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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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102話:迫りくる影

 朝の空気は張り詰めたように冷たく、白い息がすぐに霧散していった。


 紙幣が市で確かな根を打った翌朝、湊は仲間たちと共に神指城の縄張り予定地へ向かっていた。紙幣の流通は順調に進んでいる。だが、景勝様が求めているのは数字だけではない。目に見える形、成果として示せるものが必要だ。


 期限まで残り十日を切っている。もう余白はなかった。


 薄く積もった雪を踏みながら進むと、まだ森に近い湿り気のある空気が頬をかすめた。縄張りは始まったばかりで、荒地のような広がりの中に、目印の杭が打たれ始めている。ここから城の形を立ち上げていく。その第一歩が、今日だった。


 浅香が控えめに声をかけてきた。


「湊様、昨日の市の様子、城でも広まっていますよ」


「流れはできた。でも、景勝様が欲しいのは数字じゃない。形ある成果だよ」


「縄張り、ですか」


「うん。紙幣がどれだけ良い制度でも、目に見える何かがなければ信じてもらえない。武家は形を重んじる。城の輪郭が見えれば、紙幣が人を動かした証になる」


 八代が苦笑した。


「紙じゃ駄目で、城の輪郭なら通る。武家ってやつは、ほんと分かりやすいな」


「分かりやすいからこそ、僕たちも動きやすい。今日、縄張りを形にできれば、景勝様への報告に使える」


 慶次が腕を組みながら言った。


「でもよ、縄張りってのは時間がかかるもんだろ。一日で形になるのか」


「普通なら無理だ。でも、今日は違う」


「何が違う」


「人が集まってるんだよ。紙幣のおかげで」


 三雲が付け加えた。


「昨日の市場での成功が、噂になって広まっています。働けば紙幣がもらえる、その紙幣で買い物ができる。その話を聞いて、普請に来る人が増えているはずです」


「噂の力だな。良い方に働いてくれればいいが」


「今日は良い方に働く。そう信じて動くしかない」


            ◆


 湊は肩で息をしながら、杭の並びを眺めた。


 現場には南殿の配下、人足たち、盛胤の手勢から派遣された者たちが混ざり合っており、それぞれの持ち場で動いていた。朝の冷気の中、彼らの吐く息が白く立ち上り、活気のある声が響いている。


 そして、その全員の腰袋に、昨日までは見られなかったものが揺れていた。


 紙幣だ。


 薄い和紙に南殿の名と景勝様の印が押された紙幣が、人足たちの腰に揺れている。それを見た湊の胸に、温かいものが広がった。紙幣は確かに民の手に渡り、価値として認められている。


 普請頭が湊たちに気づき、駆け寄ってきた。手はかじかんで赤くなっていたが、声には活気がある。


「湊様。今朝の普請の集まり、いつもの倍でございます」


「倍」


「はい。昨日、市で紙幣が使えたと聞きましてな。働けば紙がもらえる、それが本当に価値になると知れて、人が自分から来るんです」


 湊の胸がじんわりと温まった。紙幣の効果が、こんなにも早く現れている。


「今日中にどこまで進めそうですか」


「縄張りの輪郭だけなら、陽が落ちる前に見える形になります。昨日の倍の人数なら、いけるはずです」


「輪郭が見えれば、それを成果として景勝様へ出せる」


 浅香が息を呑んだ。


「湊様、それでは今日が、決定の日に」


「そうなる。紙幣が普請を動かした証として示せなければ、僕たちの戦いは終わる」


 曽根が記録帳を開いた。


「湊殿。今朝の人足の数、記録しておきます。昨日が三十二名、今朝が六十七名。倍以上です」


「数字は大事だ。景勝様への報告に使う」


 三雲が付け加えた。


「紙幣の配布枚数も記録しています。普請場での配布は累計で二百三十枚。市場での流通も含めると、三百枚を超えています」


「三百枚。それだけの紙幣が、会津の中を動いているんだ」


            ◆


 湊たちが近づくと、人足たちの間でざわめきが起きた。


「湊様だ」


「紙幣の若様だぞ」


「昨日、市で干物を買えたんだ。紙幣、本当に使えるぞ」


 人足たちが湊を囲み、口々に話しかけてきた。


「湊様、紙幣のおかげで助かってます。銀がなくても、米が買えるんです」


「俺は干物に替えた。南家の仕入れが早くて助かった」


「女房が喜んでたよ。これで冬を越せるって」


「坊主、どこで働いてる。紙が出る普請なら俺も行く」


 その声を聞いて、湊は確信した。流れは完全に自分たちの側にある。紙幣は民の手に渡り、価値として認められ、人を動かしている。


 だが、それで安堵している余裕はなかった。


「みんな、聞いてくれ」


 湊は声を張った。


「今日、縄張りを形にする。紙幣が流れを生んだと証明するために」


 人足たちがどっと沸き、顔を紅潮させて道具を握りしめた。


「湊様の紙、ほんとに役に立つぞ」


「米に替わるし、寒い冬でも働けば暮らせる」


「この普請、やり遂げよう」


 その声を聞いた南殿の配下の男が、湊へ小走りで近づいてきた。


「湊殿。南殿が申しておりました。今日だけは、湊殿にすべてを委ねる、と」


「南殿が」


「南殿は弱くとも、湊殿を信じています。配下も、そのつもりで動きます」


 湊の胸に、熱と痛みが同時に湧き上がった。南殿は弱い。その弱さを責める声は多い。だが、弱さを認め、それでも進もうとする人間は、強い者よりずっと折れにくい。


「南殿に伝えてください。必ず成果を出します、と」


「承知しました」


            ◆


 そのとき、森の陰から盛胤が姿を現した。静かながら底に強い意志を秘めた歩き方だった。背後には、盛胤の兵が三十名ほど続いている。


「湊殿。こちらの縄張り、私の兵も動かしてよいか」


「もちろんです。あなたの力が必要です、盛胤殿」


「恩は返す。紙幣も普請も、すべて見届けてからだ」


 盛胤の兵が土杭を運び始めると、現場の空気はさらに熱を帯びた。南殿の配下と盛胤の兵が、同じ現場で働いている。数日前まで対立していた者たちが、今は同じ目標に向かって動いている。


 八代が湊の横で言った。


「湊、すげぇな。南と盛胤が一緒に働いてるぞ」


「紙幣が繋いだんだよ。紙幣があれば、働いた分だけ報われる。敵味方関係なく、利があれば人は動く」


「利、ねぇ。でも、それだけじゃねぇだろ」


「うん。信用もある。南殿と盛胤殿が、僕を信じてくれている。その信用が、人を動かしてる」


 慶次が笑った。


「湊、お前は本当に人たらしだな。敵も味方も、みんなお前についてくる」


「人たらしなんかじゃないよ。ただ、みんなが会津を守りたいと思ってる。その気持ちを、繋いでるだけだ」


 午前中の作業は順調に進んだ。杭が次々と打ち込まれ、縄が張られ、縄張りの輪郭が少しずつ見え始めた。人足たちは休憩を惜しんで働き、兵たちは無駄のない動きで木材を運んだ。


 湊は現場を歩き回り、作業の進捗を確認した。東側では杭の列が伸び、西側では縄が張られ、北側では盛胤の兵が土を掘り返している。すべてが噛み合って、城の形が少しずつ見えてくる。


 昼過ぎには、東側の列が繋がった。


「湊様、東側、完了しました」


「よし。西と南は」


「あと少しで繋がります」


「間に合う。このペースなら、夕方までに輪郭が見える」


            ◆


 午後に入ると、雪雲がわずかに裂け、陽光が射し込んだ。その光を合図にしたかのように、縄張りの作業は一段と勢いを増していった。


 浅香が地図を広げながら報告した。


「湊様、西側も繋がりました。南側もあと少しです」


「北側は」


「盛胤殿の兵が動いています。順調です」


 湊は現場全体を見渡した。朝は荒地だった場所に、杭と縄の列が伸びている。城の輪郭が、確かに見え始めていた。


 普請頭が駆け寄ってきた。


「湊様、このペースなら、夕方には輪郭が完成します」


「本当ですか」


「はい。人が多いおかげです。紙幣のおかげです」


 その言葉に、湊は深く頷いた。紙幣が人を集め、人が城を形にする。その因果が、今日ここで証明されようとしている。


 だが、そのとき、浅香が不安げに声を落とした。


「湊様、ちょっとお耳を」


「どうしたの」


「さっき盛胤殿の兵のひとりから聞きました。北の村で、また行方が分からない者が出たと」


 湊の指先が止まった。


「七人目」


「はい。ただ、誰も大きな声では言いません。皆、今は普請に集中しています」


 八代が低く呟く。


「倭寇、ついに動きが早くなってきたな」


「紙幣の流れが大きくなるほど、外側からの圧も強くなる。分かっていたことだけど」


 湊は空を見上げた。雪雲の切れ間は消え、また厚い空が覆い始めていた。


 盛胤が静かに近づいてきた。


「湊殿。気づいているのだろう。今、我らが動けば動くほど、外からの影が濃くなることに」


「それでも、進むしかないんです」


「その覚悟、見事だ。しかし、影は影として備えねばならぬ。普請の形が見える明日、我らは景勝様へ報告する。そこで、湊殿の策、紙幣の流れと普請の速度を結びつけた理を示してみせよ」


「はい」


「そして、倭寇に対する備えも、同時に求められるだろう」


 湊は拳を握った。


「紙幣の流れが地の力を作るなら、倭寇への備えは海の力を作らなきゃいけない。どちらも欠けられないんです」


「分かっているなら良い。会津は、湊殿に賭けている」


            ◆


 夕暮れが迫り、最後の杭が打ち込まれた。


 作業がゆっくりと止まり、人々が立ち尽くす。森の影が長く伸び、杭の並びがその影を切り裂くように伸びていた。縄張りらしい囲いが、確かに見えている。


「できたぞ」


「輪郭が見える」


「この普請、進んでるんだ」


 歓声が上がり、人足たちが互いの肩を叩き合った。紙幣を握って笑う者、明日の食糧の心配をしなくてよいと涙をにじませる者もいる。


 曽根が記録帳を閉じた。


「湊殿。今日の作業、記録しました。人足六十七名、兵三十二名、合計九十九名。杭の数、三百四十七本。縄の長さ、約八百間。輪郭の完成度、約七割」


「七割。明日には完成できる」


「はい。このペースなら、明後日には景勝様へ報告できます」


 浅香が湊の横で、小さく震える声で言った。


「湊様、これ、きっと景勝様にも届きます」


「うん。届いてほしい。紙幣が人を動かした証として」


「でも、それだけじゃありませんよ」


「え」


「湊様が、人の心を動かした証でもあります」


 湊は胸の奥に熱いものを感じながら、広がる縄張りの輪郭を見つめた。


 明日、縄張りを完成させる。明後日、景勝様へ報告に上がる。その報告が認められれば、南殿は救われる。紙幣は会津の正式な制度になる。


 だが、その未来に、倭寇という影が確かに迫っている。七人目の行方不明者。銀を狙い、会津を弱らせようとする意図。紙幣で内側を固めても、外側の脅威を断たなければ、会津は守れない。


 雪がひとひら、湊の肩に落ちた。静かに、決戦の気配を告げるように。


 形はできた。ここから先は、覚悟の話だ。


 湊は仲間たちと共に、夕暮れの縄張りを見つめた。会津の未来を守るために、歩み続ける。その決意だけが、冬の冷気の中で熱く燃えていた。

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