Ep.5 - 藤広三分以上クッキング
赤萩町のとあるマンションの屋上。
ねずみ色のコンクリートで作られた単調な色の床。床の縁には雨水の通り道となるように簡易的な排水溝があり、その先には人が落ちないように白い鉄柵が設置されている。
そんなありきたりな風景の中で、一匹の鳩が屋上の一点を見つめていた。
鳩の視線の先には一本の煙草の燃え殻が落ちていた。
誰かが先程までこの屋上で吸っていたのを捨てたらしい。しかも、まだ燃えている部分よりも燃えていない部分の方が多い上に、火が消されておらず未だにニコチンの臭いを辺りに充満させている。
それを疎ましく思ったのか、それとも慣れない臭いに興味を抱いたのか、鳩は何もせずにじっくりと、静かに煙草の燃え殻を見つめていた。
が、突然その静寂は壊される。
轟、という音と共に巨大な炎の柱が燃え殻を中心にして燃え立ち、それと同時に発生した爆風が辺り一帯を襲う。
それに驚いた鳩はポッポー、という間抜けな叫び声を上げながら、バサバサと翼をはためかせて空へ逃げて行った。
一拍して、「アッチッチッチッチ!」と鳩とは違う方面で間抜けな叫び声を上げながら、炎の中から飛び出してくるコック姿の成人男性が一人。
そして、今までの勢いが噓のように炎が小さく萎むと、その中からは朱色の長いツインテールが特徴的な少女が現れた。
言うまでもなく、藤広と端末である。
自分の服や髪に燃え移った炎を急いで消すと、藤広はバタンという音を立てて仰向けに倒れこむ。
そして、その体制のまま炎の中から現れてから一度たりとも動いていない少女に顔を向けた。
どうやって先程までの路地裏とは全く別の場所に移動したのか。
なぜ少女は炎に包まれても平然としていられたのか。
そもそも何故急にあんな炎が湧いて出てきたのか。
そんな様々な疑問が頭の中で浮かんでは消えてを繰り返す。
が、藤広はひとまず一番優先して聞くべき質問を、少女にすることにした。
「なぁ」
「なんでしょう」
藤広のぶっきらぼうな呼びかけに、少女が最初から今までと何ら変わらない無機質な声色で返事をする。
「ここ、どこ?」
「分かりません。ただし、転移前の箇所から少なくとも500メートル程離れたどこかではあります」
藤広の短い質問に、少女がやはり機械的な口調で返事をした。
「何で分かるわけ?」
「魔力の消費量から逆算しました」
「そっか……」
意味が分からない。
そう思った藤広だったが、もうそんな言葉を返す余力すら残っていない。その代わりといっては何だが、「はぁ」と大きなため息を吐いた。
そして目を閉じて、小さく一言。
「疲れた……」
◇◆◇◆◇◆◇
カーカー、という鴉の鳴き声がよく馴染む夕方。
地平線に沈みかけた太陽の橙色の陽光が、赤萩町全体を優しい暖色に染めている。
その一角の自身の経営する料理店の中で、藤広は机に突っ伏していた。
結局、藤広が自分の料理店に帰ってこれたのは夕方になる少し前の時間帯だった。
一応何人かの客が藤広の帰りを待っていてくれたのだが、不良との追いかけっこでボロボロになった体で働けるはずもなく、今日は早めの閉店ということで帰ってもらった。
そして現在、体の疲労とそんな客達への申し訳なさが相乗効果を引き起こし、藤広は机の上で力尽きてしまったのである。
だが、ずっとそうしているわけにもいかない。
店の経営は明日もあるし、そのための幾らかの準備もしなければならない。その上、コック衣装も汚れてしまったので洗濯しなければならないし、他にも他にも……
「うああぁぁぁぁ!」
やらならないことのあまりの多さに頭を抱えて、猛獣のような叫び声を上げる。
因みに、藤広の悩みはもう一つある。それが――
「君だよ!」
「どうしたのですか、急に」
急にそうやって叫んで自分に指をさしてきた藤広に、最初から変わらない感情のこもってない冷たい目を向ける少女。
「私がなんなのですか」
「なんで平然とした顔でウチにいるの!?」
そう、この少女は謎の技術で不良を撒いた後もずっと藤広の後について来て、最終的には閉店した藤広の料理店の中にも入ってきたのだ。
「あの人間達がもう追ってきてないとも限りませんし、ついて来るなとも言われなかったので」
藤広に三回も怒鳴られても一切表情を動かすことのない少女のその返事に、一旦起き上がった藤広は再度机の上に突っ伏せる。
そして「どうしてこうなった」「俺がこの子を助けようとしたから」と、まるで現実から逃げるように頭の中で自問自答を繰り返し始めた。
だが、再度言うが藤広にそんなことをしている暇はない。
もう一度言うが、店の準備やら洗濯やらするべきことがまだ大量に――
「――よし!」
突然威勢のいい声を上げて机から立ち上がる藤広。
次の瞬間、体中のあらゆる関節が軋み、激痛が走る。疲れた体を急に動かしたのだから当たり前である。
せっかく立ち上がったというのにまた机に倒れこみそうになっている藤広を見ながら、少女が口を開いた。
「一体どうしたのですか?」
「飯を食おう! 悩むのは一旦その後だ!」
少女の質問に先程と同じ威勢のいい声で現実逃避を宣言すると、藤広は今までが嘘のように元気な様子でキッチンに向かい始めた。
少女はそんな藤広の後ろを、少女はてくてくとついていく。
そして藤広が冷蔵庫の前で足を止めると、扉を開けてその中身を漁り始めた。
「何作るかな……材料的にカレーとか肉じゃかとか作れそうだけど……いや、体力的にそんな手間がかかるのは無理だな……」
ブツブツと独り言を言いながら、巨大な冷蔵庫の中から食材を取り出しては仕舞うを繰り返して、自分の中で作れる料理の選択肢を減らしていく。
少女はそんな藤広の様子をしげしげと、まるで興味深い物でも見るかのように――なお、無表情のまま――眺めていた。
そのまま2,3分ほど経過してようやく、藤広の中で今日の夕飯は決まったらしい。
調理に使う食材や調味料を冷蔵庫の中から取り出して、片っ端から調理台の上に並べていく。
食材はキャベツ、タマネギ、ピーマン。モヤシとニンジン、そして薄切りの豚肉。
調味料は無難に塩コショウと醤油、料理酒。後は豚肉にふりかける用の薄力粉ぐらいである。
そういった食材を前にして、まずは藤広は野菜を洗い始めた。
おっと、一つ忘れていた。
野菜を洗い始める前に、ピーマンだけを水を貯めたボウルの中に入れておく。
ピーマンなどの果菜類は基本的に洗いやすい形状のものが多いが、それでもちょっとした凹凸やヘタの部分に汚れは溜まるものだ。
そういった汚れは事前に水に浸しておくことで、後から洗い落としやすくなるのである。
一旦話を野菜を洗う藤広に戻そう。
まずはキャベツの皮の大きなものを4枚ほど剥き、それらを水道水で一枚ずつ丁寧に洗う。
稀に虫がついていることがあるので、それだけ注意して洗い流していく。
次にニンジン。ブラシで擦りながら表面についた土や汚れをそぎ落としていく。
なぜブラシなんてものを使ってまで汚れを落とすのか? その答えは皮を使ったまま調理するためである。
皮を使ったまま、なんて聞くと大半の人は農薬や土などの汚れがついたまま食べるように聞こえてしまい、不衛生に考えてしまうだろうが、決してそんなことはない。
そもそも、農薬などが多くついているニンジンの表面の皮というのは、収穫後の洗浄で大半が剥がれてしまう。スーパーなどで売られているものは基本的に薄皮ぐらいしか残っていない。
また、使われる農薬の量自体も国の方で食べても安全な量を指定されているため、仮に農薬がついたまま食べてしまったとしても、体に影響はほとんどないだろう。
それに、皮がついたまま食べれば皮を剥く手間を省けるし、料理によっては皮のシャキシャキとした食感を楽しめる。しかも皮の方が栄養素が高いので、皮ごと食べる行為には利点しかないのだ。
そんな軽い豆知識を語っているうちに、藤広はニンジンを洗い終えたようだ。続いて、水に浸けておいたピーマンに手を伸ばす。
そしてそのまま水道水で、手で軽く擦りながら洗う。これで大半の汚れは落ちるものである。
「ま、こんなところか」
洗い終わったピーマンを他の洗った野菜を置いているザルの上に置くと、藤広は一息ついて蛇口を捻って流れ出る水道水を止めた。
ついでにピーマンを浸けていた水も捨てておく。
「他にも食材が残っていますが、それは洗わないのですか?」
今まで存在感が完全に空気だった少女が藤広にそんな質問をした。
確かに藤広は玉ねぎやモヤシなどの他の食材を洗っていない。当然の疑問である。
「あぁ、モヤシは前に袋ごと洗ってるし、俺は玉ねぎの根っこの部分は切り落とすタイプだからな。それに、そもそも肉は洗う必要がない」
「……なるほど」
藤広の返答に、少女がめずらしく納得したかのような声をあげた。やはり、表情には感情が全くこもっていないが。
そんな少女の無表情にも慣れてきたのか、それに何かを思ったりはせずに藤広は意気込んだ様子で袖を捲る。
「さーて、本格的な調理の始まりだ」