Ep.10 - 不穏
円がだし巻き卵で失敗したその日の夜。
約束通り藤広は円にだし巻き卵の作り方を教えていた。
ただ、朝の藤広の指摘で自分の治すべきところの大半は覚えてしまったらしく、藤広自身から口を挟むことは少なかった。
精々、円が藤広に助けを求めてきたときか、藤広が卵の巻き方や調理器具の使い方でちょっとしたアドバイスをしたくらいである。
「料理を作り終わっても油断したりしないでよ? 皿に移す過程で落として台無しにしたりしたら、目も当てられないから」
「大丈夫、理解しています――それっ」
菜箸でフライパンの中にあるだし巻き卵を掴み、皿に移す。
口にするだけなら容易だが、実際にやるとなると結構神経を削る作業だ。
こと調理経験皆無で、その上一度だし巻き卵の調理に失敗したことのある円に取ってはなおさら。
円は終始緊張している様子だったが、それは同時に極度の集中状態であることを意味する。
宇宙から飛来した高性能な端末である円が集中すれば、もう敵なしだ。
結果、円は特に大きな失敗も起こさずだし巻き卵を皿に移すことに成功した。
その様子をおそるおそる見ていた藤広も、円が成功した瞬間には安心してつい、息を吐いてしまった。
そして成功した張本人はというと。
「やった――!」
いつも通りの静かで清廉な声ながらも、嬉しそうにそう口走ると、円は小さくぴょん、と跳ねた。
そして、次の瞬間自分の取った謎の行動について考え始める。
「今なぜ私は跳ねたのでしょう……?」
「それだけ嬉しかったんでしょ。飛び跳ねたくなるほど嬉しいってやつ。それよりもいいの? このままだとせっかく作った料理が冷めると思うけど」
藤広の指摘に「そうでした」と呟いて、円はだし巻き卵が載った皿を両手で持って小走りで食卓へ向かっていく。
ツインテールを揺らして駆けていくその背中は、どこか一週間前の円を思い出させるものがある。
だが、あの時から一週間しか経ってないのに円は大きく変わったものだ、と朝にも思ったことを藤広はまた思う。
事実、先程彼女は嬉しさで跳ねてみせた。
こんな行動、一週間前の円しか知らないものが聞けば、眉唾物だと思ってしまうだろう。
内心そんなことを思いながら、藤広が歩いて円を追いかけると、そこには既に着席をして食事の準備をしている円がいた。
「遅いです、早く食べましょう」
「まぁ、そう急かさないでよ。さっき冷えるとは言ったけど、そう簡単に料理は冷めないから」
苦笑いを浮かべながら藤広は円を正面から見ることのできるいつもの席に座り、円の顔に目を向けた。
そこにあったのは、笑顔。
円と初対面の者ならば無表情と勘違いしてしまいそうだが、円は確かに笑っていた。
眉がいつもよりほんの少しだけ垂れていて、口角だってこれまたほんの少し上がっている。
円自身はきっと、自分が笑っているということを理解しておらず、無意識の反応なのだろう。指摘をすれば、前のように感情に対して恐怖してしまうかもしれない。
だがそれでも本当に、この一週間でよく変わったものだ。
◇◆◇◆◇◆◇
――同日、23時14分。
虫の声さえも聞こえない、ひどく静かな夜にて。
赤萩町の一角、最近できたばかりの建物。
二階建ての白を基調とした建造物で、またそれが占める面積も中々に広い。
ただ、少し前に建てられたばかりのこの建物には人が入っていくことはあっても、四六時中全ての窓のカーテンが閉まっている上に、看板などのこの建物の名称を示すものがなにも無いため、近隣の住民もこの建物がなんのためのものなのか、分かっていなかった。
そしてこの用途不明の謎の建築物の前に、一台の黒い車が停まった。
リムジンのような、ひと目見ただけで分かる高級車ではない。
だが、そのどこか一線を画すその風貌と、物静かな雰囲気は、まるでどこかの金持ちがお忍びで遊びに行っているような、普通のそれとは一味違う雰囲気がにじみ出ていた。
その車の後部座席から、一人の男性が降りる。
その男性はところどころに緑色で装飾がなされた黒色のフード付きローブを着込んでおり、フードの中に見える素顔も白い仮面で隠されている。
仮面を付けていても男性だと分かるのは、そのがっしりとした体格ゆえだ。
また、右腕は外気に晒されているといのに、左腕は革製の黒く長い手袋で隠されており、男性のまるで異世界から迷い込んできたような、不思議な雰囲気を底上げしていた。
そして、男性が車から降りたのを契機に、用途不明の建物の中の扉が開き、中から男性と同様のローブを着込んだ三人の男女が出てくる。
ただ、車から出てきた男性と違う点が複数あり、その三人のローブの装飾は男性のそれよりも幾分か控えめで、また、フードこそ被っているものの、仮面や手袋で肌を隠しているなんてことはしていなかった。
また、男性が降りてきた後部座席から一人の女性が降りてくる。
その女性も同様に彼らと同じローブを着こなしているが、フードは被っておらずその顔を晒していた。
若い頃はそれはもう美しかったのだろう。
今となっては皺が刻まれ、くしゃくしゃになったその顔であっても、未だどこか人を魅了させる美貌を放っている。
そして、建物から出てきた三人の内、先頭に立っていた男がまるで耳打ちするように静かな声で「こちらへ」と言うと、車から出てきたばかりの二人を先導して白い建物の中へ入っていった。
その現代の技術と、ローブという古い時代の服装が混ざったそれは、ひどくミスマッチであり異様な雰囲気を醸し出している。
だが、夜遅くの黒色に塗れたそれは、近隣の住民に何かが蠢いているということを理解させても、決してその様子を視覚させることはなかった。
靴底と石造りの磨かれた床がぶつかり合う音だけが、廊下に響く。
車から出てきた男性と老女、元から建物内に居た三人の、計五人。
一番最初に男性と老女に話しかけた男が先導し、その二人を守るようにして後ろに残りの黒いローブを着た二人が歩いていた。
そこに居る誰もがただ歩くという事だけしかせず、口を動かして何かを喋ることもなく、ただただ不気味なほどに静かである。
だが、一つの金属製の扉の前で先導していた男は止まり、後ろを向いてようやく、静かな廊下に人声を響かせた。
「教祖様は私と共にこちらへ。奥方様はこの先の礼拝堂へに御行きになられてください。あとの二人が御案内いたします」
男がそう言うと、教祖と呼ばれた顔を仮面で隠している男性とその男は扉の中へ、残った老女と二人は扉を無視して白い廊下を更に進んでいった。
教祖と呼ばれた男性が部屋の中に入ると、その後に続いて部屋に入ってきた男が静かに扉を閉める。
その部屋は豪勢でありながら、同時に奇怪な部屋だった。
そこにあるソファやタンスなどの家具、部屋を明るく照らすシャンデリアは見るからに高級品で、その一つ一つが莫大な金額を要する品であると一目でわかる。
だが、所々に配置された偶像――人間に似た体を持っているものの、背中には龍のような翼が生えており、同時にまるでタコのような頭を持っている奇怪な一品――や、壁に飾られている大きな絵画――ひどく陰湿で、見る者の精神を狂わせそうな筆舌にし難い一品――は、どれも不気味かつ冒涜的なものであり、この神を尊ぶべき宗教団体の教祖の部屋と思われる一室にはひどく似つかわないものだった。
だが、当の教祖にとっては全く違う印象だったらしい。
仮面を付けた男性は「よく用意したものだ」と感心したように呟き、どっしりと黒いソファに座った。
男性の目の前にはローブを纏った男がいる。
「顔を見るのは久々だな。息災だったか?」
「えぇ、私は気分爽快、無病息災でありますとも。いえ、前半部分は取り消しましょうか。聖遺物の発見にここまでの時間をかけてしまったことを思うと、息が詰まる思いです」
「気にするな。そも、かの聖遺物の喪失の原因はアレを制御できなかった私と妻にある。むしろ、ここまでの時間をかけてでも聖遺物を見つけたお前達には、感謝しかない」
「ありがたき御言葉」
教祖と呼ばれた男性の言葉に、感激して深く頭を下げる男。
そして、その後も二人はまるで王と騎士のような主従関係がありながらも、親し気に会話を続けていた。
が、そんな二人の会話も、二人が入ってきた扉とは別の木製の扉が外から叩かれ、室内に静かに響いたコンコン、という音によって終わりを告げる。
「どうやら準備は終わったようだ」
「えぇ、御推察の通りでございます。さて、司教様。ご自身の最終確認を」
「問題ない。ここまで来る間に何度も行った」
「――その仮面と手袋は?」
男のその言葉に、男性は「あぁ、これか」と呟く。
そして、クツクツとくぐもった小さな笑い声をあげて、男を振り返った。
「これは礼拝堂に入ってから外す。私からのちょっとしたサプライズだ。その時には皆の度肝を抜かしてやろう。勿論、お前もな」
「おや……それはそれは。楽しみにしております」
そんな会話をしながら二人は、木製の扉を開け、その内へ入っていくのだった。
謎多き白い建物の一室に、大量の人間が集まっていた。
両開きの大きく豪勢な木製の扉と、その扉の反対側の隅にある小さな扉だけが入り口のその部屋は、建物の外見からは想像もつかない、まるで腐った藻のようなジメジメとした、見ているだけで吐きそうになる深い緑色を基調とした壁と、人が作ったとは思えないひどく歪んでいながらも、しっかりと天井を支えている気色の悪い柱で構成されていた。
壁には一切窓が無く、部屋を照らすのは柱と壁に等間隔に差された松明のみ。
どういうわけかこの松明からは青と緑色が混じったような不快な色をした炎が上がっており、この部屋の不気味さをさらに助長していた。
そして、部屋の四隅からは魚の死臭がする、ムカムカする腐色の水が流れ出ていて、それが床に刻まれた妙な図形を形取る水路を通って、部屋全体に行き渡っていた。
また、部屋の構造自体は細長いもので、扉と正反対の位置にはなにか神を祀っているような祭壇があり、まるで礼拝堂のようでもあった。
礼拝堂と違うのは祈りのための長椅子がないことで、今はその代わりに大量の黒いローブを着た大量の人間が全員が祭壇のある一点に向かって跪きながら、手と手を組んで彼ら彼女らの神に祈りを捧げていた。
だが、隅にある扉が開いたその瞬間、全員が一度に開いたばかりのその扉の方向を向く。
一人の黒いローブを着た男が出てきて、正面に向かって叫ぶ。
「教祖様の御入場である!」
一拍。
全員が立ち上がり、何の合図もなく同時に喝采の拍手を始めた。
部屋中の人間がするそれは、狭い部屋の中で異常なほど響き、鼓膜を破りそうなほどの爆音へと成り代わる。
だが、そこにいる誰もが耳を塞ぐこともなく、狂ったように拍手をし続けた。
そして、ここにいる人間の中でも最も豪華な装飾が為されたローブを着た、顔と左手を隠した男が扉の向こうから出てきた。
誰かがもう耐えられない、と言わんばかりに何かを讃える様にして、吼えるような声量で意味の分からない言葉を発する。
そして、他の誰かもそれに釣られて同じように、同じ言葉を吼え始める。
その流れは次第に隣へ隣へ、とまるで波のように広がっていき、最終的にはそこに居る全員が同じ言葉を発していた。
その言葉が何を意味するのか、そしてどこの国の言語なのか。
誰が聞いてもそれを理解することは出来ないだろう。
人がそれを発声するには、その言葉はあまりにも低音で、異質で、複雑であり、もはや人の言葉とは思えなかった。
だが、無理矢理人間でも発音するようにしたとするならば、こういったところだろうか。
それを言葉として喉を鳴らして発したいなら、舌の先をぴったり口蓋に押しつけて、不完全なそれぞれの音節、単語を唸るように、吼えるように、咳きこむように。
「Ph'nglui mglw'nafh Cthulhu R'lyeh wgah'nagl fhtagn! Ia! Ia! Cthulhu fhtagn!」
ただ、建物の内でその言葉が響き続ける。
何度も何度も繰り返して。
そして次第に、声量を増して行って。
だが、その異常なほどに喧々囂々としたその声を、耳にした者は近隣の住民を含めて赤萩町には誰もいなかった。
円は知らない。
これが、円を巻き込んだひどく異質な事件の、狂騒ながら静寂な始まりとなることを。
これが、円の芽生えたばかりの感情を痛み付け、ただただ苦痛に歪ませる事件の始まりとなることを。
彼女の胸の内に、永久的で致命的な傷を残す事件の始まりを。




