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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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99話:紙幣の兆し、倭寇の影

朝の雪は薄く光り、会津の空気には緊張が混じっていた。


 紙幣導入の初日を越えた翌朝。湊は町の動きを確かめるため、早く宿を出た。昨日、普請場で配った紙幣が民にどう受け止められたか。米蔵での交換は三件に増えたと聞いている。小さな流れだが、確実に動き始めている。


 だが、今日はそれだけでは終わらない。城で評定が開かれる。景勝様の側近たちが集まり、会津の現状を報告する場だ。南殿から「三十日以内に成果を示せ」と言われた期限。その中間報告として、紙幣の導入を正式に認めてもらう必要があった。


 脇腹の痛みはまだ残るものの、歩みに支障はない。浅香、八代、慶次らと共に城下を進むと、人々の会話が耳に入った。


「南家の紙で米が出たらしいぞ」


「ほんとかよ。なら、わしも欲しいな」


「価値は南家が保証してるんだと」


 湊の胸がわずかに熱を帯びた。昨日の一歩は、小さくても確実に広がっている。


 町並みを抜け、湊たちは城の一角にある評定の間へ向かった。木戸の前には、会津家中の重臣たちがすでに集まり始めている。南殿もそこにいたが、その姿はやや硬く、視線を泳がせていた。


「湊殿」


 南殿が小さく声をかけた。


「大丈夫です。今日は僕が話します。南殿は裏から支えてください」


 南殿の肩がわずかに震えた。安堵か、それとも別の感情か。しかし、その目に宿る決意だけは、揺らいでいなかった。


            ◆


 評定の間に入ると、重苦しい空気が湊たちを包んだ。


 畳の上には十数名の家臣が座し、正面には景勝様の側近である直江兼続の姿があった。兼続は静かに湊を見つめている。その目には、期待と警戒が入り混じっていた。


 家臣たちの視線が南殿へ向かい、すぐに湊へ移った。その移り方には、明らかな序列があった。南殿は弱い。だが、動かすのは湊だ。そんな空気が、言葉にせずとも漂っていた。


 南殿は湊の半歩後ろに下がり、控えめに座した。南家が古い民であるにも関わらず、今や湊が表の顔として扱われていることは、誰の目にも明らかだった。


 兼続が口を開いた。


「南殿。三十日の期限について、中間の報告を聞きたい」


 南殿は一瞬言葉に詰まった。湊は静かに膝を進めた。


「恐れながら、湊より申し上げます」


 ざわり、と空気が揺れた。若い外様が口火を切るなど本来なら許されない。だが、兼続は止めなかった。むしろ、わずかに頷いた。


「よい。聞こう」


            ◆


「まず、紙幣導入の経緯と結果を申し上げます」


 湊が口を開くと、家臣たちの背筋がわずかに伸びた。


「銀の流出が続き、城普請の手当てが滞っておりました。人足たちは作業を止め、町の空気も乱れ始めていた。その対策として、銀に頼らない仕組み、紙幣を導入いたしました」


 一人の年配の家臣が問うた。


「紙幣とは何だ。紙で金の代わりをするというのか」


「はい。この紙を持っていけば、南家の米蔵で米と交換できる。その約束を紙に記したものです」


 湊は懐から紙幣の試作を取り出し、卓上に置いた。


「昨日、普請場にて五十三名の人足に紙幣を配りました。その日のうちに一名が交換に訪れ、今朝の時点で三名が米と交換しております」


 別の家臣が眉をひそめた。


「たった三名か。それで成功と言えるのか」


「成功とは申しておりません。始まったと申しております」


 湊の声は静かだが、揺らぎがなかった。


「紙幣が価値を持つには、時間がかかります。最初は疑う者も多い。しかし、交換が成功すれば噂が広まる。紙が本当に米に変わると知れば、使う者が増えます」


 兼続が口を挟んだ。


「湊殿。紙幣の価値は何が担保しているのだ」


「南殿の名と、景勝様の印です。そして、僕自身の責任です」


「責任とは」


「紙幣が約束通りに交換されなければ、僕が責任を取ります。首を差し出しても構いません」


 室内がしんと静まった。若い外様が、首を賭けて紙幣の価値を保証すると言っている。その覚悟の重さが、家臣たちに伝わった。


 兼続は少し考えてから言った。


「南殿。紙幣について、どう考えておる」


 南殿は湊を見て、それから兼続に向き直った。


「湊殿の案に、南は全面的に従います。民の空気を整えるのは、南の務めにございます。紙幣が民に受け入れられれば、銀の流出を補い、会津の暮らしを守れます」


 家臣たちの視線が、また湊に戻った。南殿が従うのではなく、湊が動かしている。その構図が、評定の場で可視化されていく。


 年配の家臣が問うた。


「湊殿。銀を扱う商人たちはどう思うのだ。紙幣が広まれば、商人たちは困るのではないか」


「その懸念はあります。だからこそ、紙幣は銀を否定するものではないと説明しております。銀が足りないときに補う道具だと。商人たちを敵に回すつもりはありません」


「商人たちが紙幣を受け入れなければ、どうする」


「まずは普請の手当てから始め、民の間で信用を築きます。商人たちは、民が紙幣を使い始めれば、自然と受け入れるようになります。利がある方に人は流れますから」


 兼続が頷いた。


「筋は通っておる。だが、紙幣だけで会津が守れるわけではあるまい」


「おっしゃる通りです」


 湊は姿勢を正した。


「紙幣は会津の内側を守る仕組みです。しかし、外側からの脅威には、別の手が必要です」


「倭寇のことか」


「はい。庄内の港で商人や漁師が行方不明になっている件、南殿の配下が調査を続けております。しかし、南殿だけでは人手が足りません」


 兼続の目が鋭くなった。


「何を求めておる」


「調査隊の増員です。庄内、佐渡、蝦夷への海路を調べるため、会津の兵を数名、調査に回したい」


 家臣たちがざわめいた。会津の兵を調査に使うというのは、軍事的な動きを意味する。


「倭寇が本当に会津を狙っているのか」


「断定はできません。しかし、銀を狙い、交易を乱し、会津を弱らせようとしている意図があるように見えます。その正体を掴まねば、対策が立てられません」


 兼続は腕を組んで考え込んだ。


「南殿。調査の件、どう思う」


 南殿は静かに答えた。


「南の配下だけでは、確かに限界がございます。倭寇の動きが本物であれば、会津全体で対処すべきかと」


「湊殿の案を支持すると」


「はい。湊殿が前に立ち、南がそれを支える。その形でなければ、三十日の期限を越えられません」


 その言葉に、家臣たちの空気が変わった。南殿が自らの弱さを認め、湊に任せると明言した。それは敗北ではなく、戦略的な判断として受け止められた。


            ◆


 兼続が立ち上がった。


「湊殿。紙幣の導入は認める。ただし、三十日の期限までに、紙幣が民の間で流通している証拠を示せ。交換の記録、使用者の数、すべて報告せよ」


「承知しました」


「調査隊の増員も許可する。ただし、兵は五名まで。それ以上は、成果を見てからだ」


「ありがとうございます」


「南殿」


 兼続は南殿を見た。


「三十日の期限は変わらぬ。だが、湊殿が前に立つことを認める。南殿は裏方として支えよ。それが会津のためだ」


 南殿は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 評定が終わり、家臣たちが立ち上がり始めた。湊は安堵の息を吐いた。紙幣の導入が正式に認められた。調査隊の増員も許可された。小さいが、確実な前進だ。


 だが、同時に責任も増した。三十日の期限までに、紙幣が流通している証拠を示さなければならない。倭寇の正体も掴まなければならない。退く道はない。


            ◆


 評定が終わると、湊たちは雪の舞う廊下を並んで歩き出した。外の冷気が流れ込み、張り詰めていた空気がようやく緩む。


「湊殿」


 南殿がそっと呼びかけた。歩幅は小さく、視線は床に落ちている。


「助かった。わし一人で評定に立っておれば、兼続殿に見限られていた」


「南殿の働きがあるから僕が動けるんです。裏を整えてくれているのは南殿でしょう」


「いや、表に立つべきはそなたよ。わしは古い民、景勝様にも信は浅い。だが、そなたは違う。そなたの言葉には皆が耳を傾ける」


 八代が肩越しに笑った。


「湊、いつの間にか南殿より前に出るようになってんな」


「出たくて出てるわけじゃないよ。必要だからだよ」


 慶次が腕を組んで唸った。


「んでも、今日の家中の反応、ありゃ完全に湊中心だったぜ。南殿が言うより、お前が言った方が通る空気だった」


「それが、南殿を守ることにも繋がるなら、僕は前に出るよ」


 その言葉に、南殿が小さく息を飲んだ。


「湊殿。そなたは、本当に優しいな」


「優しいんじゃなくて、合理的なだけです。南殿が潰れたら、紙幣も民政も全部止まる。会津が持たない」


「合理か。ふむ、救われる理屈よ」


 城を出ると、雪雲が切れ、冷たい光が道に落ちていた。普請場から戻る人足の姿が見え、その手には紙幣が握られている者もいる。


「あれ、湊様じゃねぇか」


「紙の金の若様だ」


「今日、米蔵で二組が交換してったぞ」


 町の空気は確実に変わりつつあった。紙幣が話題となり、やがてそれは評定の議論すら越えて民へ広がる。


            ◆


 湊は仲間たちと共に、雪の道を歩きながら考えていた。


 今日の評定で、紙幣の導入が正式に認められた。調査隊の増員も許可された。これで、内側と外側の両方に手を打てる。だが、時間は限られている。三十日の期限まで、あと二十日ほど。その間に、紙幣を広め、倭寇の正体を掴まなければならない。


 南殿は弱い。だが、その弱さは責めるものではない。古い民として土地を守ってきた重みがある。景勝様に詰められながらも、必死に会津を繋いでいる。だからこそ、自分が前に出る必要がある。


 浅香が湊の横に並んだ。


「湊様。明日は、どう動きますか」


「まず、紙幣の動きを追う。普請場と米蔵で、どれくらい紙が巡るか確認したい。それから、調査隊の編成を始める。庄内へ向けて、早ければ三日後には出発させたい」


 八代が眉を上げた。


「俺たちも行くのか」


「まだ決めてない。でも、倭寇の影が本当に広がっているなら、戦う可能性もある」


 慶次がにやっと笑った。


「戦いと聞けば腕が鳴るが、相手が海賊じゃなぁ。海のことは分からねぇ」


「分からないなら、調べるしかないよ」


 曽根が静かに言った。


「湊殿。紙幣の記録は毎日取ります。交換の数、使用者の名前、すべて記録しておきます」


「ありがとう。兼続殿に報告するとき、数字が必要になる」


 三雲が付け加えた。


「調査隊の人選、南殿と相談して決めましょう。海のことに詳しい者がいれば、その者を入れたい」


「うん。南殿に聞いてみる」


 湊は空を見上げた。雲間から薄い陽が差し、白い光が会津の町に落ちている。


 紙幣は確かに動き始めた。評定でも認められた。だが、これはまだ始まりに過ぎない。三十日の期限までに、紙幣が民の間で流通している証拠を示さなければならない。倭寇の正体も掴まなければならない。


 仲間たちの足音が、雪を踏みしめながら続いている。六人がいるから、前に進める。その確信だけが、湊の胸に灯っていた。


「行こう。明日も、動くよ」


 仲間たちは静かに頷いた。会津の未来はまだ霞んでいる。それでも、歩み続ければ、必ず形が見える。湊はその確信を胸に、白い道を進み続けた。

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