Ep.18 - 希望の灯火
「……円ちゃん?」
「はい、円ですが」
見知った少女の姿を見つけた遠野は、安心したかのようにポツリとその少女の名前を呟いた。
そして、その少女は耳を塞いだまま、どうやって聞き取ったのか律儀に遠野の呟きに言葉を返す。
この地獄の中に立っていながらも平然として、いつもと変わらない様子の円を、遠野は呆然と見つめていた。
「あ! まどかちゃんだ〜!」
二人の間に流れた奇妙な静寂を、宮野が無邪気な声で叩き壊した。
そして、円は自分に向かって笑顔で大きく手を振ってきた宮野に、小さく手を振り返す。
一拍遅れて、停止していた脳が再活動し始めた遠野が、共に逃げるために焦った様子で円に話しかけた。
「無事だったんだ、円ちゃん……! 早く逃げよう、ここにいたらいつ死ぬか分から――」
「いえ、それはできません」
だが、自分の提案をキッパリと円に断られて、遠野は歯噛みする。
そして、何故逃げようとしないのか、その疑問を遠野は怒気を孕んだ口調で、円に叫んだ。
「なんで!?」
「この膨大な神秘の放出を、止めるためです」
自身の大真面目な質問に、意味の分からない答えを返されて、遠野は思わず苛ついた声色で「はぁ?」という言葉を漏らす。
だが、ここ二週間で知った円の性格と、いつになく真剣な様子から、まさかの可能性に脳内でたどり着いた。
「もしかして、こんな事になってる原因が分かってるのか!?」
「はい、その通りです。原因の物品がある場所も、それが爆発する直前の瞬間も、この目で直接見たので間違いありません。対抗策も考えてあります」
縋るような気持ちでそう質問した遠野に、円はさもそれが当然のような口調でハッキリと、遠野の考えた通りのことを口にした。
そして、円は遠野の顔を正面から見て、次は自分の番だ、とばかりに遠野に質問をした。
「一応私だけでも、神秘の放出を止めることは可能です。しかし、この状況では何が起こるかわかりません。そのために助っ人を探していたのですが、どうでしょうか」
その質問に、遠野は一瞬呆ける。
だが、次の瞬間にはその顔もキリッとしたものに変わって、覚悟を決めたかのような口調で円に返事をした。
「もちろん、喜んで。さっき助けられなかった人の分まで、助けて見せるよ」
遠野からの素早い返答に、円は一瞬驚いたような表情を浮かべるが、すぐに満足したのか、円は口元に笑みを浮かべた。
そして、小さな声で「他の人間もこれくらい素直だったらいいのに」と呟いた。
「とおのくん? どこかいくの?」
だが、すぐ近くで聞こえてきた宮野の声に、まずはこの友人をどうにかしなければ、と遠野は思い直す。
「な、なぁ明美」
「なぁに?」
「ここで待って……いや、一人で安全な所で待ってられるか?」
遠野にそう聞かれた宮野は、意味が分からなかったのか、言葉を反芻するかのように黙ってしまい、パチクリと瞬きをする。
だが、その言葉をようやく理解した宮野は、急に目から涙を流し始めて、ブンブンと首を横に振った。
「やだやだやだやだ! やだやだやだぁ!」
予想はできていた宮野の返事に、遠野は困ったような顔を浮かべる。
円の力になりたいのは山々だが、こんな状態の宮野を放っておくわけにもいかない。
この様子では、いつ周りの狂人たちに殺されてしまうか、分かったものではない。
「ちょっと代わってくれますか」
だが、そんな遠野に円が助け舟を出した。
その言葉を聞いた遠野は、一旦宮野を抱き上げるのをやめて、円の前に座らせる。
ぽん、と円が宮野の肩に左手を置く。
泣いていた宮野は、突然のことに泣き止んで、不思議そうな顔で円を見つめた。
「まどかちゃん?」
「我慢してください。少し痛みます」
――パァン!
瞬間、辺りに小さな炸裂音が響き渡って、すぐに狂人たちの奏でる騒音にかき消される。
円が宮野の頬に張り手をした音だった。
突然の暴行に、遠野は口をあんぐりと開けて唖然としている。
円に頬を引っ叩かれた宮野も同様に唖然とした様子で、ジンジンと痛む自分の頬を片手で触れた。
その直後に涙が目元に溜まり始めるが――
「正気を保って、落ち着いてください」
「……!」
宮野が泣き出す前に両肩を掴んだ円が、真剣な表情で宮野の顔を正面から見て、そう語りかける。
今にも泣き出しそうだった宮野は、急に動きを止めて円を見つめた。
「落ち着くには深呼吸が効果的と聞きました。確か呼吸法は……」
それだけ覚えてなかったのだろう。
円は指を頬に当てて、少しだけ考える素振りを見せる。
だが、それも一瞬のこと。
すぐに思い出したのか、いたく真剣な様子に切り替わる。
「ひっひっふー、ひっひっふー」
「それは陣痛のときにするやつだよ! 円ちゃん!」
唐突過ぎる円の天然ボケに、宮野が大声でツッコミを入れた。
その様子に、遠野がまるで他人事のように呟いた。
「あ、戻ったな」
それにつられて、円も同じようなことを呟く。
「戻りましたね」
そして、戻ったらしい張本人も似たようなことを呟いた。
「あ、私戻ってる」
誰が幼児退行を天然ボケで治すと予想しただろうか。
三人の間になんとも微妙な空気が流れた。
正確には円はそんなことは考えておらず、純粋に黙っているだけなので、遠野と宮野の間にだけだが。
そして、この微妙な空気を破壊したのは、やはり空気が読めていない円だった。
平然とした様子で宮野に語りかける。
「ここから北へ向かって走れば、五分ほどで安全圏に出ます。早くしたほうがいいかと」
「あ、うん。でも、私も二人の手伝いをしたほうがいいんじゃ……遠野くんにも迷惑かけちゃったし」
「いいえ、あなたは既に一度神秘にその精神を冒されました。どのタイミングで再度狂気に陥るか、定かではありません。迷惑をかけたくないのなら、いち早くこの場から離れるのをオススメします」
自分も力になろうと進言した宮野だったが、円にバッサリと切り捨てられ、悔しそうな表情を浮かべて歯噛みする。
だが、すぐに自分の両頬を叩いて迷いを飛ばすと「じゃあね」と、遠野と円に手を振って、勢いよく円が示した方向に向かって走り去っていった。
「判断も行動も早い。感心です」
「昔から、こういう時での判断は早い上に正確だからな、アイツは――ってそうじゃなかった。ここからどうするんだ、円ちゃん」
言葉にした通り感心した様子で円が呟くと、宮野のことを高校時代から知っている遠野は、自慢げに頼りになる友人のことを口にした。
が、すぐにそれは今することではないと思い返して、円に今後の方針を問う。
「このまま目的地まで走って向かいます。私が先導しますので、遠野は私の後ろをついてきてください」
◇◆◇◆◇◆◇
「なぁ、円ちゃん。さっき原因が分かってるって言ってたけど、それってなんなの?」
狂った人々の間を縫うようにして走りながら、遠野は気になっていた疑問を、前方を走る円の背中に向けて投げかけた。
それに対して逐一振り向いたりはしないが、やはり律儀に円は遠野の質問に返答をする。
「閉じ込められて一ヶ所に溜まった膨大な量の神秘。それが一度に解放されたことによる爆発的な神秘の放出です」
「神秘……? 言い方的に人の脳に作用する超音波みたいなものか?」
「えぇ。厳密にはかなり違いますが、今はその認識で構いません。精神を汚染する、ということだけ頭に入れておいてください」
機械的な感じは残しつつも、抑揚のある口調でそう答える円に、遠野は質問を繰り返す。
「何で俺は無事なんだ? 正直他人と違う点なんか無いと思うんだけど」
「それは純粋に生まれ持った体質の問題でしょう。それと、運の良さですね。精神自体は一度汚染されかけているハズです。それをあなたの体が振り払った。そう考えるのが妥当かと」
「体の中に入ってきたウイルスを細胞が排除した……そう捉えればいいか?」
「それも厳密にはかなり違いますが、捉え方はほとんど正解です」
「そうか。なら――」
「少しお待ちを。前方の障害を片付けてきます。遠野はこのまま真っすぐ走ってください」
円が遠野の言葉を遮り、勢いよく地面を蹴って横に跳んだ。
遠野は「え、ちょっと――」と驚いた声を上げるが、その時には円の姿は見えなくなっていた。
仕方なく遠野は言われたとおりに前に向かって走り続けるが、直ぐにその足は止まってしまう。
「ッ!?」
一台の車が、前方から迫って来ていた。
白い塗装が為されたその軽車両は、前方を鮮やかな赤色に染めており、今もなお車線上に居る通行人達を轢き殺しながら、凄まじい速度で走っている。
やはりと言うべきか、血に塗れた窓からうっすらと見える運転手の顔は、狂気の笑みに染まっていた。
――避けられない。
一瞬でそう悟った遠野は、意味のない行為だと知りながらも、腕を顔の前で組んで必死に頭を守ろうとする。
だが、多くの人が遠野が轢かれると思ったのと同じ瞬間、白い車に横から小さな人影が飛び蹴りを入れた。
勿論のこと、そんな物では重い車体はビクともしない。
しかし、その次の瞬間には周りの狂人達と共に、遠野は驚愕の顔を浮かべた。
飛び蹴りを入れられた部分を中心にして、車の真横で大爆発が起きる。
紅蓮の炎であたりを眩しいくらいに照らしたその爆発は、周囲の人混みを巻き込みながら、白い車を大きく吹き飛ばした。
先程までの高速運転による慣性が加わり、車は横斜め上全方に向かって、クルクルと回りながら凄まじい速度で飛んでいく。
そして、その先にあった小さなビルに激突して動きを止めた後、重力に引っ張られて地面に落ちた。
ガシャンという大きな金属音を街中に響く。
一瞬、久しぶりの静寂が街中を包む。
だが、次の瞬間にはそれを見た人々が悲鳴や怒声、嬌声を上げて騒ぎ立て始めた。
その中で、正気でいられてた遠野は、この爆発の大本になった小さな人影に向かって走っていく。
その先には、やはりと言うべきかついさっき別れたばかりの少女が立っていた。
「円ちゃん、さっきのなに!?」
「自身の炎を一ヶ所に凝縮したときに起こる爆発を、魔術でより強力にしたものです」
「あぁなるほど爆発を魔術で……じゃなくて! どうやったかはこの際聞かないけど、あんなことしたら周りの人が死ぬかもしれないだろ!?」
実際に、爆発に巻き込まれて血だらけになっている人がいる。
その時点で十分危険な行為だったというのに、それを敢行してもなお、平然とした顔で受け答えをする少女に、遠野は怒気を孕んだ口調で叱りつけた。
だが、それに対して円は、真底不思議そうに首をコテンと傾けて、遠野に質問をした。
「それは、自分の命よりも優先すべきことですか?」
「……は?」
「言い忘れていましたが、この濃厚な神秘を放っておくと、それと繋がる神格が一時的に顕現する可能性があります。その場合、いの一番に狙われるのはタイプの違う神秘を内包する私でしょう。そして、神格に狙われてしまえば、私は確実に死に至ります」
別れる前までの、機械的ながら抑揚のある口調で、不思議そうに円が語る。
そして、先程と同質の質問を遠野にした。
「他人の死は、自身の生存よりも優先すべきですか?」
背中を嫌な寒気が走って、遠野は思わず後ずさる。
だが、それでも何か言わなければ、と思って口を開けようとした。
「だ、だけど――」
「それに、神格が降臨してしまえば、この辺り一帯にいる人々は間違いなく命を落とすでしょう。それはあなたも同じです、遠野。
神秘の放出が止まらなければ、消失する定めにある命。それなら、私がここで消してしまっても、同じなのではないでしょうか」
「それは……」
「それに、他者の命を優先すべき、というならばやはり私の判断は正解です。
放っておけば全ての命が無くなります。でも、ここで私がその一割を消して神秘の放出を止めれば、残りの九割は生きていられます。この上なく、合理的で効率的な判断だと思いますが」
「……」
薄気味悪い物を感じて、遠野は押し黙ってしまう。
円の言葉は全て正しい。
円の言っていることは全て合理的だ。
いわば、これはトロッコ問題に対する円の答えだ。
でも、何かが欠けている。
決定的なまでに、何かが欠けている。
「再度問います、遠野」
円がもう一度口を開けた。
今まで聞こえているだけで、無意識の内にこの狂気の中での心の支えとなっていたその声が、今は何よりも恐ろしい。
そして、遠野はようやく気付いた。
同時に、初めて円に出会った際に感じた不気味さを思い出した。
この少女に、圧倒的に足りていないもの。
この少女に、人間味のなさを感じるその由縁。
この少女を巣食う、この地獄の中でも最も冒涜的な狂気。
「他人の死は、自分の生存よりも優先すべきことですか?」
――この少女の内には、『道徳』というものが存在しないのだ。




