補完しましょう」


「助かります。商人の声があると、景勝様にも実感が伝わる」


 浅香が静かに口を開いた。


「湊様。商人の中には、紙幣のおかげで商売が続けられたと感謝している者もいるそうです」


「その声も、報告書に入れたい。数字だけじゃなく、人の声があると、文に温度が生まれる」


            ◆


 そのとき、南殿が静かに口を開いた。


「湊殿。ひとつ、聞かせてほしいことがある」


「はい」


「紙幣がこれほど流れ、民がこれほど動いたとて、景勝様は、必ずしも良しとは言わぬかもしれぬ。わしは、それが怖い」


 湊は筆を置き、南殿の目をまっすぐ見た。


「南殿。怖がっていいんです。怖さがあるから、文は強くなる」


「怖さが、文を強くする」


「はい。怖いと思うから、誤魔化さない文になる。怖いと思うから、無理に飾らない文になる。そして、弱さを隠さなかった文は、読む側の心に残ります」


 南殿は言葉を失い、目を伏せた。


「湊殿。そなたは、わしの弱さを、責めなんだのだな」


「責める。そんなこと、したことないですよ」


「そうか。そうか」


 南殿の呼吸が少し乱れ、浅香がそっと背をさすった。


「南殿。湊様は、南殿のお気持ちを誰よりも分かっています」


「浅香」


「だから、南殿は文を書けるんです。弱さを抱えたまま、前へ進める」


 南殿は深く息を吸い、そしてゆっくりと吐いた。その顔には、昨日の涙の痕跡はなく、代わりに静かな決意が浮かんでいた。


            ◆


 午前中の作業が一段落した頃、屋敷の外から急ぎ足の音が響いた。盛胤の兵が姿を見せ、息を切らしながら言う。


「湊殿、南殿。庄内から追加の報せです」


 湊は顔を上げ、筆を置いた。


「何があった」


「海沿いの村に、不審な火が上がったとのこと。倭寇の仕業かどうかは不明ですが、村人たちが怯えております」


「火」


 三雲が険しい顔で言う。


「昨夜の船影に続き、今日は火。偶然とは考えにくいですな」


 南殿の手が震えた。


「わしの紙幣が、揺さぶられておるのか」


「紙幣が原因ではありません。動き始めた会津そのものが狙われているんです」


 湊の声は静かだった。だが、その奥には筋の通った強さがあった。


「村の被害は」


「火は小規模で鎮火した模様。だが、倭寇を名乗る影が見えたという証言が複数あります」


「動揺は広がるね」


「はい。村の者たちは、また海から来るのではと恐れております」


 湊はしばらく考え、深く息を吸った。


「上泉さんに伝えてください。調査隊は予定どおり出発。ただし、村の不安を抑える言葉を必ず添えてほしいと」


「承知しました」


 兵が去ると、南殿は机に手をつき、かすれた声を漏らした。


「湊殿。どうすればよい。わしは」


「南殿、大丈夫です。倭寇の件は報告書に最小限で書く。でも、景勝様には口頭で補足できます」


「そなたは、揺らがぬのだな」


「揺らいでますよ。でも、揺らいでいても歩くんです。歩かないと、誰もついてこられない」


 南殿の肩がかすかに震え、それでも崩れはしなかった。


 湊は深く息を吸い、筆を握り直した。文による戦いの続きは、まだ終わっていない。いや、ここからが本番なのだ。


            ◆


 午後に入り、報告書の文は着実に姿を整えていった。


 第三節、市場の動き。第四節、縄張り完成までの作業速度。人足、兵の動き、紙幣による行動力の変化。数字と事実を積み重ねながら、湊は最後の節へ筆を伸ばしていた。


 三雲が静かに言う。


「湊殿。倭寇の件、どこまで書きますか」


「最小限。だが、今、会津が揺さぶられていることは書く。景勝様に備えを取っていただくためにも」


「では、痕跡と生還者の証言だけに絞りますか」


「はい。恐怖を煽る必要はありません。ただ、紙幣が内を固め、外の揺らぎに備える力となり得る。その一点だけ示せばいい」


 八代が息を吐いた。


「湊。お前、本当に覚悟できてんのか。景勝様にこの文を渡すってのは、つまりお前が矢面に立つってことだぞ」


「うん。分かってる」


「怖くねぇのか」


「怖いよ」


 しかし湊の声は揺れていなかった。


「でも、怖くてもやる。それが僕の役目だから」


 八代はしばらく湊を見つめ、そして静かに言った。


「強ぇな、お前」


 湊は苦笑した。


「強くないよ。強くないから、みんなが必要なんだ」


 慶次が茶化すように言った。


「俺たちがいないと、お前は倒れるってことか」


「そうだよ。だから、これからも支えてくれ」


「任せろ。俺たちは、お前の足場だ」


            ◆


 夕刻が近づき、湊の筆がふと止まった。


「よし。最後の一節、これで書けた」


 南殿が顔を上げる。


「読みたい」


「どうぞ」


 湊が紙を渡すと、南殿は震える手でそれを受け取り、ゆっくり目を通した。読み進めるうち、南殿の呼吸が浅くなり、そして、かすかな声が漏れた。


「湊殿。これは」


「気に入りませんでしたか」


「違う。違うのだ、湊殿」


 南殿は紙を胸に抱くようにして言った。


「わしが言いたかったことが、ここにすべてある」


「良かった」


「いや、良かったどころではない。湊殿。そなたは、わしよりも、わしの声を」


 南殿は言葉を詰まらせ、目を伏せた。


「そなたは、わしの言葉を、拾ってくれた。弱く、情けなく、震えていた声を。そなたは、聞いていたのだな」


 湊はそっと言った。


「南殿の声を拾えるのは、南殿が前に進んでいたからです。止まっている人の声は、拾えません」


 南殿は顔を上げ、その目には昨日よりもはっきりとした光が宿っていた。


「湊殿。明日からは、細部の整えに入るのだな」


「はい。骨子は完成しました。ここからは景勝様が読みやすい文に仕上げていきます」


「間に合うのか」


「間に合わせます。残り六日でも十分です」


 曽根が記録帳を閉じた。


「湊殿。今日の作業、記録しました。報告書の本文、約八割完成。残りは外圧に関する最終節の仕上げと、全体の推敲です」


「八割。予定より早い」


「湊殿の筆が速いおかげです」


 三雲が付け加えた。


「庄内の火の件、続報が入りました。被害は小さく、倭寇の姿を見た者も確証が持てないとのこと。だが」


「だが」


「村の者たちが、湊殿の名を口にしているそうです。湊殿に知らせねば、と」


「どうして」


「湊殿が紙を動かし、会津を立たせようとしている。だから湊殿は海の影にも気づくはずだ、と」


 湊は目を閉じ、胸に小さな重さを感じた。責任。期待。そして、まだ届かぬ未来への不安。


 八代が小さく呟く。


「湊。お前、いつの間にか、みんなにとっての柱になってんだぞ」


「柱になれるとは思ってない。でも、頼られたなら応えたい」


「応え続けるのは、しんどくねぇか」


「しんどいよ。でも、南殿が前に進んでる。みんなも動いてる。僕だけ止まるわけにはいかない」


            ◆


 その夜、南殿の屋敷の灯りは遅くまで消えなかった。


 湊は報告書の束をまとめ、そっと手で押さえた。紙の重さは軽い。だが、この紙が明日を変える可能性を持っている。


 南殿が最後に湊へ声をかけた。


「湊殿。ありがとう。そなたがいて、わしは、まだ立っていられる」


「南殿。立っているのは南殿自身です。僕はただ、隣で支えているだけです」


「ならば、明日も支えてくれ」


「もちろんです」


 外では雪が降り始めていた。風が屋根を叩き、遠くで犬の声がかすかに響く。


 報告書は形となり、線が引かれた。残るは磨きと、景勝様への提出。そして、海の影に対する備え。


 湊は胸の奥で静かに決意した。


 あと六日。必ず仕上げる。南殿を守るために、会津を動かすために。


 灯りが揺れ、雪の夜へと静かに溶けていく。湊は報告書を抱え、深く息を吸った。未来へ向けた文の戦いは、まだ続いている。

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