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武士の心構え〜法学部生、上杉家に挑む  作者: 一条信輝


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9話:沈黙が教えてくれたこと

用水争いの一件から三日が過ぎた。

城下巡察の任が与えられて三日。

 湊は弥藤の案内で会津の町を歩き続けていた。


 農地、職人街、交易路、寺社――

 どこを訪れても、人々は言葉を選びながら湊に話してくれた。


(表面だけなら問題はもう把握できた。

 でも……本当の“根っこ”までは、まだ見えていない)


 湊はそれを痛感していた。

 誰もが口を濁す“ある領域”があるのだ。


 ――旧会津衆と、越後衆の対立。


 口には出さずとも、確実に空気の中に沈んでいる感情があった。



「清原。今日は北の方の村を回るぞ」


 弥藤は軽い声で言ったが、歩く道は普段より静かだ。

 家々の扉が固く閉ざされ、畑にいる者の目線は鋭い。


「……ここ、なんだか雰囲気が違いますね」


「そりゃそうだ。ここは“越後からの移住者が少ない村”だからな」


 その一言だけで、湊は状況を理解した。


 つまり――

 ここでは“移封に対する不満”が色濃く残り、

 上杉家への忠誠心も揺らいでいる。


 湊の背筋がわずかに強張った。


(ここが、本当の意味での“現場”だ)



 最初に訪れた家では、無言の女が茶だけを置いて部屋を出ていった。


「……感じ悪いとか、そう思うなよ」


 弥藤が囁く。


「越後者へのわだかまりもあるが、皆、生活に必死なんだ。

 不満を誰にぶつければ良いかもわかっちゃいない」


 湊は頷き、静かに茶を飲んだ。


(ここで、丁寧に話を聞くしかない)


 次の家では年配の男が湊を見て、眉をひそめた。


「聞き取り? またか。

 どうせ上に伝わる前に“都合の良い形”に変わるんだろう」


「変えません。私は……聞いたままを書きます」


「若造の言うことなんぞ信用できるか」


 その拒絶は鋭かった。

 だが湊の胸に刺さったのは怒りではなく、“自分の弱さ”だった。


 湊は言葉を飲み込み、深く頭を下げた。


「……それでも、聞かせてほしいんです」


 男はしばらく沈黙し、それからようやく口を開いた。


「会津に越後の者ばかり優遇されている、そう思う者もいる。

 だが文句を言えば“逆らった”と見られる。

 仕方なく従っているだけよ」


(……これだ。

 数字には出ない、本当の苦しみだ)



 村を出た帰り道、弥藤がぽつりと呟いた。


「清原。さっきの態度、悪くなかったぞ」


「いえ……何も返せませんでした」


「返す必要はねぇよ。

 ああいう沈黙は、何かしてほしいから出るんじゃない。

 “痛みを知ってほしい”から出るもんだ」


 湊は足を止めた。


「……痛み、ですか」


「そうだ。俺たちは“武”の家中だから、

 そういう声を聞かなくても生きていける。

 でもお前は違う。“聞きに行く役目”だ」


 風が吹き、積雲が低く流れた。

 会津の空は静かだが、その静けさには重みがあった。



 長屋に戻ると、すでに一人の男が待っていた。

 鋭い眼光、無駄のない姿勢――宮森主膳だった。


「……主膳殿」


「直江様より伝言だ。

 本日のお前の巡察について、明朝、書院で報告を求めるとな」


「わ、わかりました」


 主膳は湊を見据える。


「清原。お前は“よく働いている”という声も届いている。

 だが――」


「だが……?」


「お前の文章は、まだ優しすぎる。

 あの建白書もそうだ。

 現場の苦しさを“丸めて”書いている節がある」


 湊は言葉を失った。


(……気づかれていたのか)


 主膳は続ける。


「この国を治めるのは情けだけではない。

 苦しみも怒りも、歪んだ声も、すべてそのまま受け止めて書け。

 綺麗な文では政は動かぬ」


 湊の胸が鋭く刺された。


「……はい」


「いい眼をしている。逃げるなよ」


 それだけ言うと主膳は立ち去った。


 湊はしばらく動けなかった。


(優しすぎる……

 僕の文章が……?)


 その指摘は、宮森主膳という武士の厳しさであり、

 湊自身が一番向き合いたくなかった“核心”でもあった。



(……逃げない。逃げてはいけない)


 湊は筆を取り、今日聞いた声をそのまま書き写し始めた。


 不満。

 怒り。

行き場のない嘆き。

 名前を伏せてもにじみ出る感情。


 書けば書くほど胸が痛む。


 だがその痛みこそ、湊がこの世界で背負う“武器”の重さだった。


(僕は――武士じゃない。剣も振れない。

 でも、だからこそ……“言葉で逃げない”)


 静かな夜、湊の筆音だけが長屋に響き続けた。

書き続けるほど、胸の奥が重くなる。


 湊は机に置いた紙を見つめた。

 そこに並ぶ文字は、いつもの自分の文章とは違っていた。


 ――“痛みを薄めていない”。

――“慰めを添えていない”。

――“苦しみを丸めていない”。


(これが……現場の“形”なんだ)


 人々の口から出る声には、怒りも不安も諦めもあった。

 湊はそれを丁寧に聞いたつもりだったが、

 文章にするとき、どこかで無意識に“和らげて”いた。


(主膳殿には、全部気づかれていた……)


 胸がひりつく。

 だがその痛みは、湊に逃げ道を残さなかった。


(綺麗に書いても誰も救えない。

 痛みから目を逸らしたら、自分も嘘をつくことになる……)


 湊は筆を再び取り、紙に向き合った。



 夜が更けた。

 長屋の窓から見える雲は低く、動きが鈍い。

 まるで町に溜まった“重さ”そのもののようだった。


 ふと、視界がゆらりと揺れた。


(……あれ?)


 急に涙がこぼれた。

 理由はわからない。

 誰かに責められたわけでもない。

 叫びたいほどの怒りもない。


 ただ――


(僕は……こんなにも、何もできていなかったんだ……)


 現実をそのまま書くことが、こんなに苦しいとは思わなかった。

 人の生活、人の傷、人の怒り――

 それを受け止めて言葉にすることが、

 こんなにも“重い仕事”だとは知らなかった。


「……でも、だから書かないわけにはいかないんだ」


 涙を袖で拭き、湊は再び筆を走らせた。


 痛みを痛みのまま。

 怒りを怒りのまま。

 沈黙を沈黙のまま。


 そこに“言い訳”は一つも入れなかった。



 翌朝、書院はいつもより張り詰めた空気だった。


 湊は入口で深く息を吐いた。


(今日の報告……逃げずに言えるだろうか)


 部屋に入ると、直江兼続がすでに座していた。

 その隣には宮森主膳もいる。


 湊は正座し、紙束を差し出した。


「直江様。本日の巡察報告にございます」


「うむ。読ませよ」


 兼続は一枚目を手に取り、静かに目を通し始めた。


 湊はじっと膝を見つめたまま、呼吸を整えた。


(昨日までの建白書とは……違う。

 これをどう受け止められるか……)


 二枚。

 三枚。

 兼続の眉が動く。

 しかし表情は読めない。


 最後の一枚を読み終えた兼続は、紙束をそっと机に置いた。


「……清原」


「……はい」


「昨夜、お前は泣いたな」


 心臓が跳ねた。


(な……なんで……?)


 兼続は優しく、だが逃げ場のない声で続けた。


「言葉に重みがある者は、必ず一度は泣く。

 現実をそのまま書こうとすると、心が切れるのだ」


 湊は唇を噛んだ。


 主膳が口を開いた。


「……悪くない。

 いや、むしろ昨夜の涙でようやく“書く者の覚悟”を持ったな」


 その言葉は厳しくも温かかった。


「お前の文章、昨日までとは違う。

 痛みがそのまま載っている。

 それが“政を動かす言葉”だ」


 湊の胸が熱くなった。


「まだ未熟だが……誠実さは本物だ。

 直江様の下で鍛えれば、必ず使える者になる」


 兼続は静かに頷いた。


「清原。これは命令だ。

 今後の報告は、“綺麗な文”を一切書くな。

 嘘はつくな。

 丸めるな。

 逃げるな」


「……はい!」


 湊は深く頭を下げた。



 書院を出たあと、主膳が湊を呼び止めた。


「清原」


「はい」


「泣いたこと、恥じるなよ」


 主膳の声は不思議なほど柔らかかった。


「泣くほど真正面から向き合った者だけが、

 人の心に届く文章を書ける。

 それが“書き手の覚悟”だ」


 湊は息を呑んだ。


「……主膳殿は、泣いたことがありますか?」


 主膳は少しだけ目を細めた。


「あるとも。

 会津の民の苦しみを知った夜、

 直江様の側で、何もできなかった自分が悔しくてな」


 その声は、武士の威厳と、人間の弱さを同時に含んでいた。


「その涙こそ、俺を強くした。

 だからお前も、恥じるな。

 むしろ誇れ」


 湊の胸に、静かに火が灯った。


(……僕は、まだ弱い。

 でも弱いからこそ、逃げずに向き合うんだ)



 その日の夕刻。

 湊は長屋の前で紙束を抱え、空を見上げた。


 空には鱗雲が広がっていた。

 細かな波のように連なるその形は、まるで“予兆”を告げているようだった。


(何かが……動き始める)


 ただの巡察では終わらない。

 その予感が湊の胸に確かにあった。


(僕は――ここで生きる。

 そして、この国の痛みを見て、書いて、伝える)


 握った紙束は、昨日よりずっと重かった。

 だがその重さを、湊はもう恐れなかった。

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