Ep.17 - 狂瀾怒濤
グロ注意
――2014年、8月21日、14時23分。
「ッあ……!」
円と別れた後も宮野と共にカフェに居た遠野は、突然感じた背筋が凍るような悪寒と共に生じた、謎の頭痛に頭を抑えていた。
体が鉛のように重く、息もし辛い。
だが、十数秒もすれば頭痛は収まり、体も元の調子に戻る。
余韻で今も少しだけ痛むように感じる頭を抑えながら、遠野は辺りを見回そうとして顔を上げた。
しかし、すぐに突然横から何者かにロケットのような勢いで体当たりをされ、遠野は椅子から転げ落ちる。
遠野に体当たりをしてきた何者かは、床に落ちてもなお遠野に馬乗りになって離れようとしない。
「誰だ!」と叫ぼうとしたが、目を開けて馬乗りになっている張本人の顔を見た瞬間に、口にまで出かけていたその言葉は、喉に向かってトンボ返りしていった。
遠野に馬乗りになっている張本人、それは先程まで隣に座っていた友人――宮野明美だった。
だがその顔はいつもの宮野を感じられないほどに恐怖で歪んでおり、大きな目にいっぱいの涙を貯めている。
「あ、明美……?」
「……て、ぁる、と……ぅん」
宮野がか細い声で何かを呟く。
そして次の瞬間、宮野の目からは溜まりに溜まった涙が溢れ始め、口を大きく開けて叫び声をカフェに轟かせた。
「助けて! 悠翔くん! 助けて助けて! 助けてぇ!」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で大声で泣き喚き、まるで恐怖から逃れる子供のようにして、遠野の胸に自身の頭を押し付ける。
宮野がこんな状態になっている理由が分からず、遠野は「どうしたんだよ!」と大声で叫んだ。
「来るの!」
「何が!?」
「怪物が来てるの! 私を食べようとするの! 私を潰そうとするの! 食べられるの潰されるの殺されるの! 助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけてたすけて!」
助けて、たすけて、と息継ぎもなしに無限に繰り返す宮野の尋常でない様子から、遠野はこれが宮野の体に起こった非常事態であることを悟る。
そして、他にカフェに居る人物に助けを求めようとして、辺りを見回した。
「死ねエエェェエエェェエ!!!!」
「ッ!?」
首を回して周囲を見渡した遠野は、殺意がこもった目で椅子を振りかぶった大男が、宮野のすぐ後ろに迫ってきているのを見つける。
次の瞬間振り下ろされた椅子を、遠野は宮野を抱き抱えて一緒に横に転がることで、間一髪回避。
転がった先で体を起こすと、遠野はようやく自身を囲む異常事態に気がついた。
自分を除いた全員が、おかしくなっている。
ある人は店の隅にうずくまり、何かを延々と呟いている。
ある人は虚空を指さして、笑ったかと思えば、次の瞬間に号泣し始める。
ある人は店内で大暴れして人を殺し、ある人は自分の首を締めて自身を殺す。
ある人はパニックを起こして騒ぎ立て、ある人は泡を吹いて机に倒れている。
あまりにも突拍子のない周囲の変化に理解が追いつかず、遠野は固まってしまった。
だが、先程遠野と宮野に椅子を攻撃してきた男の再度の雄叫びに、今はここから離れなければ、と思い直す。
遠野は自身を奮い立たせて立ち上がり、未だに自分の服を握りしめている宮野を立たせようとした。
「明美! 立って! 逃げるぞ!」
「やだぁ!」
「はぁ!? なんでだよ!?」
予測していなかった宮野の反抗に、遠野は苛つきを抑えきれずに大声でそう叫ぶ。
それに対し、宮野は涙を大量に流しながら、縋るような顔で遠野に両手を伸ばして叫んだ。
「こわいの! だっこして!」
「……!」
普段から気が弱いせいで勘違いされやすいが、宮野はこういう場面では常に冷静でいられる人物だ。
下手をすれば、遠野よりもずっと頼りになる。
だがそれが、今は力なき赤子のように遠野に甘え、縋ってくる。
その様子を見て、遠野の脳裏には一つの精神疾患の名称が思い浮かんだ。
幼児退行。
過度のストレスや鬱、総合失調症などに陥った際、自身の心を守るために発生する人間の精神的防衛メカニズム。
まるで子供のように家族や友人に甘え始め、ひどい場合には人語を話すことすら出来なくなる精神の病。
恐らく、宮野はこれに陥っている。
それ故の遠野への甘え具合、それ故の分別のない行動なのだろう。
「仕方ないな……!」
――この場でどうこうできるものではない。
そう悟った遠野は宮野の足と背中に手を回して抱きかかえると、一息に宮野を持ち上げた。
「……ッう!」
女性であったとしても、成人した人間ならばその体重は五十キロを超える。
普段から体を鍛えているわけでもない遠野には、宮野を抱いたまま立っているだけでも十分に辛い重量だ。
だが、命の瀬戸際にいる遠野は力を振り絞って、カフェの外に通じる扉に向かって走る。
後ろから男の勝利の雄叫びが聞こえたが、追ってくる様子はなかった。
それに一安心するが、それでもいつまたあの男が自分たちを攻撃し始めるか分かったものではない。
宮野を抱えたまま遠野は外に飛び出した。
「……なんだ、これ」
宮野を抱えていることも忘れて、呆然と立ち尽くしながら、遠野はそう呟いた。
カフェから逃げ出した遠野を待っていたのは、阿鼻叫喚の地獄絵図。
道行く人々は皆がカフェにいた人々のように狂を発して暴れまわり、遠野が通勤のために毎日通るその道は、人々の悲鳴と絶叫が響き渡り、赤い血に汚れていた。
目の前に広がる見慣れていたはずの大通りの光景は、遠野の記憶にあるそれとは程遠い。
「エヘッ! エヘヘッ! ヱヘヘヘヘヘヘヘヘッ!」
狂気に満ちた笑みから狂った笑い声を響かせる男性が、トラックを運転している。
その先には、同じように笑ったり、恐怖に満ちた顔でトラックに物を投げたり、その場で泣き崩れたり、壮絶な笑顔を浮かべてトラックの正面に走っていく人達がいた。
次の瞬間、鮮血が雨のように辺りに飛び散る。
猛スピードで走るトラックは、まるでブルドーザーのように人の群れを押しのけ、潰していく。
ビチャビチャと、血が飛び散る音がする。
グシャグチャと、肉が潰れる音がする。
ゴキゴキと、骨が砕ける音がする。
それを見た人々は、悲鳴を上げて、あるいは怒声を上げて、あるいは歓喜の嬌声を上げて。
「アヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ!」
トラックを運転する男性の狂気が頂点に達した。
狂気に満ちた笑い声を上げながら、前を見ることもなく全力でアクセルを踏み、ハンドルを右に左に切る様子は、もう同じ人間とは思えない。
そして、そんな乱暴な運転をする車が事故を起こさないはずもなく。
勢いを出しすぎたトラックが、自分のクネクネとした蛇のような動きに付いていけず、横転。
辺りに居た人々をなぎ倒して潰しまわり、血の河をつくって近くの店に突っ込んだ。
それを見た人々が、また悲鳴を上げて、怒声を上げて、嬌声を上げて。
「ひっ……」
現実とは思えない地獄のような光景に、遠野は顔を恐怖に歪めて後ずさる。
だが、狂気に満ち満ちたこの地獄は終わらない。
むしろ、その勢いを増していく。
次の瞬間、遠野の頭上からガラスが割れる音がした。
反射的に音が聞こえた方向を振り向くと、カフェの隣にある高いビルの窓ガラスが割れていた。
そして、窓ガラスと一緒に何か重たい物も飛び出し、落ちてくる。
それが落下する光景を、遠野は茫然とした顔で眺めていた。
空中でクルクルと回りながら地面に向かって真っ逆さま。
そして、グチャリと肉が弾ける音と共に、赤い液体と血肉となって地面と同化する。
人間が落ちて、潰れた瞬間だ。
それを契機にしたかのように、同じビルの窓がランダムに次々と割れていき、同時に沢山の人々が飛び出した。
皆が皆、同じように空中で愉快にクルクルと回りながら、恍惚とした表情で地面に吸い込まれるように落ちていく。
だが、その全てが目論見通りに母なる大地に還る、なんてことにはならない。
彼ら彼女らが落ちている街には、人がいる。
同じように狂って、うずくまって震え、喚いて走り、嬉し気に跳ねる人々が。
上から落ちてくる生きた重石に、沢山の人が潰されて鮮血を飛び散らせる。
それだけでは終わらず、割れたガラス片が遅れて、雨のように人々の群れに降り注いだ。
鋭いガラスの刃は、頭に突き刺さり、眼に突き刺さり、体に突き刺さり。
即死する者もあれば、痛みに悶え苦しむ者がいる。
その光景を、遠野は何も考えずに見ていた。
いや、何も考えることができなかった。
だが、その放心という心の防衛システムも、遠野にかけられた幼い声によって砕かれてしまう。
「助けて……助けて……」
人々が落ちてくる地獄の中で、一人の少年が座り込み、涙を流して助けを求めていた。
それを見た遠野は、咄嗟にその少年を助けようと足を踏み出そうとするが、それは再び響いたガラスの音に止められる。
再び上を見ると、金属製の大きなデスクが、ガラスを突き破って落ちてきていた。
そして、その真下には――
「逃げろおおぉぉぉぉ!!!!!」
狂乱の街にも響き渡った遠野の叫び声も虚しく、重いデスクは凄まじい勢いで少年を潰した。
まるで叩き潰されたトマトのように、鮮血と血肉、砕かれた骨と内臓が土煙と共に飛び散って、遠野を汚す。
遅れて、机の下からは血が滲み出てきて、鮮やかな赤色の小さな池をつくった。
そして、地面に叩きつけられて壊れたデスクと地面の間に出来た小さな隙間からは、幸運なことに唯一形を残していられた少年の右腕が見えている。
「あ、ぁ。あ、ああぁぁぁ、あぁぁ……」
絶望と恐怖に満ちた表情で、遠野は声にならない声で嗚咽を零す。
そして、何か救いは無いのか、と狂気に満ちた街中を見回した。
だが、何もない。そんなものは存在しない。
この理不尽に満ちた世界に、そんなものは存在しないのだ。
「はるとくん? どおしたの?」
終いには宮野を抱きかかえたまま泣き崩れてしまった遠野に、幼児退行してしまった宮野が心配そうにそう声をかけた。
その声を聴いて、せめて自分の友人だけでも生き残らせなければ、と遠野は絶望に屈した自分を奮い立たせようとする。
だが、既に砕けて折れてしまった遠野の意思は、もう簡単には立ち上がってくれなかった。
人が死んでいくのが悲しくて。
何も出来ないことが悔しくて。
なによりも、自分を囲む狂人達があまりに怖くて。
この思いを、感情を、如何に表わしたものか。
いや、きっとこの悲しみは、この怒りは、この恐怖はどれだけ言葉を並べようとも説明できまい。
だから、遠野は叫んだ。
喉を震わせて、人々の死への慟哭、自身への憤怒、狂気への畏怖、その全てを言葉にならない咆哮に乗せて、遠野は叫んだ。
「うあああぁぁあぁぁぁああぁぁぁぁ!!!!!!」
だが、そんなことをしても無意味。
この荒れ狂う狂気の中では誰かが応えることなんてあるわけも――
「……突然叫ばないでください。鼓膜が破れるかと思いました」
「……ぇ?」
風鈴のように静かながらもよく通る綺麗なその声を、遠野の耳が狂気に満ちた混沌の中から拾い上げた。
そして、遠野はここ二週間で聞きなれたその声が聞こえた方向を、恐る恐る振り返る。
こんな地獄の中でもよく目立つ、朱色のツインテール。
シュッと引き締まった細い輪郭に、艶のある美麗な玉肌。
ルビーのように煌めく赤い瞳。
シンプルながら彼女によく似合う服装は、血に塗れてもなお彼女の美しさを損なわせることはない。
そこには、耳を塞いで顔を顰めた少女――樋之上円が立っていた。
【作者の独り言】
ここまでの御了読、ありがとうございました。
そして同時に、お疲れ様です。
正直に手を挙げてください。
この話を読んでリアルSAN値が減った人はどれだけいますか?
かくいう私も自分で書いておきながらその一人であるわけですが、今後は流石にこの話レベルの話はありません。
でも、似たような重苦しい狂気的な雰囲気は続いてきます。
要はシリアルクトゥルフになるわけですね。
今後もガンガン長文を投稿し続けていくわけですが、体力が限界になったり気分が悪くなった人などは、一話の中であっても度々休憩を入れてくださいね。
それくらい、一部の話は精神的にクルかと思います。
……まぁ、読むのをやめろとは言わないんですけど。
以上、作者からの余計なお節介でした。
それでは、私の作品が好きでいてくれるお方は、次回のお話も楽しんでいってください。
『追記』
「この話の狂気が凄かった!」「今後の展開が気になるゥー( ՞ਊ ՞)」って方は、是非ともブックマークや評価をして頂けると光栄です。
また、毎回言っていますが感想を頂けるともっと嬉しいです。
励みになります。
というか、もうくれたっていいんj……
(何者かに口を塞がれた音)




