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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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100話:紙が価値を持った日

朝の冷気が市の並木を揺らし、雪煙が細い筋となって通りを流れていった。


 会津の町はまだ静かだが、その奥にざわめく気配があった。評定で紙幣が正式に認められてから三日。普請場での試験導入を越え、紙幣は少しずつ町へ広がり始めている。今日、湊は仲間たちと共に城下の市へ足を向けていた。


 吐く息が白く消えるたび、湊の胸には少しずつ緊張が満ちていく。普請場では人足たちが紙幣を受け取り、米蔵での交換も順調に進んでいる。だが、市で流れが生まれなければ、紙幣は人足だけの道具で終わってしまう。商人が受け入れて初めて、紙幣は本当の価値になる。


 脇腹の傷はだいぶ癒えてきた。盛胤と刃を交えてから、もう十日ほどが過ぎている。あの日から、会津は大きく動いた。盛胤との和解、南殿との連携、紙幣の導入、評定での承認。一つひとつは小さな歩みだが、積み重なれば道になる。


 浅香が湊の横に並んだ。


「湊様。今日は市の反応を見るのですね」


「うん。商人が紙幣を受け入れるかどうか、それが次の分かれ目だ」


「普請場では順調でしたが、商人は別ですね。彼らは利に敏い」


「だからこそ、利があると示さなきゃいけない。銀が足りない今、紙幣は商人にとっても助けになるはずだ」


 八代が後ろから声をかけた。


「湊、市の入り口が見えてきたぞ。人が多いな」


「いつもより多いかもしれない。紙幣の噂を聞いて、様子を見に来た人もいるだろう」


            ◆


 通りが開け、市場の喧騒が湊たちを包み込んだ。


 店先には冬野菜、干した魚、織物、鉄具。普段と変わらぬ光景だが、人々の声にはいつもと違う色が混じっている。あちこちで紙幣の話が交わされ、好奇と不安が入り混じった空気が漂っていた。


「南家の紙、ほんとに米と替わったらしいな」


「普請場の連中が懐にしてたぞ」


「商人は受け取るのかい」


「まだ分からん。試した奴がいないからな」


 市の空気は、紙幣を中心に回り始めていた。その噂は誇張と不安と好奇が入り混じり、どれも根は細いが確かに広がっている。


 曽根が湊の横で囁いた。


「湊殿。市全体が紙幣の話をしています。これほど早く広まるとは思いませんでした」


「噂の力だね。良い方にも悪い方にも働く」


 三雲が付け加えた。


「今日、商人が一人でも受け入れれば、噂は一気に変わります。逆に、全員が拒否すれば、紙幣は終わります」


「だから、僕たちがここにいる。流れを作るために」


 浅香が示した先に、紙幣を指でつまみながら店主と話し合う若者がいた。昨日、普請場で紙幣を受け取った人足の一人だ。湊は足を止め、その様子を見守った。


「この紙で、干し大根三つ買えませんか」


「いや、その紙とやらの価値が、まだ分からん」


 店主は眉をひそめ、手を伸ばしかけては引っ込める。紙幣を受け取りたい気持ちと、不安との間で揺れているのが見て取れた。


 湊が声をかけると、店主は驚いたように頭を下げた。


「南家の、いや、湊殿でしたか」


「この紙幣は、南家の米蔵で必ず米一升と交換できます。昨日も五名が換えに来たと、蔵番から報せがありました」


「だが、わしは米蔵に用がない。商いの材料が欲しいだけで」


「米は銀になります。南家に売っても構いません。あるいは別の商人に渡してもいい。紙幣が手から手へ渡れば、銀と同じように使えます」


 店主は紙幣を見つめた。薄い和紙、景勝様の印、南殿の名。手に取るその指先は、ためらいと興味の中で揺れていた。


「湊殿。ひとつ、試してみてもよいか」


「もちろんです」


 店主は紙幣を受け取り、干し大根を三つ渡した。その瞬間、若者が安堵の息をつき、周囲の客の目が一斉に集まった。


「おい、今の見たか」


「商人が紙を受け取ったぞ」


「ほんとに買い物できるんだ」


 ざわめきが走り、市の空気が大きく揺れた。広がる噂の速度は、普請場よりはるかに速い。商人が受け取った。それだけで、紙幣は別の段階へ踏み出す。


            ◆


 市の奥へ進むにつれ、紙幣の噂はさらに熱を帯びていった。


 だがその熱の中には、冷たい影も混じり始めていた。商売の命は信用だ。新しい価値が生まれる場所には、必ず反発も生まれる。


 布を広げていた女商人が湊に声をかけた。


「湊様、南家の紙、あれは本当に続くんですかい」


「続きます。必ず」


「でもね、昨日も銀の値が急に上がったんだよ。庄内からの銀が入らなくなったもんだから、みんな疑心暗鬼で」


「だからこそ、紙幣が必要なんです。銀が足りなくても、紙幣があれば商いは続けられる」


「そうかねぇ。でも、紙が銀の代わりになるなんて、まだ信じられないよ」


 女商人の視線は紙幣ではなく、市全体の流れを見据えていた。商人ほど流れに敏い者はいない。


 そのとき、通りの反対側で怒鳴り声が上がった。


「紙なんぞ、受け取れるか。ふざけるな、帰れ」


 湊たちが駆け寄ると、魚屋の店主が紙幣を突き返し、若い人足と揉めていた。


「でも、昨日は別の店で」


「知らん。南家の紙なんざ、役に立つかどうかも分からん」


 八代が眉をひそめた。


「出たな、最初の拒否だ」


「止めないと」


 湊が間に入った。


「すみません、この紙幣について説明を」


「湊殿でも無理だ。わしは銀しか扱わん」


 店主は湊の言葉を遮った。頑固ではあるが、恐れが彼を固くしているのは明らかだった。銀不足が続けば商売は死ぬ。紙幣を受け入れれば、価値が崩れて死ぬかもしれない。どちらも等しく恐ろしい。


 慶次が低く言った。


「なぁ親父。恐ぇのは分かるが、噂だけで決めつけるなよ」


「噂じゃない。価値の裏が銀じゃなきゃ、わしは信じん」


 上泉が静かに口を開いた。


「ならば、確かめればよい」


「確かめる」


「普請場で紙を受け取った者が、実際に米蔵で米と交換しておる。それは紛れもない事実だ。疑うなら、自分の目で確かめればよい」


 店主の目が揺れた。頑固だが、真実には反応する。その揺れを、湊は見逃さなかった。


 湊は紙幣をそっと差し出した。


「試しに、これを預けます。疑うなら、あなた自身が米蔵へ持っていって確かめてください」


「わしが」


「そうです。商人の目で、価値を見極めてほしい。嘘だと分かったら、二度と紙幣を勧めません。でも、本当だと分かったら、考え直してください」


 周囲の商人たちが息を呑んだ。商人にとって「自分の目で確かめろ」という言葉は、最高の挑発であり最高の敬意だ。


 沈黙ののち、店主は紙幣を掴んだ。


「行ってくるわ」


 そう呟き、足早に米蔵の方へ歩き始めた。


 三雲が小声で言った。


「湊殿、あの店主、頑固ですが、嘘だけは嫌う人です。もし交換が成功すれば」


「市の空気が変わる」


「はい。逆に失敗すれば、紙幣は終わります」


 湊の胸が強く脈打った。紙幣の未来が、今まさに一人の商人の判断に委ねられている。


            ◆


 しばらくして、米蔵の方からざわめきが響いた。


 人々が道を開け、さきほどの魚屋の店主が戻ってくる。手には、米の小袋を抱えていた。


「本当に、本当に米と替わった」


 市全体が、息を飲んだように静まり返った。


 店主は震える声で言った。


「この紙、本当に価値がある」


 その瞬間、どっと空気が動いた。周囲の人々が湊を見つめ、商人たちは互いに顔を見合わせ、誰かがぽつりと呟いた。


「じゃあ、うちも試してみるか」


「米に替わるなら、銀と変わらん」


「いや、むしろ銀より安心かもしれん。南家が保証してるなら」


 波が起きた。その波は、普請場の噂とは比べものにならない速度で市全体に広がり、紙幣という小さな紙が、一つの価値として息を吹き始めた。


 八代が湊に囁いた。


「これで流れができたな」


「まだ小さな流れだよ。でも、始まった」


 慶次が笑った。


「湊、お前のやったことは魔法じゃねぇ。だが、民の心を動かすってのは、魔法に近ぇな」


「魔法じゃないよ。ただの約束だよ」


 曽根が記録帳を開いた。


「湊殿。市での紙幣受け入れ、六件目が生まれました。数字としても十分報告できます」


「ありがとう。でも、数字はまだ始まり。これから増えるかどうかが大切だ」


 湊は市全体を見渡した。人々が紙幣の噂に耳を傾け、商人たちは慎重に紙を見つめ、普請場の若者たちが誇らしげに紙を人に見せている。


 ここに流れがある。ここに価値が生まれる。ここに、会津の未来が変わる道筋がある。


            ◆


 湊は市の喧騒の中に立ち、膨らむ気配を感じていた。


 盛胤と刃を交えた日から、十日が過ぎた。あの日、湊は敵だった男と向き合い、言葉で心を動かした。盛胤は味方になり、会津の武の柱として立つことを決めた。


 南殿との連携も深まった。評定では、南殿が自らの弱さを認め、湊に前を任せると明言した。それは敗北ではなく、会津を守るための戦略的な判断だった。兼続様も紙幣の導入を認め、調査隊の増員も許可された。


 そして今日、紙幣が市で流通し始めた。商人が受け入れ、民が価値を認めた。小さな流れだが、確実に動き始めている。


 紙幣は人の不安で止まり、人の勇気で動く。南殿の名と景勝様の印は土台を与えるだけで、流れを生むのは民自身の判断だ。今日、魚屋の店主が自分の目で確かめ、価値を認めた。その一歩が、市全体を動かした。


 だが、同時に別の影も深まっている。倭寇の脅威は消えていない。庄内では商人が消え、銀が奪われ、会津を弱らせようとする意図が見え始めている。紙幣で内側を固めても、外側の脅威を断たなければ、会津は守れない。


 上泉が静かに空を見上げた。


「湊殿。この流れを見て、倭寇も何かしら動くでしょう。内側が整えば、外側は必ず牙を研ぎます」


「分かってる。だから、急がなきゃいけないんだ」


 浅香が湊の横に立った。


「湊様。調査隊の準備は進んでいます。明後日には、庄内へ向けて出発できます」


「ありがとう。紙幣の流れを見届けたら、調査隊の最終確認をしよう」


 三雲が付け加えた。


「庄内の情報、南殿の配下からも集まっています。倭寇の動きが分かれば、対策が立てられるはずです」


「うん。内と外、両方を同時に動かす。それが今の僕たちの仕事だ」


 湊は仲間たちの顔を見回した。浅香、八代、慶次、曽根、三雲、上泉。六人がいるから、ここまで来られた。盛胤との戦いも、南殿との連携も、紙幣の導入も、一人では成し遂げられなかった。


「みんな、ありがとう。ここまで来られたのは、みんなのおかげだ」


「当然だ」


 八代が槍を肩に担いだ。


「どこまでも付き合うぜ、湊」


 慶次が笑った。


「百日でも千日でも付き合ってやるよ。お前の道は、退屈しねぇからな」


            ◆


 市の喧騒が少しずつ落ち着き始めた頃、湊は雪の道を歩き出した。


 紙幣という価値が民の間へ根を伸ばす一方で、別の影も同時に深まっていく。銀を狙う倭寇、その背後にいる誰か。会津を揺さぶる下準備は、今も進んでいるはずだ。


 それでも、今日、市が動いた。それだけで、湊の胸には確かな光が灯っていた。民が紙を手に取り、価値だと判断した。その一歩が、すでに始まりを越えている。


 三十日の期限まで、あと十日ほど。その間に、紙幣の流通を定着させ、倭寇の正体を掴まなければならない。やることは山ほどある。だが、一歩ずつ進めば、必ず道は開ける。


 湊は空を見上げた。雲間から薄い陽が差し、白い光が会津の町に落ちている。


「行こう。次は、流れを定着させる」


 湊がそう言うと、仲間たちは迷いなく頷いた。


 会津に新しい価値が芽生えた日。その足音を確かめながら、湊は雪の道を次の戦いへと歩み出した。確かに一つの節目を越えた。だが、物語はまだ続いている。会津の未来を守るために、湊は歩み続ける。

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