Ep.25 - 真逆の二人
おかしい。
新しい話を書く時間は大量にあったはずなのに、全然話のストックが増えてない。
――2014年8月22日、午前0時13分。
藤弘祐介の料理店、その上階の一室にて。
「ご ぉ ぅあ ッ―…」
椅子に座縛られており、胸元に包丁が突き刺さっている男が、口から血を吐いて動かなくなる。
そして、男の命を奪った張本人である小柄な少女は、感情を感じさせない無機質な目で、その様子をじっと見ていた。
だが、男の唇を濡らした赤い粘液が床に一滴落ちたのを境に、少女は同質の液体によって汚された自身の右腕に視線を移す。
一度、溜め息。
「……はぁ」
憎き相手を散々痛めつけて殺したというのに、自身の内で燻る復讐の炎は、消える予兆すらみせない。
それどころか、未だにその勢いを増している。
自分を蝕むその異質な炎。
それと向かい合って見つめあうかのように、じっと自身の右腕を眺めていた少女だったが、ふとした瞬間に、何かを握りつぶすかのようにして、力強く右手で拳を握った。
少女の血に塗れた拳から炎が吹き出し、すぐに腕全体を炎が包む。
普通なら大火傷をするところだが、少女は特段気にした様子もなく燃える右腕から目を離し、そのまま胸に包丁が刺さったままの男の元へと歩いていく。
そして、少女が炎を纏った右腕で男の首を掴むと、すぐに明るい朱色の炎は男へと燃え移った。
炎は次第に男の腕へ足へと伝わっていき、一分もしない内に男の体全体はメラメラと燃える炎に包まれていた。
黒く焼け焦げていく、拷問でボロボロになった醜い死体を見ながら、炎の少女――樋之上円は、ポツリと拷問の際に男に吐かせたとある組織の名を呟いた。
「海淵教……」
男によると、かなり昔からある宗教団体らしい。
また、仏教やキリスト教などのポピュラーで俗世的な宗教とは違い、世間から隠されており、その上選ばれた人のみが入信できる、俗世から隔絶した神秘的な宗教なのだとか。
まぁ、十中八九この男の価値観で語られたもので、常識的に見れば、存在を知ったとしても絶対に入信を考えることはないような代物だろうが。
それと、海淵教の神の名前も吐かせた。
終始男は「不敬だ」「恐ろしいことを」などと叫んでいたが、赤熱化する程に熱した円の手で触り、男の右腕の指先からゆっくりと肉と骨を溶かしてやれば、肘から先が無くなったあたりで降参した男は詳細を話してくれた。
最初から予想できていたことだが、神の名はやはりクトゥルー。
前人未踏の隠された海底の都市にて眠る、地球でも有数の強大な神格である。
そんなクトゥルーを信仰している者の手先が、大いなる者の化石を求めてここに来たのだ。
犯人というか、実行犯はこの組織で間違いないだろう。
そして、海淵教の教祖を含めた全ての人員が、この街に居ることも分かっている。
藤広の仇を取るには絶好の機会だ。
そう、絶好の機会。
だというのに――
「……なぜ」
やる気が起きない。
本当に復讐すべき相手を発見したというのに、胸の内では今も復讐の炎がメラメラと酔え上がっているというのに、全く気分が高揚しない。
復讐を決意した時のように、そして今も燃えているこの男が店に訪れたときのように、火山から流れ出る溶岩ように体の奥底から熱が溢れに溢れ、目的の達成のために自身の体を突き動そうとする、あの電流が迸るような感覚がない。
その代わり、今の円の内にあるのは、何かをやり遂げた際に感じる達成感とは違う、ただ自分にぽっかりと穴が空いてしまったような、虚無にも似た失意。
大いなる者の化石を回収しにきた男を捕まえたときの自分はあんなにも滾っていたというのに、今はそれが嘘のよう。
だが、ここで復讐をやめるという選択肢もまた、円にはない。
自分と藤広の日常を破壊した者たちの存在を知った。
捕まえた仲間から、構成員(信者)全員がこの街の施設に集まっていることも知った。
その人員の内一人に手をかけた。
――後戻りはできない。
拷問をして情報を吐かせた後に、海淵教の幹部らしい男は殺した。
その判断は何も間違っていない。
復讐という自分の目的の達成に近づいていることを実感できたし、ここで変に生かして円のした行為を周囲に知られても困る。
そもそも、ここで生かしておいてもこの男はどの道近い日に死を選んでいたはず。
その瞬間が少し早まっただけである。
円の拷問によって、男の右腕は肘から先が溶け落ち、左腕は骨を残して灰に変わった。
両足だって、逃げられないように出会った瞬間に腱から下を切り落とし、その後も弾丸のような熱線を何度も打ち込み、使い物にならなくなるまで痛めつけた。
胴体に関しても、赤熱化させた腕を突き刺すことで、無理矢理止血しながら腹部を切開し、その手で内臓を掴んでやり、筆舌に尽くしがたい苦痛を与えた。
両手両足は勿論のこと、消化器官さえもその機能を消失した。
あの状態で生きるというのなら、男はどこかの病院に入院して、機能しなくなった各々の臓器に代わる機械を使う以外にないだろう。
どこかへ移動することさえ、ままならない。
それなら、死んだほうがマシ。
死ぬよりも、生きていたほうが辛いはずだ。
だから、あの判断にはなんの後悔も反省もない。
だが、男が死ぬ間際に吐いた言葉が、今もなお円の耳に残っている。
『助けて、助けて、助けてくれ! 命だけは、命だけはッ!』
実際は、ここまで綺麗な言葉じゃなかった。
一文字一文字に少なくとも三つ以上の濁点が入っていて、その上一部は言葉として発音することすらも出来ていなかった、とても聞き取りにくい文章。
でも、それはあの男が本気で自身の生存を願っていた証。
あの状態になっても必死にそう叫んでいたのだから、その生存という願望の強さが裏付けされるというものだ。
藤広を刺した相手なのに。
自分にあんな不快感を感じさせた相手なのに。
だというのに、なぜ。
あの言葉が、あの叫ぶ様子が、焼印でも押し付けられたかのように焼き付いて、頭から離れない。
叫んで助けを求める男の姿が、頭の中で得体の知れない何かと重なって、二重に見える。
そこまで考えたところで、円はそんな思いから逃げるようにして頭を横に振る。
長いツインテールが、頭の動きに合わせて揺れた。
ふと、視点を思考から現実に戻せば、男は座らされていた椅子もろとも燃え尽きてしまい、黒い炭に姿を変えていた。
冷えた目で円は男の残骸を一瞥すると、円はスカートをひるがえしてその場でクルリと回り、男の残骸に背を向ける。
そして、部屋の出口に向かいながら、円は部屋の惨状がバレないように隠蔽の魔術を使った。
隠蔽と言っても、現在の部屋のテクスチャの上に拷問を始める前のテクスチャを張り付けただけの、視界だけを騙す三流の魔術だが。
焦げ臭いにおいも残っているし、触れられれば何かがあることは分かってしまう。
それでも、円は今日の内に復讐を終わらせるつもりなので問題ない。
海淵教の信者を一人残らず燃やし尽くしたその後に、帰ってきて掃除をすればいいだけだ。
そして、その後にゆっくり藤弘の帰還を待てばいい。
バタンという音を立てて部屋の扉を閉めた後、階段を降りてキッチンに向かう。
誰もいない暗いキッチン。
そこに併設された外につながる扉から、円は料理店を出た。
いつも通りの無表情に似ても似つかない、どこか思いつめたような顔を浮かべて。
深夜の暗い暗い赤萩町。
普段なら少しの人通りがあるこの大通りにも、今日の事件のせいで誰一人も歩いていない。
不気味なほどに静かな町に響くのは、ぴゅーぴゅーという冷たい風の音と、コツコツという円のローファーが道路を踏む音だけだった。
円が出ていき、遂に誰一人として人が居なくなった料理店。
その二階にある無慈悲な拷問が行われた部屋で、魔術によって貼られた偽物のテクスチャが突然割れて、その真の容貌が姿を現した。
ぶちまけられたペンキのように壁に飛び散った、乾いた血液。
溶けて床に落ちてスライムのように平たく伸びた、人の肉だったもの。
完全に焼却され、骨を残して煤と灰に変わった男の残骸。
如何に凄惨な拷問があったことを示す元々人の肉体の一部だった物達が、風も吹いていないのにワサワサと動き始める。
灰の中に埋もれた骨が、宙に浮かんで人体模型のように正しい位置に配置し直される。
煤と灰の山が、死体に群がる蟻のように骨を伝って動き、寄り集まって黒い肉体を作る。
乾いた血液が、時間を戻されたかのように新鮮さを取り戻し、灰の塊に向かって飛んでいく。
床に落ちた溶肉が、コーティングするかのように薄く伸びて、灰の肉体を覆い隠す。
突然、沢山のトランプが床、天井、四方の壁から壁をすり抜けてきたかのように飛び出してきた。
同時に吹き始めた強い風にトランプ達は乗り、クルクルと渦巻いて竜巻を作る。
どこかで見たことのある光景だ。
しばらくすると、風も止んでトランプも床に落ちた。
だが、そこには既に灰の肉体はなく、代わりに見覚えのある青年が立っていた。
誰も触っていないのに、シャッという音がしてカーテンが開く。
遮るものが無くなり、窓から部屋に入ってきた月光を跳ね返して、青年の銀髪がキラキラと輝いた。
「馬鹿だねぇ、僕は言ったろうに。『自分の感情に従ってはならない』って」
ここには居ない少女を嘲るようにそう言うと、銀髪の青年は部屋の隅に向かって歩いた。
その先には、旧き印によって封印された矮小なる者の化石がある。
「後でどうにか処理するつもりだったんだろうが、その役目は僕が担おう。このような危険な小物、僕の舞台には必要ない」
青年は矮小なる者の化石を片手で掴むと、封印している布から取り出し、そのまま自身の握力に任せて化石を砕く。
砕かれた矮小なる者の化石は、大小様々な欠片となってバラバラと音を立てて床に落ちるが、次の瞬間には全てが分解されて目にも見えない粒子に変換された。
ものの数秒で化石の処理を終えた青年は、次は部屋の出口に向かって歩みを進める。
歩いている内に、魔法でも使ったかのように次々と青年の服装が変わっていく。
ラフだった衣装は、礼儀正しいタキシードに。
誰でも履いていそうなスニーカーは、テカテカと輝く高級感溢れる革靴に。
存在感の激しいアクセサリーは、高貴さを主張する一つの指輪に。
ドアノブを回して閉じられた扉を開けると、そこにはあるのはもちろん藤弘の家の廊下――ではなく、どこかのパーティー会場だった。
青年は、なんの躊躇もなく騒がしい会場に足を踏み入れる。
その美しい容姿で男女構わず視線を集めながら優雅に歩き、銀髪の青年は心底楽しそうに呟いた。
「さて、僕も一仕事始めようか」




