19 血の伯爵夫人6
幼い頃から、マリーの日常には暴力がつきものだった。
彼女の生家では、ミスをした使用人が殴られるのは日常茶飯事であったし、
若干5歳で彼女は魔女裁判の公開処刑を“見世物”として見せられた。
父は、屋敷の中で気に入った使用人に手を出すような人物だった。
偶然、彼女がその場面を目にしてしまったことも一度や二度ではない。
そんな父だが、マリーにだけは優しかった。
だが、母には冷酷で――
母はいつも、誰にも見られぬ場所で一人、泣いていた。
十八歳で結婚し、ようやく手に入れた穏やかな日々。
しかし、それも九年だけだった。
愛する夫は病に倒れ、マリーは再び一人になった。
広すぎる城で、一人、彼女はこう考えた。
――あの頃、救えなかった人たちを。
今度こそ、救えないだろうか、と。
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「……奥様……っ!」
侍女の声に、マリーはゆっくりと目を開けた。
「……私……」
「大丈夫ですか? 苦しいところはありませんか?」
遥香が身を屈めて問いかける。
「ええ……もう大丈夫よ」
そう言って、マリーはかすかに微笑んだ。
その様子を見て、遥香は俯いたまま、言葉を選ぶ。
「……落ち着いて、聞いてください。恐らく……マリーさんは、毒に侵されています……」
「……ああ……やはり、そうですか」
マリーは驚くこともなく、ただ静かにそう答えた。
どこか――覚悟していたような声音だった。
遥香はマリーの手元に視線を落とす。
美しく整えられた爪。
その一本にだけ、長い白い線が走っている。
(……これは…、恐らく…)
ーーヒ素によるものだ。
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マリーは自室で静かに眠っていた。
遥香は、侍女と共に付き添っている。
「私はソフィと申します。結婚の際に、奥様と一緒にこちらへ参りました」
「ソフィさん……何か、心当たりはありませんか?」
ヒ素中毒は、少量を長期間摂取することで起きる。
つまり――日常のどこかに、毒がある。
ソフィは迷いなく答えた。
「……奥様の財産を狙う者が盛ったのでしょう……」
(…もしかしたら…犯人が薄々分かっているのかも…)
マリーの先程の様子を思い出す。
遥香がそう考えていると、ソフィがぼそっと呟いた。
「………亡くなった旦那様の叔母様が…時折ワインを持って様子を見に来て下さいます…」
(……叔母さん)
ソフィによると、数いる親戚の中で、唯一マリーに優しく接してくれる人物のようだった。
断定はできないが、調べる価値はある。
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「これで、いいのか?」
レオニスが差し出したのは、銀色に輝く杯だった。
「ありがとうございます……高かったでしょう……」
「構わない。必要なのだろう」
遥香は頷くと、厨房で受け取ったワインを銀杯に注ぐ。
杯は銀色のまま――変色しない。
もし、ワインにヒ素が入れられているのであれば、ヒ素は銀と反応し黒色に変色する筈だった。
「……ワインではなさそうです。」
肩を落として遥香は言う。
「ああ。そうだな。」
レオニスも杯に視線を落とし、小さく頷いた。
一瞬の沈黙のあと、遥香は顔を上げる。
「恐らく、犯人は城内にいます。銀器に変えたことが知られれば、毒を盛るのをやめるかもしれません。
だから……」
「分かった」
余計な説明は、要らなかった。
その夜。
城の食卓に並ぶすべての器は、誰にも知られることなく――銀器へとすり替えられた。
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翌朝。
銀器に替えたはずの食器に、ひとつだけ黒い染みが浮かんでいた。
それはマリーの枕元に置かれた、銀杯だった。それからは甘く爽やかな香りがした。
「見つけました。」
そう言うと、遥香は静かにその銀杯を持ち上げ、レオニスに見せる。レオニスは無言で頷く。
昨夜まではどの銀器にも異変はなかった。
遥香と騎士団が城を辞して宿屋に帰ってから、毒が盛られたのであろう。
ーーそれならば。
その夜。
伯爵夫人マリーはベッドに腰掛け本を読んでいた。そこへ、一人の侍女がワインを運んで来た。
就寝前にワインを一杯だけ嗜むのは、彼女の日課であった。
「奥様、どうぞ」
侍女が盆の上のワインを差し出す。マリーは礼を言い、ワインを受け取ると、口を付けようとした。
ーーその時
「ダメ!」
寝室のカーテンの裏から何者かが転がるようにして出て来た。




