Ep.23 - 狂乱の終幕
藤広の家に突然現れた怪物を倒した円は、何事もなかったかのような足取りで廊下を走り、藤広の部屋の扉の目の前に立った。
走っている途中に外殻を生成してもう一度右足を作り出す。
おそらく二階に上がる際に襲ってきた魚たちも、先程の怪物も神秘の濃度が一定に達したが故に現れたものだろう。
魚たちが水で作られていたのも、おそらく二階にいる内はただの魚だったのだろうが、神秘の薄い一階に降りたことによって存在が不安定になり、あのような見た目になったに違いない。
そして、そのような生き物が突然現れたことが示すのは、大いなる者の部分的な顕現の時も近いという事。
そんなことになれば円は真っ先に狙われて一番に死ぬし、この町だってタダでは済まない。
済むわけがない。
遠野が言うには人命の救助は大切らしいので、そんなことをさせないために円はもう一度気を引き締めて、ドアノブを回して扉を開けた。
ぶわっ、と。
水族館のガラスが一度に割れてしまったかのように、大量の神秘が流れ込んできて、同時に荒ぶる流水に押し流されるかのような感覚が円を包む。
だが、それも一瞬のことで、藤広の部屋から流れ出てきた神秘は、多少の水の感触を残しながらも、すぐにその流れを止めた。
押し流されないように扉の前に仁王立ちして、右腕で顔をかばっていた円は、神秘の流れが収まり次第、藤広の部屋の様子を見る。
その様子は最後に魔術で意識だけを飛ばして見た時と、ほとんど変わらない。
それぞれの家具はボロボロに壊されたり傷つけられたりしていたし、部屋の中央には相変わらず金属製の白い金庫が置いてあった。
ただ一つ違いを挙げるとすれば、部屋中が水に満たされている事だろうか。
部屋の中では所々でぶくぶくと泡が立ち、水中を流された藤広の洋服やらが漂っていた。
また、部屋の中では一つの生態系が出来上がっており、部屋中を忙しなく泳ぐ小魚に、そんな小魚を気が赴くままに食す大型の魚が水中を優雅に泳いでいる。
不思議なことに藤広の部屋を満たしている大量の水は、円が開けた扉から外に流れ出て行くことは無く、まるで透明の壁に仕切られているかのようにピッタリと平面の壁を作っていた。
まるで水族館の水槽を見ているような気分になる光景だが、円は顔色一つ変えずに歩を進め、水の壁を通り抜ける。
本来ならこの神秘によってほとんど海と同化してしまった部屋に入った時点で、円はずぶ濡れになっているのだが、不思議と今はそうはならない。
その理由は、円の周りには十センチ程の空気の層にある。
これは、円が魔術で生成した一種の結界だった。
今は神秘のせいで水に包まれているが、本来この部屋は新鮮な空気で満ちていて、円が溺れたり、ましてや濡れる事なんて絶対にありえないことだ。
そして、『藤弘の部屋』という概念が持つ本来のその定義を、円は魔術で自身の周りにだけ固定させたのだ。
また、それによって出来上がる概念『空気と水の境目』と概念『神秘の有無』を利用して、円の周囲数センチを異世界とする結界を作り出したのである。
魔術が神秘に侵されて破壊されないよう、急がず焦らず、円は慎重にこの全ての騒動の元凶になった物品の元に歩いていく。
その途中で魚が突っ込んできたりするが、すべてが魔術によって作り出された結界に阻まれるか、そもそも当たらずに、幽霊のように円をすり抜けていく。
ただ、漂っている服などは元からこの部屋にあったものなので弾かれないのが、円はそれを気にすることなく、むしろ道中にある服をこれ見よがしに掴んでは、回収していた。
水中特有の耳に響くような重低音の中で、しばらくの間円の足音がコツコツと静かに響いていた。
金庫の目の前に辿り着いた円は足を屈めて座り込み、金庫の中身を美しい赤い瞳に映す。
そこには、分厚い書物が何冊と、元の形が分からなくなるほどに砕かれてしまった木の欠片が置かれていた。
だが、円が封印の処理を施さなくてはならないこの狂乱の元凶はそれらのどれでもない。
円は金庫の中に手を入れて、書物や偶像だったらしいものを一つずつ丁寧に取り出していく。
そして、それらの半分を外に出し終わった頃に、ようやく元凶は姿を現した。
それは、一見ただの白い石のようだった。
だが、所々を見てみれば肉片のようにも見える緑色の、ブヨブヨとしたゴム状の物質が付着しており、それの持つ凡性を否定する。
石のように見えるそれ自体も、よくよく見てみればとてもただの石とは思えない形状をしており、所々歪んでいて、またその先端のように見える部分はひどく鋭く、他はゴツゴツと砕かれたような形をしていた。
また、どうやらそれは人の精神に働きかける不気味な波動を常に放っているようで、それをじっと見つめていると気が滅入ってしまい、心の奥底から孤独感が湧きあげてくる。
この騒動の原因となった物体。
その正体は、太古の昔に折れて地に落ち化石となった大いなる者の爪の一部。
円はそれを頭の隅で理解しながらも決して怖気づかず、下手に壊して未だに繋がりのある本体を刺激しないように、そっと化石を取り出すと、丁寧にその化石を途中で回収してきた藤広の服で包み始めた。
その後も二重三重に衣服で完全に化石を閉じ込めた後、円は最後に包んだ布の上にそっと指先を当てる。
そして、円はその指先に小さな炎を灯して服を焦がし、指を動かしてゆっくりと一つの紋様を描いた。
それは歪な形の星型で、また、その中央には目のような模様がある。
だが、それは決して目などではなく、まるで魂を象徴するかのような炎の柱と、それを封じているかのようにも見える一本の輪で構成されていた。
不思議な紋様を描き終わると、円は目を閉じ、祈るようにして両手を組む。
そして、口を小さく開けて静かな声で、この旧き印を活性化するための呪文を紡ぎ始めた。
「この世全てを掌握せし暗黒の君。あらゆるものを凌駕する全知の賢王。宇宙の始祖たる原始の混沌。嗚呼、Azathoth」
世界の中心で脈動する魔王。
平凡なる者では知り得ず、発音することすらも許されないその名を、円は一言一句丁寧に、その威光に対する畏敬を込めながら口にする。
次点、突然円の周りの空間が歪に歪み、虹色に輝く真っ黒な不可視の触手が消滅しながら姿を表す。
その触手はどんどん短くなりながら伸びていき、円の体中に巻き付いて何かを探るかのように一箇所に向かって体中を這い回る。
円に全く興味がなさそうに体中の至る所に巻かれた触手は、千切れそうなくらいに太くなって円の首を、腕を、脚を折れてしまいそうな程に優しく締め付けた。
体中を弄ばれるような感覚に、吐き気がするような嬉しさを抱いて、魔王に触れているという事実に、気色悪さで体を震わせながら感謝感激して祈りを続ける。
「全知全能、盲目白痴、混沌の魔王。不遜ながらも、あなたの御力添えを乞い願う。神秘の否定を。魔術魔法の断絶を。旧き最高の神秘たる印の再起動、それを今ここに」
円がその詠唱の後、最後に小さく謎の言語を口にしたときだった。
邪悪な化石を包んだ衣類の上に描かれた印は、神々しい光を眩く放ち、周囲を白く染め上げる。
同時に、円の体を蛇のように締め付けていた触手達が突然、泥水に沈むようにズブズブと、服をすり抜けて円の体に入っていった。
触手達は何かを探すようにゆるゆると円の体内を凌辱し、ぐちゃぐちゃと体の構成物質を破壊していく。
今まで感じたことのない感覚に円は思わず表情を苦痛に歪めるが、そんな円のことなど意にも介さない触手は、何かを見つけたかのように突然動きを止める。
そしてしばらくすると、用は済んだとばかりにシュルシュルと伸びながら縮んでいき、歪んだ時空に姿を消していった。
完全な沈黙が場を支配する。
だが、それも束の間のこと。
円は薄っすらと目を開けて、安堵の息を吐き――
バタリ、という音を立てて床に倒れた。
◇◆◇◆◇◆◇
――2014年、8月21日15時48分。
この時刻を以て、赤萩町の大通りを包んだ神秘は一度に消失し、そこに居た人々は正気に戻る。
だが、一時間の内に起こった様々な殺傷事は両手の指を合わせてもとても数えらないほどに多く、この短時間の中で起こった事件のとしては、世界でも有数の負傷者数と死傷者数を記録した。
その場にいたと考えられる全ての人々の内、死傷者・行方不明者は脅威の六割。
この二つが同列として考えられているのは、行方不明者の大半がただの肉塊となり身元の判別さえもほとんど不可能になった死体が非常に多かったが故である。
また残りの四割の内、重症・意識不明者がその約七割を占めており、同時に残った微量な部分でさえも軽症ではあるが、地獄のような光景に心に傷を負ったものや、精神を病んだ者がその大半を埋めていた。
結局、完全に無傷だった者は一分にも満たなかったという。
また、これは事件が終了した直後の数値であり、狂気に陥っている内に大量虐殺を行った人々、また大切な人を失った人々の大半が後に自殺をしたとされており、二次災害的な死を考慮すれば、実際の死傷者は更に多くなるとも言われている。
この同じ場所に居た人々が一斉に狂を発して暴れ回った事件は、その理由が全く解明されていないということもあり、約半年もの間、世界中を騒がせていた。
特に都市伝説や怪談を愛するオカルトマニアの中でこの事件の話は盛り上がり、政府の研究施設による超音波を用いた脳に作用する兵器の実験だったという陰謀論や、宇宙人から送られてきたなんらかの怪電波によるものという説まで、様々な説を提示しながらも業界を賑わらせていた。
また、近隣住人にもこの事件のあった大通りは「呪われている」等のイメージから忌憚され、同様の理由や客足が少なくなった等の理由で企業なども次々に撤退していき、約六年もの間人の入らない廃墟のような場所に変わってしまうことになる。
勿論この事件の真相を知る者など存在しない。
はたまた、とあるコックが隠し持って居た太古の化石が原因になったなどとは、信じるものも一人も居ない。
この事件を止めた炎の吸血鬼と、この事件を起こした張本人を除いて。




