Ep.4 - 路地裏の逃亡劇
「あの人間達から隠れられるような安全地帯はありますか? あるなら情報の共有をお願いします」
藤広にとっての全力疾走をかれこれ五分間ほど続けているというのに、相も変わらず全く呼吸を切らすことなく無表情でそう言ってのける少女。
ずっと藤広の腕を掴んでいるのもあるのだろうが、それにしても人間らしくない異常な体力に「コイツ人間か?」という疑問が頭に浮かぶ。しかし、それよりも藤広が頭の中で強く思ったのは『無理』という少女への返答だった。
約5分間に続く全力疾走に加え、元々長い間走っていたのもあって、藤広の体力はすでに底を尽きかけていた。
それでも不良に捕まったら唯で済まないのは目に見えているので、命を削る覚悟で今もなお走っているわけだが。
基本的に人間は走るなどの運動をした場合、心拍数が増える。それが意味するのは肺が求める酸素の量の増加。
自然的に、それに伴い一回の呼吸で吸引する空気の量と呼吸そのものの回数が増える訳だが、今藤広のしているようなペース配分を全く考えない無茶な走り方をした場合、それらの必要量及び回数が爆発的に増える。
その結果、いくら全力で呼吸しても常に酸素が足りない、なんてことになってしまい呼吸をやめられなくなってしまう。
そんな状態で一瞬でも気を抜いて呼吸を止めてしまえば、酸素が完全に足りなくなって酸欠になってしまい――ここではなぜそうなるかは割愛するが――吐き気が襲ってきたり、眩暈がしたりする。
普通に生きていれば誰もが一度は通る道だ。
そして、生まれの境遇はともかく体質は普通の人間である藤広が、先ほど言った通りのペース配分を考えない全力疾走をしたらそういった状態になるのは目に見えている。
というか、実際に今そうなっている。
こんなことを説明して何が言いたいのかというと、藤広にとって言葉を話すという呼吸に全力を尽くせなくなる状態になるのは、致命的であるということだ。
一言でも喋れば上に述べた症状のいずれかが藤広を襲うことだろう。
そのため藤広は少女の質問に答えられる、とはとても言える状態ではなかった。今のメチャクチャな呼吸を止めてしまえば失速は免れないのだから。
が、このまま走り続けていても埒が明かないのも事実である。
藤広の全力疾走で不良達を撒ければそれで万々歳だったのだが、現実はそんなに甘くない。不良達は未だに藤広に負けずとも劣らない速度で二人――不良視点では追いかけているのは藤広だけ――を追いかけて来ていた。
ただしあちらも割と体力の限界が近いようで、最初の騒がしさが嘘のように鳴りを潜め、今では全員が非常に辛そうな顔でぜぇぜぇと息を切らしながら走っている。
が、若者の体力を舐めてはならない。恐らくこのままでは最終的に先に体力が無くなって力尽きてしまうのは藤平の方だろう。
そう思えば、もし先の少女の質問がこの場もどうにかできる様な、なんらかの意図があっての物ならば失速覚悟で答えるのもやぶさかではない。
しかし、少女の小さな見た目からは、この状況を好転させられる様な策を用意できるとは到底考えられなかった。
しかし――
「それ、言ってッ……ウッ! なんか……ッオェ……変わんのぉ!?」
藤広は失速覚悟でも少女に賭ける道を選んだ。
度々吐きそうになりながらも、なんとか少女の質問に対する答えを口にする。
何故そうしたかは藤広自身にも分からない。強いて言うなら藤広の勘、とでも言うところだろうか。
藤広の長い人生の経験。それらを元に導き出されたのだろう勘が、藤広にそうしろ、と伝えて来たのだ。
ならばそれに従わない道はあるまい。
本当のことを言えば、もうどうにでもなってしまえ、というヤケクソじみた考えもあったが故の判断でなのだが、そこは愛嬌である。
そして、どうやらその選択は正解だったらしい。
「勿論です。むしろ、何も変化を起こせなければ質問しません」
少女は最初から変わらないひどく機械的な冷たい音声で、藤広の問いにそう返す。
その言葉を聞いた藤広は、待ってました! と、言わんばかりに声を張り上げて叫んだ。
「俺のッ……ゥオェァ……店ぇッ!」
またもや吐きそうになりながら、藤広は彼にとって一番の安全地帯を少女に伝えた。
分かっていたことだが、藤広の失速が凄まじい。ついでに顔が青くなる速度も凄まじい。
「あの、すみません」
だが、少女からの返事は藤広が期待したようなこの場を簡単にどうにかしてしまえるようなものではなく、些か困ったような、そんな返事だった。
期待外れのそれに、思わず睨むようにして藤広が少女に顔を向ける。
大の大人にそんな顔で見られれば、少女の年齢では普通なら多少怯えるなりするはずなのだが、少女は一切そんな兆候は見せずに淡々と藤広にある事実を告げた。
「名前ではなく、場所を言ってもらわなければ分からないのですが」
(たしかにィーーー!)
少女の指摘した当然と言えば当然のポイントに、口では叫べないので頭の中で思い切りそう叫ぶ藤広。
確かにそうだ。藤広の中では自分の店がどこにあるのかは分かっていても、初対面である少女がそれを分かるはずがない。
完璧に藤広の落ち度である。
だが、先程の『俺のッ……ゥオェァ……店ぇッ!』のせいで、藤広の体力及び精神力も限りなく限界に近づいてしまった。
もしも次何か喋れば、絶対に嘔吐をするか倒れる、と確信してしまう程度には。
「安全圏の場所を私に伝えることは、可能ですか?」
そんな藤広の状態を見ていただけで分かったのだろう。少女がそんな風な確認をした。
藤広がブンブンと首を振る。
それを確認した少女は、無表情の仮面を顔に張り付けたまま、少し俯いて考える様なそぶりを見せる。
そしてニ、三秒程それを続けた後、再び藤広に目線を戻した。
「元々私の考えていた作戦を実行しようと思います。ただ、先ほどまでとは状況が違う上、一人での実行を考えていたので、あなたが多少の怪我をする可能性があります。それでもいいですか?」
平坦で単調な口調でそう尋ねてくる少女に、怪我なんざ知ったこっちゃない、と藤広が上下にブンブンと首を振って返事をする。
それを目で確認した少女は目線を藤広から外し、しっかりと前を見た。
「では、次の角を曲がったタイミングで実行します。手は繋いだままにしていてください。そちらの方があなたの負傷が少なくなります」
吐き気やら眩暈が重なってほとんど気絶に近い状態で、頭の片隅で「あ、俺が負傷するのは確定してんだ」と思う藤広。
妙に余裕があるが、もしかすると少女が希望の道を示してくれたからかもしれない。
力尽きる前の謎の諦観によるもの、という可能性もあるが。
藤広が下らないことを考えている間にも、二人の疲労と眩暈でぐっちゃぐちゃな走りを見せる男の太い足と綺麗なフォームで走り続けるスラリとした足は、一歩一歩着実に藤広と少女を作戦の実行ポイントに向かって運んでいく。
後ろでは未だにぜぇはぁ言いながら不良達が追いかけてきている。彼らも限界が近いようだが、一度ペースを崩してしまった藤広と比べれば十分に早い。段々と藤広との距離が縮まってきている。
藤広と少女が次の角というゴールに着くのが先か、はたまた不良達が藤広という憎きゴールを掴むのが先か。
それが決する瞬間はゆっくりと穏やかに、しかし確実に近づいてきていた。
一秒、二秒、三秒。
――いつもなら短く感じるそんな時間が、ひどく長いように思えてくる。
一歩、二歩、三歩。
――いつもなら簡単に踏み出せるそれが、一つ踏み出すだけでとても辛い。
一息、二息、三息。
――いつもなら無意識の内にしている行為が、今はその全てが全力だ。
果たして、先にゴールに辿り着いたのは――
藤広と少女だった。
藤広がメチャクチャな走りで、少女が疲れを感じさせない綺麗なフォームで、角を曲がる。
そして、薄暗い路地裏に少女の静かで無機質な声が、不思議なほどはっきりと響いた。
「――魔術、起動」
不良達の視界の中で、藤広達が曲がった角の奥が鮮やかな朱色に光る。次いで、轟、という音と共に砂漠のように乾いた灼熱の風が周囲に荒れ狂い、不良達を襲う。
思わず、不良達が足を止めた。体力が限界に近かった幾人かは、止まるための踏ん張りが効かずに前のめりに倒れた。
数秒して風が無くなると、不良達のリーダーがポツリと呟く。
「……なにが起こった?」
そして、疲れと痛みで軋む足に無理を聞かせて前に進み、藤広と少女が曲がった角の先を恐る恐る、ゆっくりと見た。
そこには何もなかった。
大柄な藤広の影も、小柄な少女の跡も何もなかった。
まるで、最初からそこには何もなかったかのように、二人は消えてしまっていたのだ。
ただ、チロチロと焼け焦げたような何かの黒い端切れが、風に吹かれて宙を舞っているだけだった。
このお話で展開した全力疾走中の目眩理論は作者が調べた内容から勝手に予測したものです。
れっきとした証拠やこれ合っている確証はありません。
そのため、知識として飲み込むのは、一旦ご自身で調べてからにするのをオススメします。