Ep.22 - 立ち塞がる者を悉く
時間は少し巻き戻り、遠野がまだ銃弾に撃ち抜かれる前のこと。
場面は遠野の働きもあって、料理店内に入ることに成功した円に移る。
ドアを乱暴に開けて転げ入ってきた円は、突如息苦しさを感じて険しい顔をした。
本来、円は呼吸を必要としない生物だ。
体は炎という酸素を必要とする概念で作られてはいるが、そもそも円は酸素なにも、空気すらない宇宙空間を飛来して地球にやってきた、とある神の端末。
一応呼吸自体はできるが、酸素の役割は自身の保有する魔力で代用できるし、何よりも母体がそうなるように円を作ってあるので基本的に呼吸は行わない。
人間にとっての呼吸に代わる行為が、自身の中で完結している円は呼吸を必要とせず、息苦しさなど感じるはずがないのだ。
だというのに、今現在円は息苦しさを感じている。
ならば、考えられる要因は一つ。
この場に存在する大いなる者の神秘、その濃度が高すぎるが故に発生したものだと。
おそらく、今円を囲んでいる全ては、空気も含めて神秘に侵食されたもの。
ともすれば、体が拒絶するものに周りいっぱいを埋め尽くされたような状態なのだ。
それなら、息苦しさを感じても仕方がない。
神秘が開放されてからまだ十五分程度しか経過していないというのに、このレベル。
この調子で神秘が漏れ続けてしまえば、本当に大いなる者の腕やら脚が顕現しかねない。
――急がなければ。
静かな料理店の中でそう考えた円は、元凶となった物品のある二階に向かうため、階段に向かって走り始める。
二階に上がれる階段はキッチンにしかない。
円は食事処とキッチンを分断しているカウンターを飛び越える。
だが、カウンターを飛び越えた矢先、階段の奥からコポコポという泡が立つような音が聞こえてくる。
その音はどんどん大きく、近くなっていき、その音の発生源が円に近づいてきているのが肌に感じ取れた。
そして、驚くべきことに階段の奥から湧いて出てきたのは大小様々な魚で構成された、大きな魚群。
しかも、その全てが普通の魚ではない。
骨や鱗、目玉などは全て水だけで形作られており、水中を泳ぐかのように空を飛んでいる奇妙な魚だ。
どう考えたって、普通の代物ではなかった。
二階から現れた魚たちは、獲物を見つけたかのように小さな口を一斉に開いて、これまた水製の鋭い歯を見せながら円に向かって一群となって泳いでくる。
それに対して円は、魚たちに向かって右手の手のひらを突き出すだけ。
ほとんどなんの効果が無いように見えるそれは、しかし次の瞬間内側から腫れていくかのように鈍い赤い光を放ち――
爆破。
料理店に来るまでの道中で白い車を吹き飛ばした時と同じ要領で、円は水の魚たちを全て等しく灰燼に帰した。
いや、水だったのだから灰燼ではなく、水蒸気に帰したの方が正しいか。
ともかく、自分を襲ってきた魚たちを一掃した円は、しかしその結果に満足がいかなかったかのような表情を浮かべた。
それもそのはず、一応魚を全滅させることは出来たが、本来の爆発の威力は円が想定していたものよりもずっと低いものだった。
それを急ぎ魔術で『熱』やら『酸素量』やらを調整して、無理矢理今の威力に変えたわけだが、それでも魔力を無駄遣いさせられたのは間違いない。
十中八九、大いなる者の神秘が内包する『水中』の概念によって、炎が相殺されたことによるものだが、それでも殺された勢いが多すぎる。
料理店に入った次点で神秘の放出の多さが予想を上回っていることは確認できていたが、その後に更新した予想のさらに上をいっているとなるとは、完全に予想外だ。
それに、この騒動の元凶を封ずるには魔力が必須。
無駄に消費はしたくない。
――急がなければ。
肌身に感じて神秘の濃さを実感した円は、もう一度そう考えると二段とばしで急いで階段を登った。
「!」
階段を登って二階に入ると突然、水に飛び込んだような感覚が円を包んだ。
ブクブクと不規則な形の小さな泡が円の周りに現れ、長いツインテールが頭の動きを追従するかのように、なめらかに動き始める。
目を開けてもそこは間違いなく見慣れた二階の廊下。
水に満たされているようには見えないし、試しに普段は使用しない肺を使って息を吸ってみても、特に支障はない。
だが、確実に円の触覚は自分が水中に居ることを伝えており、水中特有の体に水がまとわりつくような感覚を、今もなお円の脳に発信している。
また空気を吸い込めるはずなのに、水をめいっぱい吸い込んでいるような、気持ち悪い感覚があった。
それだけではなく、次に空気を吹き出してみると、それが全て気泡に変わって天井に向かって昇っていく。
空気で満たされているのは間違いないのに、水中にいるような気色悪い空間。
この部屋が神秘によって汚染されている決定的な証拠だった。
再三に渡って状況の重さを理解させられた円は、神秘の発生源のある藤広の部屋に向かおうとする。
しかし――
「ッ!?」
突如、何かが勢いよく伸びてきて、円の右脚に巻き付いた。
驚いた顔を浮かべて反射的に自分の右脚を見た円は、ねじれた海藻のような見た目の、グロテスクな触手が自身の右脚に、まるで蛇のように巻き付いているのを確認する。
触手が伸びてきている方向を確認すれば、そこは二階の端にある部屋の扉から、ひょっこりと体の半分を見せている怪物の姿があった。
扉から出てきている上半身を見るに、おそらく楕円形の胴体を持っているのだろうが、その所々から八本の付属肢、つまり腕のような触手が伸びている。
また、どうやらそれらの付属師には骨や甲殻といった、体の形を一定に保つための物がないようで、ふにゃふにゃとタコやイカの持つ触手のように動いていた。
どうやら不思議なことに、それらの先端にある手のようなものだけには骨があるようで、そこだけは人の手のようになっており、同時に人とは違い、それぞれの指と指の間にはヒレのようながついていた。
そして、今円を捕まえている触手はそれら八本の腕のような物とは別物で、それらはその怪物の口と思われる場所の両隣からそれぞれ一本ずつ生えていた。
この口というのは本来なら怪物の頭が有るべき場所にある、脳としか考えられない海綿状の大きなコブのような器官の下半分についており、どうやら通常の生物のように上下ではなく左右に開けるタイプの口であるらしく、まるで人の脳を半分から斧で叩き切り、解剖したようなグロテスクな様を呈している。
また、怪物の口があるコブの上半分は蜘蛛の糸や海面に漂う藻を思わせる、細くて薄い肉で覆われており、その怪物の印象にある嫌悪感をさらに助長していた。
その上、怪物の皮膚は特殊な成分の造りようで、どういうわけか全てが深海に棲む虫のように半透明になっており、怪物の内臓が朧気ながらその容姿を覗かせている。
そんな怪物の、円の右脚に巻き付いた触手は捕らえたばかりの獲物を勢いよく自身の口に向かって引っ張り、その大きくてグロテスクな口を大きく開いて、今か今かと餌の到来を待っていた。
だが、円はそこでタダで食われるようなタマ
尋常な人ならば叫び声を上げてパニックに陥ってしまうものを、円が平然とした表情で冷静に、二階に上がる前にキッチンから拝借してきた包丁を、勢いよく怪物に向かって投げつけた。
その包丁は一直線に怪物の口の真上にある海綿状のコブに向かって飛んでいき、コブの中央にグサリと突き刺さる。
怪物は汚い赤緑色の血を撒き散らしながら驚いたように体を震わせ、同時に突き刺さった刃物を除去するために、八本の付属肢を全て包丁に向かって集中させた。
だが、それは相手が普通の人間ならともかく、生ける炎の端末たる円に対しては完全な悪手。
怪物の意識が包丁に向かった瞬間に、円は自身の右脚の実体化を一時的に解除する。
炎としての側面だけになった右足が、あたりに充満した神秘に押しつぶされて消失するが、むしろ好都合。
怪物による拘束がなくなった円は、次に床と壁を勢いよく蹴りつけ、ピンボール床と壁を飛び回りながら怪物のコブに接近。
途中にある長い付属肢も、それぞれの間にできた隙間を一寸違わず通り抜けることで、スムーズに避けていく。
その時点で迫ってきた円にすぐに気づいた怪物は、コブの付近に集められていた付属肢全てを同時に扱って円の接近を阻もうとするが、時すでに遅し。
その時には円は怪物の頭部に肉薄している。
危機感を覚えた怪物が、口元にある二本の触手と全ての長い付属肢で円を攻撃しようとするが、やはり円より先に手を打つことは叶わない。
怪物の頭部と思わしきコブに両足で降り立った円は、左腕でコブにびっしりと生えた細くて薄い肉を掴むことで自身の体を安定させ、突き刺さった包丁の柄にまっすぐに右ストレート。
包丁が更に奥深くに突き刺さり、怪物はたまらず縦に切り筋を入れられたような口を大きく開けて、金属と金属が鈍く擦れるかのような、甲高くも低い耳障りな絶叫を廊下に響き渡らせる。
それに反して円は、耳を塞いだり顔を顰めることすらせずに、まるで作業をするかのような、冷静冷徹な表情で次に包丁の柄を握りしめる。
そして、がっしりと掴んだ包丁の柄を右に捻れば、怪物は急に静かになってビクリと痙攣。
容赦なく円が包丁を右に振り抜き、廊下の壁に赤緑の血液をいっぱいに撒き散らせると、動かなくなった怪物は大きな音を立てて床に倒れた。
「処理、完了です」
弱点を的確に突かれて命を失くした怪物に一瞥もくれることなく、円はそう一言だけ呟いて藤広の私室に向かって走る。
その疲れを知らない顔つきと無傷の体からは、とてもあの奇怪で恐ろしい怪物と戦った後とは到底考えられなかった。




