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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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101話:十日の兆し

 朝靄のかかる城下を、冷たい風が淡く撫でていった。


 雪は夜のうちに薄く積もり、まだ人の踏み跡もまばらだ。その静けさの中を、湊は仲間たちと共に南殿の屋敷へ向かって歩いていた。


 昨日、市場で紙幣が動いた。商人が受け入れ、民が価値を認めた。だが、それは始まりに過ぎない。今日からは「失敗が許されない日々」が続く。流れが生まれたからこそ、それを守り、育てなければならない。


 胸の奥の緊張は、昨日の成功で和らぐどころか、むしろ強まっていた。紙幣という芽は、まだ揺れている。根を張らせなければ、すぐに枯れてしまう。


 八代が雪を踏みながら言った。


「湊、市場で紙幣を受け取る商人が出たって話、城下じゅうに広まってるぞ」


「広まっていい。でも、今日はもっと強い根を打たないと」


「根、ねぇ。昨日のは芽だってわけか」


「うん。芽は揺れる。根を張れば倒れない」


 浅香が静かに言葉を継いだ。


「湊様。南殿も焦っておられるでしょう。景勝様からの期限は迫っています。南殿が弱っているほど、湊様の役割は重くなります」


「分かってる。でも南殿を守るには、表で僕が動くしかない」


 慶次が腕を組みながら言った。


「昨日の市場、俺も見てたけどよ、紙幣を受け取った商人と、拒んだ商人がはっきり分かれてたな。あれが今日どうなるか、だな」


「そうだね。受け入れた側が増えれば流れになる。拒んだ側が増えれば壁になる」


 三雲が控えめに付け加えた。


「昨日、市場で紙幣を拒んだ者の中には、かなり強い言葉で断った人もいました。成功は広まっていますが、同じ速度で反発も育ちます」


「だからこそ、今日が重要なんだ」


            ◆


 南殿の屋敷に入ると、広間にはすでに南殿が待っていた。


 その表情は、昨日よりもさらに張り詰めていた。目の下には薄い隈があり、眠れなかったことが見て取れる。紙幣の成功は南殿にとっても希望だったはずだが、同時に新たな重圧にもなっている。


 囲炉裏の火が弱く揺れ、部屋の中には冷たい空気が漂っていた。南殿は湊たちが座に着くのを待って、静かに口を開いた。


「湊殿。来てくれて助かった」


「何かありましたか」


「紙幣が市で流れたと聞き、家中で騒ぎが起きている。南は力を取り戻した、いや、湊殿が仕切っているだけだ。そんな声が渦巻いている」


 南殿はかすかに唇を震わせた。


「それだけではない。今朝、景勝様の側近から使いが来た。期限までの進捗を報告せよ、と」


「報告の内容は」


「紙幣の導入、市場での流通開始、商人の受け入れ。すべて伝えた。だが、側近の顔は曇ったままだった」


「何か言われましたか」


「数が足りぬ、と。紙幣を受け入れた商人がまだ少ない。このままでは、期限までに十分な成果とは認められぬ、と」


 湊の胸に冷たいものが走った。昨日の成功は、景勝様の目から見ればまだ不十分なのだ。


「南殿。今日から、商人への働きかけを強めます」


「どうやって」


「紙幣を受け入れた商人に、具体的な利を与えます。仕入れを南家が優先して手配する。銀がなくても商いが続けられる。その利を示せば、受け入れる商人は増えます」


 南殿の目に、わずかな光が戻った。


「なるほど。銀不足の痛みを、紙幣で救うのだな」


「はい。それが根になります」


 曽根が補足した。


「今、市場の困っている声はすべて銀不足です。紙幣を受け入れた商人が仕入れで得をすれば、流れは一気に南殿側へ傾きます」


「なるほど。利で動かすのか」


「利だけではありません。信用も必要です。だから、南殿の名前が重要なんです」


            ◆


 南殿はしばらく黙し、考え込むように両手を膝の上で握った。


「湊殿。私は昨夜、眠れなかった。紙幣が成功すれば会津は救われる。だが、失敗すれば私は切られる。その二つが頭の中で渦巻いて、朝まで眠れなかったのだ」


「南殿」


「私は弱い。それは分かっている。だが、弱いからこそ、湊殿に頼るしかない。それが情けなくて、悔しくて、眠れなかったのだ」


 その言葉に、湊は胸が締め付けられるような思いがした。南殿は古い民として、百年この土地を守ってきた。その重みを背負いながら、今、景勝様の圧力に耐えている。弱さを認めることは、南殿にとってどれほど辛いことか。


「南殿。弱さは恥ではありません」


「何」


「弱いと認められる人は、強い人より少ない。南殿が弱さを認めて、それでも戦おうとしている。それは、誰にでもできることではありません」


 南殿は目を見開いた。


「湊殿。そなたは、本当に若いのに、なぜそのような言葉が出てくるのだ」


「僕も弱いからです。一人では何もできない。仲間がいて、南殿がいて、盛胤殿がいる。だから動けるんです」


 南殿はしばらく沈黙し、そしてかすかに笑った。


「湊殿。その言葉だけで、まだ戦える気がする」


「一緒に戦いましょう。僕が前で動きます。南殿は裏で商人を支えてください。その形を、今日から整えましょう」


 南殿は深く頷いた。


「分かった。頼む、湊殿」


 浅香が静かに言った。


「南殿。紙幣を受け入れた商人への優遇措置、具体的にはどのような形が良いでしょうか」


「そうだな。まずは米の仕入れを優先する。南家の蔵から、紙幣を受け入れた商人に先に米を回す。銀がなくても仕入れができれば、商人は助かる」


「それなら、紙幣を受け入れない商人との差がはっきりします」


「うむ。差がつけば、受け入れる側が増える。人は利に流れるからな」


 湊は頷いた。


「今日から、その方針で動きましょう。市場で、紙幣を受け入れた商人に直接伝えます」


            ◆


 南殿の屋敷を出ると、雪は細かな粒に変わり、道を白く縁取っていた。


 朝の冷たさはまだ残っているが、空気にどこか張りつめた熱が混じっている。それは町全体が昨日の出来事を受けて揺れている証のようだった。


 湊は少し早い足取りで市へ向かった。今日確認すべきは、紙幣を受け入れた商人たちがどう動くか、そしてその周りがどう揺れるかだ。


 市場に着くと、すでに多くの人が集まっていた。いつもより人が多い。紙幣の噂を聞いて、様子を見に来た者も多いのだろう。店先には冬野菜、干した魚、織物、鉄具が並び、人々の声が重なり合っている。


 浅香が指さした先に、昨日紙幣を受け入れた干物屋が店を開いていた。店先には客が並び、紙幣でやり取りをしている姿が見える。


「湊様。昨日より客が増えています」


「うん。紙幣が使えると知って、来た人たちだね」


 曽根が記録帳を開いた。


「干物屋での紙幣使用、今朝だけで五件。昨日の倍以上です」


 湊は干物屋の店主に近づいた。


「調子はどうですか」


「湊殿。おかげさまで、今朝は客が多い。紙幣の噂を聞いてきた人たちだ」


「紙幣を受け入れてくれた商人には、南家から優遇措置があります。米の仕入れを優先して手配します」


 店主の目が輝いた。


「本当ですか。それは助かる。銀が足りなくて、仕入れに困っていたんだ」


「紙幣を受け入れてくれた恩返しです。これからも、よろしくお願いします」


「もちろんだ。紙幣、どんどん広めてくれ」


 その会話を、周囲の商人たちが聞いていた。紙幣を受け入れれば、仕入れで得をする。その情報が、じわじわと広がっていく。


 だが、市場全体を見渡すと、紙幣を使っているのはまだ一部だった。多くの商人は、まだ様子見をしている。中には、紙幣を持った客を断っている店もある。


 そのとき、反対側の通りから怒鳴り声が聞こえた。


「紙なんて信用できるか。銀を出せ」


 湊たちが振り向くと、野菜売りの商人が紙幣を突き返し、客と揉めていた。


「でも、干物屋では使えたって」


「知らん。うちは銀しか扱わん」


 湊が間に入った。


「すみません、この紙幣について説明を」


「湊殿でも無理だ。わしは南が信用できんのだ」


 その言葉に、周囲がざわめいた。紙幣への不信ではなく、南殿への不信。会津の古い土台にある民と領主の距離が、そのまま紙幣への警戒になっている。


「南に従えば、また振り回されるんじゃないか。銀が足りなくなっても、南は助けてくれんかった」


「だから、南殿は変わろうとしています。紙幣はその証です」


「変わるだと。そんな都合のいい話、誰が信じられる」


 声は怒りというより、長年積み重ねた絶望のようだった。


 湊は静かに商人へ近づいた。


「信じなくても構いません。でも、紙幣そのものを捨てる必要はありません。それが本当に価値を持つかどうか、あなた自身が確かめてください」


「確かめる」


「はい。米蔵に持っていけば、米と交換できます。嘘だと分かったら、二度と紙幣を勧めません。でも本当だと分かったら、考え直してください」


 商人は目を閉じ、深く息を吸った。


「湊殿。お主、南じゃないのに、そこまで言うのか」


「南殿を支えるのは、南殿のためだけじゃありません。会津のためです。あなたのためでもあります」


「そんな言葉、久しく聞いていなかった」


 商人の力が抜け、紙幣を握る手がわずかに震えた。


「湊殿。わしは、信じたい。だが、怖いんだ」


「怖くていいんです。怖いままで一歩踏み出した人が、昨日は市を動かしたんですよ」


 商人は紙幣を握りしめ、米蔵の方へ歩き出した。


            ◆


 日が高くなるにつれ、紙幣のやり取りは市のあちこちで増えていった。


 干物屋に続き、布商、薪屋、野菜売りにも広がり始めた。先ほど紙幣を拒んだ商人も、米蔵から戻ってきて、紙幣を受け入れるようになった。その顔には、驚きと安堵が混じっていた。


 曽根が記録帳を確認した。


「湊殿。市での紙幣受け入れ、十八件を超えました。昨日の三倍以上です」


「数字は良い。でも、まだ不安定だ。明日も同じ数が続くかどうか」


 三雲が付け加えた。


「優遇措置の話が広まれば、明日はもっと増えるはずです。利がある方に人は流れますから」


「うん。でも、利だけじゃなくて、信用も必要だ。南殿の名前が、ちゃんと根付くように」


 そのとき、三雲の表情が曇った。


「湊殿。実は、庄内から報せが届いています」


「何があった」


「港で、また商人が一人行方不明になりました。銀を扱う商人です」


 空気が凍った。


「倭寇ですか」


「可能性が高い、と南殿の配下が。これで行方不明者は六人目です」


 湊の胸に、冷たい感覚が走った。紙幣の流れが生まれた日に、倭寇も動いている。内側が整うほど、外側の敵は牙を研ぐ。


 八代が鋭い声で言った。


「湊、どうする」


「調査隊を、予定より早く出す」


「早く」


「もう悠長に構えている場合じゃない。紙幣の流れを守るためにも、倭寇の正体を掴まなきゃいけない」


 上泉が静かに言った。


「湊殿。調査隊は準備できています。明日の朝には出発できます」


「頼む。庄内で何が起きているのか、確かめてきてほしい」


「承知しました」


 浅香が湊の横に立った。


「湊様。調査隊が出れば、こちらの人数は減ります」


「分かってる。でも、両方を同時にやらなきゃいけない。紙幣を守りながら、倭寇の影を暴く。それが今の僕たちの仕事だ」


 仲間たちは迷いのない表情で頷いた。


            ◆


 市の喧騒を背に、湊は雪の道を踏みしめた。


 胸の内には二つの重さが同時に燃えていた。紙幣という新しい価値。倭寇という外側からの影。どちらも避ければ消える。向き合えば流れが生まれる。


 今日、市場で紙幣の流れは確実に広がった。商人が受け入れ、民が価値を認め、数字も伸びている。優遇措置の話も広まり始めた。だが、それと同時に、庄内では人が消えている。銀を扱う商人が狙われている。会津を弱らせようとする意図が、確実に動いている。


 南殿は今朝、眠れなかったと言った。弱さを認め、それでも戦おうとしている。その姿を見て、湊は自分の役割を改めて確認した。南殿を守り、紙幣を育て、会津を支える。そのために、前に立ち続ける。


 湊は小さく息を吐いた。


「ここからだ。ここから本当の戦いが始まる」


 その言葉に、仲間たちは力強く頷いた。


 明日、調査隊が庄内へ向かう。紙幣の流れを守りながら、倭寇の正体を掴む。二つの戦いを同時に進める。それが、今の湊に課せられた使命だった。


 雪が細かく舞い、会津の町を白く染めていく。その白さの下で、新しい流れと古い影が、静かにぶつかり合おうとしていた。


 湊は仲間たちと共に、次の一歩を踏み出した。会津の未来を守るために、歩み続ける。その決意だけが、冬の冷気の中で熱く燃えていた。

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