Ep.33 - 無限の後悔 / 終幕
私は、後悔をしている。
何故あの時、あの判断をしてしまったのか、と。
何故あの時、息子に自分から接しようとしなかったのか、と。
何故これ程、私は愚かなのか、と。
――私は、永遠に後悔をしている。
◇◆◇◆◇◆◇
肉が焼ける。
肉が爛れる。
肉が溶ける。
声にならない絶叫を上げながら、私はその感覚を肌で、肉体で明確に感じ取っていた。
あまりの辛さ、痛みで時間の流れが止まってしまったかの様に、景色がゆっくりとスローモーションで進む。
目の前にまで迫ってきた少女の鋭い視線が、私を突き刺すようで恐ろしい。
死の瞬間が、一歩一歩自分に向かって歩みを進めて、近づいてくるのが肌で感じられる。
そんな絶望と恐怖に塗れた時間の中で、ふと昔の思い出を見た。
――息子が生まれた、幸福感に包まれたその瞬間。
――息子が成長するのを見て、その度に妻と共に喜んだ瞬間。
――息子が誕生日を迎えて、プレゼントを贈ったその瞬間。
割れたガラスを乱雑に組み合わせたように、バラバラになって視界に映るその景色に、教祖は痛みすらも忘れて魅入った。
幸せだった日々だ。
自分の人生で最も輝いていて、最も幸福に包まれていた日々だ。
そして、絶望を迎える前の前日譚でもある。
そう思って、教祖は目を閉じた。
自分の生存を諦めて、ただ人生の後悔と向き合うために。
◇◆◇◆◇◆◇
浅谷麻土香。
その名は、私の大切な家族の運命を捻じ曲げた忌まわしい存在の名だ。
その教師のことは弘文から何度も聞いていた。
なにやら弘文の価値観を変えてくれた教師らしく、その女のおかげで人生で初めて友人を作れたのだと言っていた。
弘文に友人。
その言葉だけで、私は天にも昇るような心地になった。
弘文は昔から学校では一人だった。
弘文自身は大丈夫と言っていたが、私と妻は、いつか弘文が孤独で病んでしまうのではないかと、いつも心配で心配でならなかった。
そんな弘文に友人ができるきっかけを与えてくれたというのだ。
だから、私はその教師に会い、礼をすることにした。
そして、それを海淵教の同志達に話すと、宗教を上げてのお礼をしようという話になった。
昔から弘文のことを知っていた彼ら彼女らも、ずっと学校で一人だった弘文を心配していてくれたのだ。
早速その教師に連絡を取ってみると、驚くほど簡単に会う予定を作ることができた。
そして、私たちは信者全体でお礼の品を用意し、浅谷という教師と会う予定の場所に向かった。
あぁ、本当に忌々しい。
私は一生後悔している。
何も疑わずに行く判断をした、私を恨み続ける。
浅谷麻土香。
その女は、人ではなかった。
人の形を模した、邪悪なる者。
人の心に寄り添い、幸せを破壊する者。
地球外より降り立った邪神。
その名をナイアルラトホテプ。
その名を口にすることすら恐ろしいそいつは、類稀なる話術で弘文の心を鷲掴みにした。
世界創造の旧き時代から生きているそいつは、ありえざらる魔術で私達を操った。
そして、自分に完全に心酔していた弘文の目の前で、弘文の家族とも同等の存在である海淵教に、自分を殺させたのだ。
弘文が家出をした夜、あいつが私の夢に出てきた。
あいつは、ずっと私達を馬鹿にしていた。
自分の考えていた計画、その一から十を私に聞かせた。
そして最後に、満面の笑みを浮かべて『良い物語をありがとう』と言ってきた。
あの邪神の娯楽のために、私達と弘文の関係性は崩壊してしまったのだった。
ああ、私は一生後悔するだろう。
自分の愚かしさを。
家族を守れなかった自分を。
みすみすと弘文を家出させてしまった自分を。
だから、弘文の行方を知れた時は本当に嬉しかったのだ。
弘文の捜索に向かっていたという部下から、弘文が持ち出した神遺物の在処を発見したという報告を、弘文の居場所を発見したという報告を受けた時は、本当に嬉しかったのだ。
だというのに、これだ。
来てすぐの頃に会いに行けばよかった。
ただ会うだけだというのに、それに恐怖して踏みとどまってしまった。
そして、今日が来てしまった。
神遺物が暴走を起こし、街中が大混乱に包まれた。
――神遺物の近くに居るはずの弘文の安否は未だに知れない。
神遺物を再び封印するために送った部下が帰ってきたと思えば、怪物が襲ってきた。
――部下がどうなったかが、心配でたまらない。
そしてその怪物に、自分は敗北した。
――私の後ろに居るはずの教徒たちも、殺されるのだろう。
口惜しい。
何故こんなにも自分の人生はうまくいかないのか。
うまく行ったとしても、何故こんなにも簡単に崩れ去ってしまうのか。
――私の人生は、後悔ばかりだった。
あぁ、しかし。
ただ一つ。
たった一つだけ、数ある中でも、ずっと私の生きる理由になっていた心残りがある。
人生の最後に、これだけは達成したいと思っていたものがある。
それを、達成せずに終わるのか。
それを、伝えられずに終わるのか。
このまま、何もせずに死を享受するのか。
――できない。
そんなことはできない。
まだ伝えられていない。
まだ伝えられていないのだ。
まだ、伝えきれていないのだ。
常に私の光になってくれていた、愛する息子に。
私の不甲斐なさで心傷させ、ついに私の元を去ってしまった悲しき息子に。
たった一言。
ごめんなさい、と。
何も出来ず、ただ良いように扱われて、お前を絶望させてしまうような父で『ごめんなさい』と。
この心残りを、晴らさずに死ねるものか……!
◇◆◇◆◇◆◇
「……!」
手を振るう。
最後の力を込めて、抵抗の意を込めて、腕を振るう。
そこに一切の神秘は存在せず、自分の命に手をかけた少女を傷つける手段は一つもない。
むしろ、少女(怪物)の内側の炎に手が入ってしまい、さらなる火傷を負う。
だが、それでも私は腕をふるい続ける。
最後まで生存を信じて。
自分があの言葉をいうチャンスがあると信じて。
再び、弘文と会える日が来ると信じて。
手を振って、腕を振って、拳を振って。
もう一度手を、もう一度腕を、もう一度拳を。
手を、腕を、拳を、手を腕を拳を、手を腕を拳を手を腕を拳を――
「おしまい、です」
死刑宣告。
少女(怪物)の真っ赤に煮えたぎった腕が、私の心臓を掴んだ。
少女(怪物)に掴まれた心臓が、体の外に向かって勢いよく引っ張られる。
最初の内は粘っていた心臓を繋ぐ大動脈と大静脈も、すぐに限界を迎えて引きちぎられる。
沢山の血をぶちまけながら、私の心臓は少女(怪物)の手で引き抜かれた。
霞んでいく視界の中で、主の体から離れてもなおドクドクと脈打つ心臓を右手に持った少女(怪物)、はその右腕を変化させて私の心臓を炎に包む。
炎は少女(怪物)の体。
そして、心臓は炎の内に。
少女(怪物)の唱えた魔術は成功した。
少女(怪物)は生き長らえ、私はじきに死ぬ。
ああ、口惜しい、口惜しい。
何も出来なかった自分が、口惜しい。
許してくれ、許してくれ。
大切な信者達も、大切な家族すら救えなかった私を許してくれ。
謝罪を、謝罪を。
ただ一言だけ、息子に、息、子、に……
◇◆◇◆◇◆◇
心臓を内に取り込んだ瞬間、円は自身の炎が再び燃え上がるのを感じた。
消えてしまった火種が、もう一度息を吹き返したのを体の芯で感じ取った。
呼吸など必要ないというのに、円は肩に入った力を抜くようにして、大きな溜め息。
完全に炎に包まれてしまった教祖を、正面から真っすぐ見据えた。
「私の勝利、です」
円の勝利宣言と共に、教祖の体が後ろに傾く。
そして、次の瞬間にはバタンという音と共に冷たい床に倒れた。
場を包む静寂。
誰もが息をするのを忘れて、その光景を見ていた。
円すらも教祖を見つめたまま、動きを見せなかった。
だが、押し黙っていた信者達の内の一人が、何かを思いついたかのように大声で叫んだ。
「まだだ! まだ終わっていない! 教祖様はあの短剣を残してくれた! 今こそ仇討の時だ! あの化け物を処刑しろ!」
それを契機に、信者達が口々に雄たけびを上げ、円を糾弾する。
――教祖様の無念を晴らせ!
――神に逆らう化け物め!
――大人しく死んでおけば良いものを!
老年の女性が一歩前に出て、信者達の意思を代表するかのように悲鳴のような叫び声を礼拝堂に響かせた。
「よくも和人様を! 私の大切な旦那様を! 私たちの教祖様を!」
女性が声を張り上げる度に、信者達が大声で賛同する。
いざ教祖の仇を取ろう、と信者達の思考が統一されていく。
そんな信者達を、円はひどく冷淡な凍えるような目で見ていた。
「いあ、いあ、くとぅるふ、る・りえー! 私たちに加護を! あの化け物を処すための力を――うぁッ!?」
神を称える言葉と共に復讐の道を一歩進もうとした女性だったが、その歩みは彼女の悲鳴と共に止められてしまう。
突然左腕に走った激痛に顔を歪ませると、女性は何事か、と今もズキズキと痛む箇所を見る。
そこには見覚えのある短剣が。
「こ、これは……」
「あなた達があてにしていた短剣です。ですが、どうやらその短剣は今回、誰の心臓も貫いてはいないようですね。残念ながら、私の心臓に対する必中効果は消えてしまいました」
この礼拝堂に入ってきた時のような冷たい口調でそう言いながら、円が信者達に向かって足を進める。
それに対し、老年の女性も含め途端に静かになってしまった信者達は、壁に向かって一歩後ずさった。
言葉通り教祖の命を奪った右手に、大きな炎が宿る。
それと同時に円が、ひどく退屈そうな、冷たい目線を信者達に向けて言い放った。
「それでは、全員大人しく死んでください」




