プロローグ
乱世は、力ある者だけが生き残るとは限らない。
たった一つの“覚悟”が、家の命運を変えることもある。
これは、誠実さを武器に上杉家へ挑んだ一人の青年の記録である。
慶長三年。
越後の春は、まだ肌寒かった。
海から吹き上げる風が山裾をなで、城下の屋根を渡っていく。高い空には細くほつれた巻雲が伸びていた。冬と春とがまだ綱を引き合っているような、落ち着かない空だった。
春日山城の一室で、直江兼続は一通の書状を静かに見つめていた。
封はすでに切られている。文字は、何度も読み返したのだろう、ところどころ墨が薄くなっている。
「……会津百二十万石」
兼続の低い声が、板の間に落ちた。
読み上げる必要はない。豊臣秀吉の命により、上杉家は越後を離れ、陸奥会津へと加増移封される──その知らせだった。
「喜ぶべきか、嘆くべきか、難しいところにございますな」
傍らで控えていた家臣が、息を呑むように言った。
石高は飛躍的に増える。だが、それは同時に、見知らぬ広大な地を治めるという重圧でもあった。新たな地侍、旧来の領主たちとの軋轢、山川の把握、年貢の割り振り。
百二十万石は栄光であると同時に、上杉家が呑み込まれるかもしれぬほどの大河でもあった。
兼続はしばし黙し、やがて書状を丁寧に畳んだ。
「殿は、すでにお決めあそばされておる」
上杉景勝の顔が脳裏に浮かぶ。
多くを語らぬ主君。その沈黙の奥にどれほどの決心と不安が渦巻いているか、兼続には想像がついた。
「ならば我らがすべきは一つ。
この家を、沈まず会津へ渡らせることのみ」
視線を上げる。窓の外の空はまだ明るいが、その光の背後には、もう次の時代の影が忍び寄っているようにも見えた。
その空のずっと遠く、
まだ見ぬ東の果てで、一人の若者が本を開いていた。
◆
大学図書館の午後は、一定の静けさをまとっていた。
空調の低い唸りと、コピー機の機械音。ページをめくる音や、ペン先が紙を走るかすかな擦過音。それらが薄く混じりあい、湯気の立たない湯のように、ぬるい静寂を形作っている。
法学部三年、清原湊は、窓際の席で行政法の判例集を広げていた。
条文の番号に印をつけ、判旨に赤鉛筆で線を引き、争点をノートに整理していく。手元の動きに無駄はないが、急いでいるわけでもない。
丁寧で、まっすぐな字だった。
ページの端には、小さくメモが書き込まれている。
「比例原則」「裁量権の逸脱・濫用」「信頼保護」──いずれも、行政と市民との間に引かれるべき“筋”に関わる言葉だった。
(ちゃんと筋を通せる人間になりたい、なんて、ちょっと青臭いかな)
そう思いながらも、湊は内心、その青臭さを手放したくはなかった。
約束を守ること。
頼まれた仕事は最後までやり抜くこと。
楽な嘘でごまかさないこと。
それがどれほど損な生き方だとしても、自分に残せるものは、それくらいだと思っていた。
だが、将来の姿はまだ霞んでいる。
公務員か、法曹か、企業か。
どの道に進んだとしても、自分がそこでどんな顔をしているのか、うまく想像できない。
ページをめくるとき、指先に紙の感触が伝わった。
そのすぐ後だった。
判例の文字が、ふっと滲んだ。
(あれ……)
最初は、目の疲れだと思った。
だが、瞬きをしても滲みは消えない。むしろじわじわと広がり、紙面の一部を白く塗りつぶしていく。
湊は上体を起こし、周囲を見回した。
図書館の景色に変わりはない。窓から差し込む光も変わらない。
ただ一つ違うのは──音だった。
コピー機の音が、遠ざかっている。
紙をめくる気配も、人の足音も、椅子のきしみも。
日常を作っていたささやかな音が、一つずつ、厚い壁の向こうへ押しやられていくように、薄れていく。
(……何だ?)
湊は判例集を閉じようと、手を伸ばした。
指先は確かに動いた。だが──紙に触れなかった。
机の感触も、椅子の硬さも、ペンの重さも、ふっと消えた。
代わりに、白があった。
視界の中心から、ぽつりと白が広がる。
文字も机も、自分の腕さえも、その白に飲み込まれて輪郭を失っていく。
湊は息を呑んだ。
喉が空気を求めたが、肺は何も掴めない。
落ちているのか、浮かんでいるのか、そのどちらでもないのかさえ分からない。
(戻れないかもしれない)
その考えが、どこからともなく湧き上がった。
突拍子もないのに、不思議と説得力だけはあった。
法学も判例も、この白には何の効力も持たない。
湊は、握りしめていたはずの赤鉛筆の感触が消えていくのを、ただ黙って見ているしかなかった。
白が、世界になった。
◆
土の匂いがした。
湿った土と、乾ききっていない草の青い香り。
頬に触れるのは板でも机でもなく、ざらついた冷たい地面だった。
湊はゆっくりと目を開いた。
視界に広がったのは、茅葺き屋根の家々、ぬかるんだ土道、木戸と、その向こうに連なる低い山々。
アスファルトの灰色も、電柱も、街灯もない。
代わりに、風に揺れる洗濯物と、薪を積んだ軒先があった。
思わず空を見上げる。
先ほど春日山城の上を流れていたものとよく似た、細くほどけた巻雲が、高みに長く伸びていた。
けれど、その高さも、色合いも、湊が知っている現代の空より、わずかに荒く、重たく感じられた。
(……どこだ、ここ)
湊はゆっくりと身を起こし、自分の服を見下ろした。
いつものシャツとジーンズではない。古びた木綿の着物に、簡素な帯。袖を動かせば、布がこすれる音がした。
心臓の鼓動が、耳の内側で大きく鳴る。
夢、にしては匂いが鮮明すぎた。
ドラマのセットにしては、空の高さが妙に生々しい。
土の湿り気が、じわりと膝から伝わってくる。
状況の整理が追いつかないうちに──
村の奥から、甲高い悲鳴が響いた。
子どもの声だった。
(……!)
考えるより先に、湊の足は土を蹴っていた。
◆
ぬかるんだ道を走るたび、泥が足元に跳ねた。
靴ではなく草履だったが、そんなことを気にする余裕はない。
悲鳴のする方角へ角を曲がると、湊は一つの光景にぶつかった。
小さな子どもが二人、よろめきながら土道を逃げている。
その背後を、刃こぼれした刀を握った男が追っていた。
男の衣は汚れ、顔にはうっすらと髭が伸びている。
目は焦点を結ばず、口元からは荒い息が漏れていた。
刀の刃先が陽光を受けて鈍く光る。
湊の喉がぎゅっと縮まった。
(本物の刃……)
頭のどこかが、逃げろと叫んだ。
ここは自分の知っている世界ではない。
警察も救急車も、きっと来ない。
だが、別の何かが胸の奥で声を上げた。
(ここで退いたら、一生目を逸らす)
法学部の講義で聞いた話が脳裏をよぎる。
行政の裁量が人の生活を左右する。
決断が遅れれば、救えるはずの誰かが救えない。
今この場には、法律も制度もない。
あるのは、刃と、逃げ惑う子どもと、自分だけだ。
「こっちだ!」
気づけば、湊は叫んでいた。
自分でも驚くほどよく通る声だった。
「こっちに走れ!」
手を振る。
子どもたちが湊の方へ振り向き、怯えた目でこちらを見る。
その目を見た瞬間、湊の背筋に、別種の熱が走った。
子どもたちが足をもつれさせながら、湊のほうへ駆けてくる。
湊はその前に立ちふさがり、背中で二人を庇った。
足が震える。
喉が乾き、息が浅くなる。
心臓の鼓動が痛いほど速い。
武道の心得はない。
護身術の授業で教わった程度のことしか知らない。
目の前の男と刀に対して、自分の身体がどれほど無力か、湊自身が一番よく分かっていた。
それでも、一歩も退きたくなかった。
「来るな……!」
喉がひきつった。
声は震えたが、その震えの奥にあるものだけは、揺らがなかった。
男の足が止まる。
曇った目が湊を捉えた。
湊は視線を逸らさなかった。
(逃げない。
せめて、それだけは)
子どもたちの小さな手が、湊の着物の裾をぎゅっと掴んでいる。
その感触が、背中越しに伝わってきた。
刃がわずかに持ち上がる──そのとき。
「おい、何をしている!」
怒声が飛んだ。
土を蹴る複数の足音。
村の奥から、数人の男たちが駆けてくる。
鍬や棒きれを手にした男たちが、一斉に飛びかかる。
刀を持った男は、抵抗する間もなく押さえ込まれた。
土の上でもみ合う音が続き、やがて静かになった。
「もう大丈夫だ、下がっていろ!」
誰かがそう叫んだ。
湊は、それを聞くと同時に、膝から力が抜けそうになるのを感じた。
なんとか踏みとどまり、背後の子どもたちに振り返る。
「……怪我、ない?」
二人とも、涙で濡れた目をこすりながら、小さく頷いた。
湊は、胸の奥に熱いものが広がるのを感じた。
◆
「おぬし、見ぬ顔だな」
騒ぎが落ち着いた後、日焼けした壮年の男が湊に声をかけてきた。
額には汗がにじみ、呼吸はまだ少し荒い。だがその目は、しっかりと湊を捉えている。
「旅の者か? あの子らを庇ったのは、おぬしだろう」
湊は戸惑いながらも、頷いた。
「……ただ、目の前にいたので」
男は鼻を鳴らした。
「ただ目の前にいただけで、子どもの前に立てるやつは少ねえもんだ」
言い終えると、男は村の奥の一軒を顎で示した。
「村長の家だ。礼を言わせたい。来てくれ」
断る理由はなかった。
むしろ湊としては、この世界について知れるのなら、どんな話でも聞きたかった。
◆
村長の家は、土と木の匂いに満ちていた。
土間を抜け、板張りの部屋に通される。
分厚い柱が天井を支え、壁には農具が掛けられている。
簡素な座布団に座ると、湊の前に湯呑みが置かれた。湯気が立ちのぼり、緊張で固くなっていた喉を少しだけほぐす。
「遠いところ、ご苦労だったな」
現れた村長は、白髪まじりの髪を後ろで束ねた老人だった。
ただの老人ではない。背筋は伸び、目には油の残った光がある。
この村の重みをそのまま背負っているような人物だった。
「わしがこの村の長を仰せつかっておる者だ。まずは礼を言わせてくれ。あの子らは、わしの孫でな」
湊は思わず姿勢を正した。
「いえ、自分はただ……」
「ただでも、だ」
村長は静かに首を振った。
「刃の前で足を止めた。それだけで、十分な働きよ」
湊は言葉に詰まった。
あの場で逃げなかったのは事実だ。
だが、それが誇るべきことだとは、まだ思えない。
「名は?」
問われ、湊は少しだけ躊躇したが、嘘をつく理由もないと悟った。
「……清原、湊と申します」
「清き原の湊、か」
村長はどこか納得したように目を細めた。
「らしい名だ」
それだけ言うと、村長は傍らの文箱から紙と筆を取り出した。
硯に水を落とし、墨をする。
その所作は滑らかで、長年文を扱ってきた者の手つきだった。
湊は、その動きを眺めながら、自分の置かれている状況を頭の中で整理しようとした。
(ここは、日本……だよな。言葉は通じる。村の作りも、時代劇で見たような感じだ。
でも、スマホも、電気も、何もない)
胸の奥に、小さな不安が固まる。
戻れる保証は、どこにもなかった。
「湊とやら」
村長の声が、湊の思考を引き戻す。
「そなた、越後という言葉を知っておるか」
不意の問いに、湊は目を瞬いた。
「……聞いたことは、あります」
「ここは会津だ。
今度、新しく越後から大名が移ってくる。上杉という家だ」
上杉。
その名を聞いた瞬間、湊の心臓が一段、大きく打った。
(……上杉?)
歴史の授業で、教科書で、何度も目にした名字。
謙信、景勝、直江兼続。
武家の中でも、「義」を掲げる者たちとして語られる家。
「じゃがのう」
村長は墨をすりながら、声を落とした。
「越後の者も、会津の者も、不安よ。
家も、田も、川も変わる。誰がどこを治め、どのように年貢を取るのか。
上杉が義の家といえども、腹をくくりきれぬ者も多い」
湊は黙って耳を傾けた。
村長の声には、怒りよりも、深い疲れが滲んでいた。
「そういう時こそ、人の心が乱れる。
さきほどのようなことも起こりやすくなる」
村長は筆を取り、紙の上に文字を刻み始めた。
「……わしには、越後に古い縁がある。
いまは上杉家中、直江という家に仕える者に、恩を受けておる」
直江。
湊は、喉の奥でその名を転がした。
「直江……兼続……」
村長の手が、ほんの一瞬だけ止まる。
「名を知っておるか」
「歴史で、少しだけ」
曖昧に答える。
高校の教科書で読んだだけだ。
「愛」の前立て。義と才覚を兼ね備えた智将。
その程度の知識だが、今はそのひとかけらさえ、縋りたくなる。
「その直江殿のもとに、そなたのような若者が行けば、多少は風通しが良くなるやもしれん」
村長は紙から顔を上げ、湊をまっすぐに見た。
「刃を前にしても退かなんだ。
その心構えは、この乱れた世では、金にも槍にも勝る」
湊は息を呑んだ。
「自分は、そんな……大した者では」
「大した者かどうかは、わしが決めることではない」
村長は穏やかに言い、再び筆を走らせる。
「だが、あの場で退かなかった事実だけは変わらぬ。
それだけで十分だ」
墨の香りが、部屋に広がる。
筆先が紙を滑る音が、静かに続いた。
湊は、自分の膝の上に置いた手を見つめた。
まだわずかに震えていた。
怖くなかったわけではない。むしろ、今になって全身が遅れて震え始めている。
それでも、あの瞬間、自分は背を向けなかった。
そのことだけは、事実だった。
村長は書き終えると、紙を丁寧に折り、湊の方へ差し出した。
「これを、直江殿のもとへ持って行け」
湊が受け取ると、紙は予想よりも重く感じられた。
文字の行間に、この村の不安と期待が詰まっているかのようだった。
「上杉が会津を治める。
その時代を、よいものにできるかどうかは、こういう小さな縁の積み重ね次第よ」
村長は静かに言った。
「そなたのような者が、家中の隙間に一人いるだけで、救われる者も出てこよう」
湊は、言葉を失った。
自分がそんな大層な役目を負えるとは思えない。
だが、村長の目は本気だった。
「……自分に、何ができるか分かりません」
正直に口にする。
「ただ──」
言葉を探す。
心の中にあった、たった一つの芯を、掘り起こす。
「目の前で困っている人から、目を逸らさないでいたいとは、思います」
村長の口元が、わずかに緩んだ。
「それでよい」
短く言い切られた一言に、湊は胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
◆
村長の家を出ると、空は少し様子を変えていた。
高みに流れていた巻雲は薄まり、代わりに西の端に、細く赤みを帯びた夕雲がにじみ始めていた。
会津の山の稜線を、柔らかな光が縁取っている。
湊は、懐に入れた紹介状の存在を確かめるように胸に手を当てた。
紙一枚で、何かが劇的に変わるわけではない。
それでも、これが、自分と上杉家とを結ぶ最初の線になる。
(会津百二十万石……)
歴史の授業で習った言葉が、頭の中に浮かぶ。
大領。
負ければ一気に没落する、危うい高さ。
(そこで、上杉は……史実では、負ける)
関ヶ原、上杉家改易、転封。
いくつかの断片的な知識が、頭の隅をかすめる。
(でも俺は、その「あと」の世界を生きてきた。
知ってしまっている。
この家が、どういう終わり方をしたのか)
息を吸う。
冷たい空気が、肺を満たした。
(なら、見なかったふりはできないだろ)
法学部で学んだのは、正義の定義でも、理想の政治でもなかった。
限界と、現実と、その中で引ける最善の線。
だからこそ、湊は思う。
(チートなんか、ない。
知識だって、教科書レベルだ。
それでも──)
目の前にある不合理から目を逸らさないことはできる。
逃げずに踏みとどまることはできる。
それだけは、現代でも、この乱世でも、変わらない。
土の上に立つ足先を見下ろす。
震えは、もう止まっていた。
「清原湊、か」
自分の名を、静かに口にする。
名に込められた「清き原」の言葉が、今は少し重たく感じられた。
越後から来る上杉家。
会津百二十万石。
やがて東北で勢力を築き、関東で徳川と対峙するかもしれない家。
そこに、自分の居場所が生まれるのかどうかは分からない。
だが、一歩を踏み出さなければ、何も始まらない。
(行こう)
湊は顔を上げた。
西の空に溶けていく夕雲の、その向こうを見据える。
その一歩が、やがて
会津を変え、東北を変え、
徳川の天下を揺らすことになるなど、
この時の湊は、まだ想像もしていなかった。
だが、この静かな一歩こそが──
「法学部生、上杉家に挑む」物語の始まりであり、
直江兼続と前田慶次と共に酒を酌み交わす夜へとつながる、
最初の岐路だった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
清原湊が踏み出した一歩は、まだ小さな波にすぎません。
やがてその波が、上杉家と会津の未来を揺らす物語へと広がっていきます。




