Ep.11 - 少女は青年と出会う
――2014年、8月21日。
遠野は会社の先輩と課長と一緒に、藤広の料理店に来ていた。
「いやー、こうやって藤広さんだけが働いてる光景を見るのは久しぶりっすねー」
「あぁ、確かに。いつもはずっと円ちゃんが対応してくれるもんな」
遠野の呟きを、カウンター席の隣に座っている先輩社員が耳ざとく聞き取って反応する。
「というか、まだ来てから一週間半くらいしか経ってないのに、この店にめちゃくちゃ馴染んでるっすよね、円ちゃん。少し前まではいる方が違和感あったのに、今はいない方が違和感あるっす」
「そうなのかい? 私はこの店には一ヶ月に一、二回しか来ないから藤広さんだけの光景のほうが普通なんだが……」
遠野が思い出したかのように円関連で話を振ると、若干困った様子で恰幅のいい男、彼らの課長がそう答えた。
だが、そんな課長の言葉に先輩社員は、心配が混ざったような、どこか責めるような口調で課長の男に話しかけ始める。
「課長はもっと休むべきだと思いますよ。いつも働きすぎだからこういう時間が無くなるんです。ワーカーホリックですか」
「間違いないっすね」
「はは、よく言われるよ」
二人からの説教に慣れた様子で、まだまだ働けるぞ、と誇示するかのように笑ってガッツポーズを取る課長。
対する二人は困ったようにため息を吐いた。
「ほい、遠野君おまちどうのカレー」
「お、ありがとうございます藤広さん」
と、そんな三人の会話に自然な流れで入ってくる藤広。
そこで、思いついたように遠野が藤広にとある質問を投げかけた。
「そういや円ちゃんは今日どうしたんすか? 姿が見えませんけど」
「あぁ、円ね。食材の買い出しに行かせてんの。まぁでも、そろそろ帰ってくると思うよ」
藤広が遠野にそう返答したタイミングで、キッチン側の外に繋がる扉がコンコン、と叩かれる。
そんなところから入ってこようとする人物は、この店で働いている者くらいだ。
「噂をすれば」と呟いて、扉を開けに歩いていく藤広。
そして、微笑を浮かべながら鍵を開けてドアノブを回し――
ぐちゃり、という音がして赤い液体が飛び散った。
「……やってしまいました」
大きなエコバッグを抱えた円が下を向いて、だし巻き卵の調理を失敗した時のような、絶望しきった暗い声で呟く。
目線の先には何かに踏まれたのか、中央からグシャグシャになって潰され、赤い液体を辺り一帯にまき散らした小さなトマトジュースのパックがあった。
そして、円が右足に着ているローファーの靴底が、同様の赤い液体で濡れている。
円がこのパックを踏んでしまい、踏まれたパックが圧迫された中身のジュースの圧力に耐えきれずに破裂してしまったのは明らかだ。
藤広のお使いの帰り、なにかの弾みに買い物袋からこのパックが落ちてしまい、それに気づかなかった円はそれを思い切り踏んでしまったのである。
余程ショックだったのだろう。
珍しく不機嫌そうな表情を浮かべて「一口も飲んでないのに」と呟きながら、名残惜しそうにそのパックの残骸を拾い上げる。
そして、拾い上げたパックをじっと見て、円は――端末は思考する。
自分でも思う。変わったものだ、と。
つい一週間ほど前の地球に着陸したばかりの自分なら、こんな風にまだ飲めたりはしないか、などとどこか希望的観測めいた考えで、このパックを拾ったりはせずに、もう使い物にならないと捨てていたことだろう。
いや、そもそもこれを買った経緯自体がおかしい。
藤広から頼まれたのはただのお使いで、このトマトジュースは買い物リストに入っていなかった。
お釣りで好きなものを買っていいとは言われたが、そんなものは端末にはないはずである。
そう、ないはずだった。
だと言うのに、買い物中に見つけたこの商品に妙に惹かれてしまい、つい買い物カゴに入れてしまったのだ。
はぁ、と端末はため息を吐く。
この変化が、果たして自分にとって良いものなのか、悪いものなのか。
それは端末には分からないことだ。
でも、藤広はこの変化のことを気に入ってくれているようで、自分がどこかポカポカとしいて、まるで宙を浮いているような感覚が発生した時は、いつも暖かな笑みを浮かべている。
そして、端末は――いや円はその笑みを見ると、それまで感じていたのとはまた違う、どこか暖かで癒やされるような感覚を覚え、勝手に表情筋が動いてしまいそうになるのだ。
これも全て、藤広の言う感情というものなのだろうが、今の円は困惑こそすれど、それに対して恐怖を覚えることはない。
上の二つは、どこか気持ちのいいものだ。
ずっと感じていたいと、そう思えるものだ。
それ以外にも、今まで感じた大半の感情というものは、自分を心地よくしてくれたから。
そんなことを考えながら、円はパックの中のトマトジュースの生存の可能性が限りなく低いことを確認すると、先程とは違う種類のため息を吐いて、再び帰り道を歩こうとする。
「――大丈夫かい? お嬢さん」
「?」
が、円が足を踏み出そうとしたその瞬間、後ろから何者かから声をかけられ、その一歩は止められてしまった。
円が振り返ると、そこには高身長の青年が立っていた。
女と見間違えるほどになめらかで艶がありながら、同時に男らしいハリも持ち合わせた、長すぎでも短すぎでもない丁度よい長さの白銀の髪。
繊細なラインでかつ深みのある輪郭と、氷柱のように鋭い黄金色の目。
それらによってつくられた、まるで外国人のような凛々しく精悍な顔つき。
細くも引き締まった肉体の肌は日焼けによるものなのか、健康的な茶色に染まっている。
また、寒色で統一された服装と、若さを感じさせるネックレスやイアリングなどの様々なアクセサリーが、この青年の素の素材の味をさらに引き出していた。
シンプルな服装で、自身の持つ絶妙でバランスの良い魅力を最大限まで強調している円とは逆に、ゴテゴテに着飾ることによって、自身の持ちうる全ての魅力を最大限まで強調している青年。
だが、正反対のタイプながらも、やはり美少女と美青年が揃って並んだ光景。
周囲の老若男女関わらずあらゆる人が思わず歩みを止めて、息を忘れたかのように静かに魅入ってしまう程度には、その光景は絵になっていた。
「なにかご用でしょうか」
ここら一体を包んだどこか神秘的な静寂を、円が破る。
鈴のような透き通る清廉な声に、周りの人々がようやく自分たちが止まってしまっていたのを認識するのと裏腹に、青年はただただ微笑を顔に浮かべている。
「君が困っているように見えてね。なにか助けになれないか、と話しかけてみたんだが……その必要はありそうかな?」
「……ありません。私は買ったばかりのジュースのパックを自身で踏み潰してしまっただけです。既にこれがただのゴミと化したのも確認済みですので、あなたができることはないかと」
青年の優し気な言葉と口調からは、誰もがこの青年が思いやりのある人だと感じることだろう。
実際、円の青年に対する第一印象はそうだった。
だが、円は言いようのない違和感を覚え、いつもに比べて随分と棘のある口調になってしまう。
「あぁ、なるほど。そういう事なら僕は間違いなく君の力になれる。少しの間、件のジュースパックを貸してくれないかい?」
「……」
そんな円の言葉の棘に気づいていないのか、それとも気づいた上でそうしているのか。青年は一切気を悪くしたりせずに、変わらず微笑を浮かべたまま右手を円に差し出す。
心のなかでは青年を警戒しながらも、これくらいなら大丈夫か、と考えた円は、一旦潰され歪んでしまった小さなパックを青年に預けることにした。
パックを受け取った青年は自身の目の前までパックを持っていくと、観察するようにパックを回して色々な方向から見るのをしばらく繰り返していた。
が、ふとした瞬間にそれをやめ、両手でパックを弄り始める。
そして数秒経つと両手を動かすのを止めて、円にパックを返した。
「――えっ」
「どうだい? 完璧だろう?」
円が思わず驚いたような声を上げ、それにどことなく自慢げな様子で青年がそう言う。
青年から返されたトマトジュースのパックは、完全に元通りの綺麗な直方体に戻っていた。
さらに、潰された際にできるはずの折り目や、破裂した際に空いてしまった穴までもが完全に無くなっており、まるでこのパックだけ時間が戻ってしまったかのようだ。
また、軽く振ってみると、ぴしゃぴしゃと軽い水音がしており、外に弾け飛んでしまった中身のジュースまでもが戻っていることが分かる。
「一体どうやって……」
「なに、ちょっとしたコツとやり方さえ分かっていれば、誰でもできるテクニックさ。特段驚くことでもない」
驚きで思わず漏れてしまった円の疑問に、青年が相変わらずの微笑を浮かべたまま答える。
そして一泊、青年の雰囲気と笑みのタイプが変わった。
今までとは一風違う、まるで悪巧みをする高校生かのような、どこか楽しげで不敵な笑みを浮かべる。
「君は運がいいね。そのパックは破裂したというのに、幾分かまだ中身が残っている。ここで出会ったのもなにかの縁だ。占いでもして君の運勢を試してみないかい?」
「占い、ですか?」
「あぁ、占いだ。それも僕オリジナルのやり方で。結構当たるからやって損はないと思うよ?」
青年にそう言われ、円は片手を顎に当ててどうするか悩み始める。
忘れてしまいそうだが、円は今はお使いの途中だ。
早く帰らなければ藤広を困らせてしまうだろう。
だが、この青年の言う占いに興味があるのも事実。
これがそこら辺にいる普通の占い師であったらガン無視を決めているところだが、この青年には今パックを完全に元通りにする、という神業としか思えない技術を見せられたばかりだ。
案外、占いが当たるというのも本当かもしれない。
熟考の結果、円が下した判決は――
「興味は、あります」
「それは『したい』という意味合いでいいかな?」
円が首を縦に降るのを見届けると、青年は黙って服の中からトランプの塊を取り出す。
そして、恐ろしい速度で手を動かしながらランダムにトランプを数枚ずつ取って上に置くを繰り返し、シャッフルしていく。
速すぎるあまり、手をどのように動いているのか視認することすら難しい。
数秒して手の動きを止めると、次に青年はトランプを均等に二つに分けた。
そのまま流れるような動作でそれぞれのトランプカードを人差し指と中指を使って反らせ、親指でバラバラと交互に一枚ずつ弾いて重ねていき、違う方法で再度トランプをシャッフル。
この二つの動きを、ほとんど十秒に満たないほどの短時間で済ませてしまった技術の高さ。
素人目でもこれができるのは世界中から集めても片手で数えられる人数しか居ない、というのが思ってしまう。
シャッフルが終わったトランプの塊を一旦左手に預け、次に青年は右手で拳を作り親指が空を向くように軽く手首を回す。
そして、その親指の第一関節を曲げて、一本の指で小さな山を作り上げていた。
青年が親指の頂点にトランプの塊を置いた。
この動きさえも非常になめらかで、一歩間違えれば全てのトランプが落ちてしまうというのに、青年は全く危なげなく簡単にトランプを安定させてしまう。
次に、青年は空いた左手を右手に近づけ、小指を使って上から順にトランプを弾き始める。
弾かれたトランプは勢いのままに飛んでいったりはせず、その場に留まり他のトランプを土台にクルクルと回転を始めた。
それを十回ほど繰り返したときには、青年の親指の上で全てのトランプがそれぞれ、竜巻のように違う速度で同じ方向に回っている。
ふぅ、と息を吐き、青年はその鋭い目つきを円に向ける。
「さて、準備はいいかな?」
「っ!」
あまりにも鮮やかなその手腕に、周りと同じように思わず見入ってしまっていた円は、急に話しかけられて驚いてしまい、ビクッと体を震わせる。
が、すぐにいつもの無表情に戻り、縦に首を振って頷くことで青年の質問に肯定の意を返した。
それに対して青年は何も言わず、この状況を楽しむかのような不敵笑みを浮かべて、曲げられて山を作っていた親指で、回転するトランプを強く弾いた。
パンッ、という破裂音に似た音が辺りに木霊する。
青年の親指によって打ち上げられたトランプは一瞬、上空で回転したまま浮遊すると、次の瞬間には上にあるトランプから順番に、風に吹かれるようにして飛んでいく。
だが、遥か彼方に飛んでいくことはなく、どういうわけか全てのトランプカードが青年と円を囲むようにして球体を作るように飛び回りながら、ゆっくりと地面に降下していた。
不思議なことに飛び回っているどのトランプも二人から見れば背面になっており、それらが持つ数字とマークを悟らせないように動いている。
数秒経って全てのトランプが落ちてもそれは同じで、そのどれもが全て背面を上に向けていた。
青年が一枚、地面からトランプを選び取ると、円に顔を向ける。
そしてパチリ、とウインク。
「さぁ、君も一枚を選んでくれ」




