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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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103話:輪郭の刻まれた日

 朝靄は薄く、白い息がすぐ空へ溶けていく。


 昨日、縄張りの輪郭が七割まで姿を見せた。今日はその仕上げを行い、完成させる日だ。湊は胸の奥に張りつめた糸が切れぬまま、夜を越した。


 一歩、雪を踏むたび、期限という言葉が頭の中で冷たく鳴る。紙幣は確かに動き出した。普請も流れに乗った。だが、倭寇による行方不明者は七人目。海の影は濃くなり、会津の中と外、二つの歯車が同時に速さを増している。


 今日を越えねば、間に合わない。この朝は、そういう朝だった。


 浅香が湊の横に並んだ。


「湊様。今日で縄張りが完成すれば、明日には報告書をまとめられます」


「うん。景勝様に示すのは、紙幣の流通と普請の進捗。その二つが揃って初めて、南殿を守れる」


「間に合いますよね」


「間に合わせる。そのために、昨日までみんなが動いてくれた」


 八代が後ろから声をかけた。


「湊、今日も人が多いぞ。昨日より増えてるかもしれねぇ」


「紙幣の噂がさらに広まったんだね。働けば紙がもらえる、その紙で買い物ができる。その話が町中に広がってる」


「噂ってのは怖ぇな。良い方にも悪い方にも転がる」


「今日は良い方に転がってくれてる。この流れを止めずに、縄張りを完成させる」


 慶次が腕を組みながら言った。


「昨日の七割から、今日で十割か。三割を一日で仕上げるってのは、普通なら無理だろ」


「普通なら無理だ。でも、今日は人が多い。紙幣のおかげで」


「紙幣、紙幣か。紙切れが城を建てるなんて、面白ぇ時代になったもんだ」


「紙切れじゃないよ。約束だ。約束が人を動かして、人が城を建てる」


            ◆


 縄張り予定地に着くと、湿った冷気の中で人足たちの声がすでに響いていた。


 昨日の活気がそのまま熱となって残っている。普請頭の号令、木の柵を運ぶ音、杭を打つ乾いた衝撃。それらが朝の空気を押し返している。荒地だった場所に、杭と縄の列が伸び、城の輪郭が大地の上に浮かび上がっていた。


 昨日の七割から、今日は残りの三割を仕上げる。それが完成すれば、紙幣が人を動かした証として、景勝様に示せる。


 普請頭が湊たちに気づき、駆け寄ってきた。手はかじかんで赤くなっていたが、声には活気がある。


「湊様。今朝の人足、昨日よりさらに増えております。七十三名です」


「七十三名。昨日より六名増えた」


「はい。紙幣の噂を聞いて、今朝になって来た者たちです。遠くの村からも来ている者がいます」


「遠くの村から」


「はい。紙幣で米が買えると聞いて、普請に来れば紙がもらえると知って、半日かけて歩いてきたそうです。家族を養うために、と」


 湊の胸に、熱いものが広がった。紙幣は会津の中を流れ、人を動かし、遠くの村にまで届いている。


「今日中に完成できますか」


「この人数なら、昼過ぎには完成できます。昨日の勢いがそのまま残っていますので」


「よし。仕上げを急ごう」


 曽根が記録帳を開いた。


「湊殿。今朝の人足の数、記録しておきます。昨日が六十七名、今日が七十三名。二日間で累計百四十名が動いたことになります」


「百四十名。それだけの人が、紙幣のために集まった」


「紙幣の配布枚数も更新します。普請場での累計が三百二十枚。市場での流通も含めると、四百枚を超えています」


「四百枚。それだけの紙幣が、会津の中を動いているんだ」


            ◆


 湊たちが縄張りの中央へ向かうと、南殿の配下が走ってきた。額に汗を浮かべ、息が荒い。


「湊殿。南殿からお言葉が」


「何と」


「今日で決める、と。縄張りの完成を見届けたら、すぐに報告書の最終確認をしたい、と」


 湊は短く息を吸った。決める。つまり、今日の成果が景勝様の判断を左右する。


「南殿は屋敷で」


「はい。報告書の整理をしています。景勝様へお出しする普請の成果を、湊殿と合わせるためです」


「分かった。縄張りの完成が見えたら、僕もすぐ戻る」


「それと、南殿は震えておられました。しかし、それでも湊に任せる、と」


「任されてるんじゃない。僕が南殿を支えるんだよ」


 配下の目がにわかに潤んだ。


「ありがとうございます。南殿は弱い。しかし、弱いからこそ強くあろうとしている。それを見てくれるのは、湊殿だけです」


「南殿に伝えてください。必ず完成させます、と」


「承知しました」


 配下は深く頭を下げ、南殿の屋敷へ走り去った。


            ◆


 そのとき、森の陰から盛胤が姿を現した。静かながら底に強い意志を秘めた歩き方だった。背後には、昨日と同じく兵が三十名ほど続いている。


「湊殿。今日が仕上げだと聞いた。我らの兵も、最後まで動かす」


「ありがとうございます、盛胤殿。あなたの兵がいてくれたおかげで、ここまで来られました」


「恩は返すと言った。紙幣の件で、我らも救われたからな。それに、南殿が湊殿を頼っている。あれは昔から誰もできなかったことだ」


「誰もできなかった」


「南殿の弱さを責めず、前に引き出す者は、な。湊殿のやっていることは、強さではなく導きだ。紙幣も縄張りも、そなたが導いている」


 湊は言葉を失った。


「盛胤殿。僕は、ただ」


「言い訳はいらぬ。人はな、誰に導かれたかによって動き方が変わる。湊殿に導かれた者たちは、皆、自分の意志で動いている。それが強さだ」


 盛胤の目は、信頼の色を帯びていた。


 作業が再開され、杭が次々と打ち込まれていく。東側、西側、南側、北側。昨日繋がった線の先に、新しい杭が加わり、縄が張られていく。城の輪郭が、少しずつ完成に近づいていく。


 午前中のうちに、残りの三割のうち半分が終わった。人足たちは休憩を惜しんで働き、兵たちは無駄のない動きで木材を運んだ。湊は現場を歩き回り、作業の進捗を確認した。


 昼を過ぎる頃には、ほとんどの線が繋がっていた。


            ◆


 昼過ぎ、最後の杭が打ち込まれた。


 乾いた音が広場全体に響き渡り、人足たちが一斉に手を止めた。雪の上に沈むような静寂が一瞬広がり、次には大きな歓声が沸き上がった。


「やったぞ」


「これが城の輪郭か」


「湊様の紙、本当に町を変えたんだ」


 誰かがそう叫ぶと、別の誰かがそれに続いた。


「紙で米が買えて、普請に人が集まって、今日で輪郭が完成した。こんなこと、今までなかった」


「南殿の紙が、会津を動かしたんだ」


「俺たちの働きが、城の形になったんだ」


 その声を聞いた瞬間、湊の胸に熱が広がった。紙幣はただの紙ではない。人の心と暮らしを、確かに動かした。


 曽根が記録帳を閉じた。


「湊殿。今日の作業、記録しました。人足七十三名、兵三十二名、合計百五名。杭の総数、四百二十三本。縄の総延長、約千二百間。輪郭の完成度、十割です」


「十割。完成した」


「はい。明日、報告書にまとめれば、明後日には景勝様へ提出できます」


 浅香が湊の横で、小さく震える声で言った。


「湊様、できました。本当に、できました」


「うん。みんなのおかげだ」


「でも、それだけじゃありません。湊様が導いてくれたから、みんなが動けたんです」


 盛胤が静かに歩み寄り、輪郭の中央に視線を落とした。


「見事だ。これならば、景勝様に十分示せる。会津が新しく動き始めたという確かな証を」


「でも、これは僕一人の力じゃない。紙幣を信じて働いてくれた皆の力です」


「謙遜もほどほどにしておけ。そなたがいなければ、この流れは生まれなかった」


            ◆


 歓声が続く中、三雲が慎重な足取りで湊の元へ戻ってきた。その表情は険しい。


「湊殿。小声で失礼します」


「どうしたの」


「庄内から新しい報せです。昨夜、生還者が出ました」


 湊の目が見開かれた。


「生還者。行方不明者の中から」


「はい。ただし、重傷です。話せる状態ではありません。だが、南殿の配下が言うには、身体に縄の痕が残っていたと」


「縄の痕」


「海で捕らえられた者に残りやすい痕だそうです。倭寇が関わっている証拠になるかもしれません」


 湊の背に冷たいものが走った。生還者が出たのは朗報だが、縄の痕は倭寇の関与を示唆している。会津の内側が整い始めた今、外側の影も確実に動いている。


「それと、もう一つ。行方不明者の家族のもとに、不審な銀の欠片が置かれていたそうです」


「銀の欠片」


「南殿の配下は、挑発だと判断しています。倭寇が、会津の銀不足に付け込んで揺さぶりをかけている可能性が高いと」


「紙幣が流れ始めたから、揺さぶりも強くなった」


 三雲は頷いた。


「普請場では言えませんが、海側の村は混乱しかけています。上泉殿が、湊殿から言葉がほしいと」


「分かった。上泉さんのところへ行く」


            ◆


 上泉は普請場の端で、調査隊の準備を確認していた。湊が近づくと、険しい表情のまま振り返った。


「湊殿。調査隊は明朝、庄内へ向かう。海沿いだけでなく、街道沿いにも仕掛けがあるかもしれぬ。まずは痕跡を洗う」


「お願いします、上泉さん。紙幣は流れを作りました。今度は、外の影を断たなければ」


「分かっている。だが、湊殿。そなただけは無茶をするな」


「無茶」


「会津の内側が湧いてきたとき、外側も必ず揺さぶりをかける。そなたはその中心にいる。命を狙われる可能性もある」


 上泉の声には、極めて現実的な危機感が滲んでいた。


「大丈夫です。僕には皆がいる。会津を守りたい気持ちは、僕だけじゃない」


「その言葉が、いつか命取りになることもあると知れ。湊殿は人を信じすぎる」


「信じすぎる」


「信じることは良い。だが、信じた者が裏切ることもある。そのとき、そなたは傷つく。傷ついたとき、会津は揺らぐ」


 上泉は静かに背を向け、調査隊のもとへ戻っていった。その背中を見送りながら、湊は胸の奥に冷たいものを感じた。


 八代が静かに隣へ立った。


「湊、上泉の言葉、重かったな」


「うん。でも、上泉さんは心配してくれてるんだと思う」


「心配だけじゃねぇよ。あいつは本気で言ってる。お前が狙われる可能性があるって」


「分かってる」


「分かってて、怖くねぇのか」


 湊は雪に目を落とし、言葉を選んだ。


「怖いよ」


「怖ぇよな」


 八代は笑わず、まっすぐに言った。


「だが、それでいい。怖いのに歩くやつが、一番強ぇんだ」


            ◆


 陽が傾き始め、薄暗さが普請場を包み始めていた。


 雪の上に伸びる縄張りの線。その白い輪郭が夕暮れに浮かび、まるで新しい地図が大地に刻まれたかのようだった。


 湊はその線の中央に立ち、静かに息を吐いた。


 今日で形は完成した。明日は南殿と報告書をまとめ、明後日には景勝様へ提出する。紙幣の流通と普請の進捗。二つの成果を、同時に示す。


 だが、その裏で倭寇の影は濃くなっている。生還者の縄痕。銀の欠片という挑発。狙いは銀だけではないかもしれない。会津の内側が整えば、外側は必ず揺さぶりをかけてくる。


 内と外。二つの流れがぶつかり始めている。


 湊は胸の奥で、静かに言葉を結んだ。


「明日、必ず景勝様へ届ける。会津が動き始めた証を」


 雪が舞い、その白さが夜の気配を連れてくる。湊は輪郭を最後にひと目見つめ、仲間たちと共に帰路へ歩き出した。


 今日、形は完成した。だが、戦いはまだ終わっていない。むしろここからが本番だった。倭寇の影を断ち、会津を守り抜く。その決意だけが、冬の冷気の中で熱く燃えていた。

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