9話:沈黙が教えてくれたこと
用水争いの一件から三日が過ぎた。
城下巡察の任が与えられて三日。
湊は弥藤の案内で会津の町を歩き続けていた。
農地、職人街、交易路、寺社――
どこを訪れても、人々は言葉を選びながら湊に話してくれた。
(表面だけなら問題はもう把握できた。
でも……本当の“根っこ”までは、まだ見えていない)
湊はそれを痛感していた。
誰もが口を濁す“ある領域”があるのだ。
――旧会津衆と、越後衆の対立。
口には出さずとも、確実に空気の中に沈んでいる感情があった。
◆
「清原。今日は北の方の村を回るぞ」
弥藤は軽い声で言ったが、歩く道は普段より静かだ。
家々の扉が固く閉ざされ、畑にいる者の目線は鋭い。
「……ここ、なんだか雰囲気が違いますね」
「そりゃそうだ。ここは“越後からの移住者が少ない村”だからな」
その一言だけで、湊は状況を理解した。
つまり――
ここでは“移封に対する不満”が色濃く残り、
上杉家への忠誠心も揺らいでいる。
湊の背筋がわずかに強張った。
(ここが、本当の意味での“現場”だ)
◆
最初に訪れた家では、無言の女が茶だけを置いて部屋を出ていった。
「……感じ悪いとか、そう思うなよ」
弥藤が囁く。
「越後者へのわだかまりもあるが、皆、生活に必死なんだ。
不満を誰にぶつければ良いかもわかっちゃいない」
湊は頷き、静かに茶を飲んだ。
(ここで、丁寧に話を聞くしかない)
次の家では年配の男が湊を見て、眉をひそめた。
「聞き取り? またか。
どうせ上に伝わる前に“都合の良い形”に変わるんだろう」
「変えません。私は……聞いたままを書きます」
「若造の言うことなんぞ信用できるか」
その拒絶は鋭かった。
だが湊の胸に刺さったのは怒りではなく、“自分の弱さ”だった。
湊は言葉を飲み込み、深く頭を下げた。
「……それでも、聞かせてほしいんです」
男はしばらく沈黙し、それからようやく口を開いた。
「会津に越後の者ばかり優遇されている、そう思う者もいる。
だが文句を言えば“逆らった”と見られる。
仕方なく従っているだけよ」
(……これだ。
数字には出ない、本当の苦しみだ)
◆
村を出た帰り道、弥藤がぽつりと呟いた。
「清原。さっきの態度、悪くなかったぞ」
「いえ……何も返せませんでした」
「返す必要はねぇよ。
ああいう沈黙は、何かしてほしいから出るんじゃない。
“痛みを知ってほしい”から出るもんだ」
湊は足を止めた。
「……痛み、ですか」
「そうだ。俺たちは“武”の家中だから、
そういう声を聞かなくても生きていける。
でもお前は違う。“聞きに行く役目”だ」
風が吹き、積雲が低く流れた。
会津の空は静かだが、その静けさには重みがあった。
◆
長屋に戻ると、すでに一人の男が待っていた。
鋭い眼光、無駄のない姿勢――宮森主膳だった。
「……主膳殿」
「直江様より伝言だ。
本日のお前の巡察について、明朝、書院で報告を求めるとな」
「わ、わかりました」
主膳は湊を見据える。
「清原。お前は“よく働いている”という声も届いている。
だが――」
「だが……?」
「お前の文章は、まだ優しすぎる。
あの建白書もそうだ。
現場の苦しさを“丸めて”書いている節がある」
湊は言葉を失った。
(……気づかれていたのか)
主膳は続ける。
「この国を治めるのは情けだけではない。
苦しみも怒りも、歪んだ声も、すべてそのまま受け止めて書け。
綺麗な文では政は動かぬ」
湊の胸が鋭く刺された。
「……はい」
「いい眼をしている。逃げるなよ」
それだけ言うと主膳は立ち去った。
湊はしばらく動けなかった。
(優しすぎる……
僕の文章が……?)
その指摘は、宮森主膳という武士の厳しさであり、
湊自身が一番向き合いたくなかった“核心”でもあった。
◆
(……逃げない。逃げてはいけない)
湊は筆を取り、今日聞いた声をそのまま書き写し始めた。
不満。
怒り。
行き場のない嘆き。
名前を伏せてもにじみ出る感情。
書けば書くほど胸が痛む。
だがその痛みこそ、湊がこの世界で背負う“武器”の重さだった。
(僕は――武士じゃない。剣も振れない。
でも、だからこそ……“言葉で逃げない”)
静かな夜、湊の筆音だけが長屋に響き続けた。
書き続けるほど、胸の奥が重くなる。
湊は机に置いた紙を見つめた。
そこに並ぶ文字は、いつもの自分の文章とは違っていた。
――“痛みを薄めていない”。
――“慰めを添えていない”。
――“苦しみを丸めていない”。
(これが……現場の“形”なんだ)
人々の口から出る声には、怒りも不安も諦めもあった。
湊はそれを丁寧に聞いたつもりだったが、
文章にするとき、どこかで無意識に“和らげて”いた。
(主膳殿には、全部気づかれていた……)
胸がひりつく。
だがその痛みは、湊に逃げ道を残さなかった。
(綺麗に書いても誰も救えない。
痛みから目を逸らしたら、自分も嘘をつくことになる……)
湊は筆を再び取り、紙に向き合った。
◆
夜が更けた。
長屋の窓から見える雲は低く、動きが鈍い。
まるで町に溜まった“重さ”そのもののようだった。
ふと、視界がゆらりと揺れた。
(……あれ?)
急に涙がこぼれた。
理由はわからない。
誰かに責められたわけでもない。
叫びたいほどの怒りもない。
ただ――
(僕は……こんなにも、何もできていなかったんだ……)
現実をそのまま書くことが、こんなに苦しいとは思わなかった。
人の生活、人の傷、人の怒り――
それを受け止めて言葉にすることが、
こんなにも“重い仕事”だとは知らなかった。
「……でも、だから書かないわけにはいかないんだ」
涙を袖で拭き、湊は再び筆を走らせた。
痛みを痛みのまま。
怒りを怒りのまま。
沈黙を沈黙のまま。
そこに“言い訳”は一つも入れなかった。
◆
翌朝、書院はいつもより張り詰めた空気だった。
湊は入口で深く息を吐いた。
(今日の報告……逃げずに言えるだろうか)
部屋に入ると、直江兼続がすでに座していた。
その隣には宮森主膳もいる。
湊は正座し、紙束を差し出した。
「直江様。本日の巡察報告にございます」
「うむ。読ませよ」
兼続は一枚目を手に取り、静かに目を通し始めた。
湊はじっと膝を見つめたまま、呼吸を整えた。
(昨日までの建白書とは……違う。
これをどう受け止められるか……)
二枚。
三枚。
兼続の眉が動く。
しかし表情は読めない。
最後の一枚を読み終えた兼続は、紙束をそっと机に置いた。
「……清原」
「……はい」
「昨夜、お前は泣いたな」
心臓が跳ねた。
(な……なんで……?)
兼続は優しく、だが逃げ場のない声で続けた。
「言葉に重みがある者は、必ず一度は泣く。
現実をそのまま書こうとすると、心が切れるのだ」
湊は唇を噛んだ。
主膳が口を開いた。
「……悪くない。
いや、むしろ昨夜の涙でようやく“書く者の覚悟”を持ったな」
その言葉は厳しくも温かかった。
「お前の文章、昨日までとは違う。
痛みがそのまま載っている。
それが“政を動かす言葉”だ」
湊の胸が熱くなった。
「まだ未熟だが……誠実さは本物だ。
直江様の下で鍛えれば、必ず使える者になる」
兼続は静かに頷いた。
「清原。これは命令だ。
今後の報告は、“綺麗な文”を一切書くな。
嘘はつくな。
丸めるな。
逃げるな」
「……はい!」
湊は深く頭を下げた。
◆
書院を出たあと、主膳が湊を呼び止めた。
「清原」
「はい」
「泣いたこと、恥じるなよ」
主膳の声は不思議なほど柔らかかった。
「泣くほど真正面から向き合った者だけが、
人の心に届く文章を書ける。
それが“書き手の覚悟”だ」
湊は息を呑んだ。
「……主膳殿は、泣いたことがありますか?」
主膳は少しだけ目を細めた。
「あるとも。
会津の民の苦しみを知った夜、
直江様の側で、何もできなかった自分が悔しくてな」
その声は、武士の威厳と、人間の弱さを同時に含んでいた。
「その涙こそ、俺を強くした。
だからお前も、恥じるな。
むしろ誇れ」
湊の胸に、静かに火が灯った。
(……僕は、まだ弱い。
でも弱いからこそ、逃げずに向き合うんだ)
◆
その日の夕刻。
湊は長屋の前で紙束を抱え、空を見上げた。
空には鱗雲が広がっていた。
細かな波のように連なるその形は、まるで“予兆”を告げているようだった。
(何かが……動き始める)
ただの巡察では終わらない。
その予感が湊の胸に確かにあった。
(僕は――ここで生きる。
そして、この国の痛みを見て、書いて、伝える)
握った紙束は、昨日よりずっと重かった。
だがその重さを、湊はもう恐れなかった。




