Ep.0 - 前日譚
このお話はストーリーが始まる前の部分を軽く抜き出した物となります。また、このお話し中に出てくる要素はメインストーリー中に解説及び描写されるのでこの部分を読む必要はありません。
さらに、一定以上のクトゥルフ知識があることを前提とした上で書いたため、そういった知識のない方は速攻で次のお話に移ることをお勧めいたします。
それでも問題ないよ、という方のみお読みください。
全知全能にして盲目白痴たる魔王、アザトース。それを中心として広がり続ける広大なる宇宙、その一角に存在する一点の惑星――フォーマルハウト。
地球から約25光年離れているとされるこの恒星ににただ一つ、この世に二つとも存在しえぬ強大なるモノが存在していた。
その名をクトゥグア。生ける炎とも称される旧支配者の一柱。
まるで太陽のような、激しく辺りを照らし続ける灼熱の炎に包まれた球体のそれは、今日も今日とて変わらずフォーマルハウトという辺境の惑星に幽閉されており、ただただ眠りにつくだけである。
だが一瞬、突然クトゥグアの太陽のような体から小さな炎の塊が飛び出した。
その小さな小さな、元のクトゥグアの体と比べれば小さすぎるそれは、最初は亀のような鈍さで宙を進んで行き、だが次第にその速度を上げていく。
牛歩の速度だったそれは空を飛ぶ鳥のような速度に、その次に弾丸のような速度に、そして最終的には流れ星のような速度に。
故郷たるフォーマルハウトから離れ、宇宙空間に飛び出してもなお、炎の塊は進む勢いを弱めることはない。そればかりか、さらに速くなっているようにも見える。
その塊が向かう方向にはとある、我々にとって身近な、一つの惑星があった。
海の青色、大地の黄色、植物の緑色、巨氷の白色、そして文化の象徴たる都市の光色、すなわち地球。
このまま進めば地球までどれほどの時間がかかるだろうか。最低でも数千年以上、いやこのまま永久に速度が上昇し続けるのならば、もっと少ない時間で辿り着けるのかもしれない。
炎の塊は進み続ける。
一直線、ただ一直線。たった一つの星に向かって――
◇◆◇◆◇◆◇
夜の帳が落ち、闇に包まれた静かな夜。
微小とはいえいつもなら夜の暗闇を照らしてくれる月も今は新月の時季、既に太陽を追って地平線の向こうへ沈んだ後である。
残念ながら頼れる明かりは道端の所々に設置された電灯くらいしかない。
そんな暗い町中を一人の男が物がパンパンに詰まった大きなエコバックを肩にかけ、黙々と歩いていた。
ツンツンと尖った黒髪に、眠気のせいで少し瞼が下がっているが、力強さを感じる目元。
大きめのパーカーとぶかぶかのズボンという着太りしやすい格好でも、ガタイの良さが分かる大きな体。
スーパーマーケットで様々な食材を買った後の帰り道、という他の何でもない日常のワンシーン。
いつもと変わらない道を歩きながら、男はふと天を見上げた。
自分の住む町の様子はなんら変わりはしないが、それと同じように天上で輝く星々の様子もまたいつもと変わらないように見える。
だが素人目にはほとんど変わらないように見えても、天文学などを専門とするような人物が同じ空を見れば全く違うものに見えるのだろうか、などとぼんやりと考えながら男は歩きなれたアスファルトの道を進んでいく。
が、空を見上げながら歩いていた男は、何を思ったのか急に歩みを止めた。
今までポケットに突っ込まれていただけだった左手を目の上まで動かし、眺めているだけだった夜空の一点に目を凝らす。
その視線の先には一つの赤く光る星があった。大小様々、沢山の色を放つ星々が漂う夜空の中でも一際強い光を放つ明るい恒星。
宝石の様にまばゆく輝くそれが、どうにも男には不思議に見えた。周りに散らばる綺羅星とはどこか違うように思えたのだ。
歩みを止めその星を見始めてから数十秒、男は自分が抱いた感覚が正しかったことを知る。
星の輝きは、放つ光は強まっていた。
男のようにずっとその星ばかりを見ていなければ気づかないほどの微小な違い。
だがしかし、光の強さは刻一刻と強まっていく。
光の強さだけではない。さらに目を凝らして見てみれば、どうにも星そのものの大きさまでもが徐々に大きくなっているように見える。
この時初めて男は焦燥感を覚えた。
こんな短時間で一つの星の様子が変わるなんてそうそうある事ではない。
確実に一世紀に一度あるかどうかの稀な現象。言い換えれば非常事態。
自然によって起こされる厄災の予兆の類なのではないか。
だが、そう思いはしても男は星から目を背けて逃げ出したりせず、それどころかもっと目を凝らして星を見た。
男の中でこの場に居ることで生じるかもしれない危険に対する焦りよりも、今見ている星に対する興味が勝ったのだ。
星は今も夜空でその輝きと大きさを今も強く、大きく変え続けている。
そして次の瞬間、男はまたもや自分が抱いた感覚が正しかったことを知る。
その星は、炎に包まれていた。
そして、地球に向かって近づいていた。落ちてきていた。
星に落ちる小惑星、すなわち隕石。宇宙から稀に落ちてくる自然の爆弾。
巨大なものであれば、簡単に地球上の生物の大半を絶滅できる程のエネルギーを持つ自然災害の一つ。
大半の隕石は大気圏に突っ込んだ瞬間に高熱に包まれ、空中で無害なまま燃え尽きる。
そういったものは基本的に空の上でただの光の線に変わるだけ。俗にいう流れ星になるだけである。
しかし、今も男の前で燃え続けているその星は違う。光の線にはならず、ただただ赤く輝き続け、消える気配はない。
放っておけば高確率で地表にぶつかり、その周辺に甚大な被害をもたらすことだろう。
そして、その星が線を描かずにただ空の一点で輝き続けているという事実は、それと同時にもう一つの真実を男に示していた。
それは、あの赤い星がほとんど垂直に落下してきているという事。
すなわち、落下地点がここら一帯のどこかである、という事。
だが、男は動かない。その真実を知った瞬間に悲鳴を上げ、無様に逃げ出すようなことはしない。
ただ一点、その星をじっと見つめながら立ち尽くすばかり。
なぜ逃げないのか。
――今から逃げても仕方がない。きっとあの隕石は数秒後には落ちてくる。
恐怖はないのか。
――ある。だがそれ以上にあの落ちてくる星を見ていたい。
何故、それほど見ていたいのか。
――ただただ純粋に、美しいと思ったから。ずっと見ていたいと、そう思ったから。
その瞬間、星の位置が少し動いた。
そして徐々に赤い線を後に残しながら、男の真上から落下地点をずらしていく。
男はそれを見て、自分の住む町には落ちてこないと一安心。それと同時になぜか少しの不満感を覚えた。
はて、自分は破滅願望など抱いていないはずなのだが、と余裕を得た男はそう疑問に思った。
そんなことを考える男のことなどいざ知らず、今も赤い炎の光を放ちながら星は落下地点に向かって、少しずつ夜空の中で位置をずらし続ける。
星はただの星から、赤い流星へと化した。
その体を赤く光らせながら落下地点を目指す。
炎に吞まれながらも、空気の層を通り抜けて目的地に向かって突き進む。
そして、赤い流星はさらに地表へと近づき、その姿を遂に隕石へと変えた。
炎に包まれ赤熱化して赤く光る体を晒し、空に大量の赤黒い煙を残しながら一点に向かって進み続ける。
男はただ見ているだけだった。
まるで石にされてしまったかのように一切体を動かさず、その隕石の様子を見ているだけだった。
次の瞬間、隕石は男のいる町から少し離れた山の中腹へと落下した。
耳をつんざくような爆発音が男の鼓膜を激しく叩く。
轟、という音と共に、気を抜けば吹き飛ばされてしまいそうな暴風が男の体を殴りつける。
そして、次の瞬間には風によって巻き上げられた土と砂が小規模な砂嵐となって男を襲う。
たまらず男は目を閉じ両腕で覆うようにして顔を守った。
しばらくして風が止み、それと同時に砂嵐が無くなると男は両腕はそのままに、恐る恐る目を開けた。
その目に映るのは多少の砂ぼこりが舞っている以外、いつもとほとんど変わらない町の光景。
――ただ一点を除いて。
山だ。
隕石が落ちた山の中腹。そこだけが遠目にもはっきり見えるほどの広範囲が炎に包まれていた。
爆発の中心点と思わしき箇所からは黒い煙が黙々と吹き上がり、ごうごうと燃える炎の勢いは留まることを知らず、今もなお炎による赤色の面積を増やしている。
それだけでも先程の隕石による爆発の威力が如何に凄まじかったかが理解できよう。
「うおぉ……やべぇなありゃ」
その光景を見て、おもわず男は感嘆と畏怖が入り混じったような声を口から漏らす。
そして落下地点がこの町ではなかったことに心から天に感謝し、そそくさと、まるで天敵を見つけてしまった小動物のように小走りで家に向かって足を進めるのであった。
◇◆◇◆◇◆◇
ごうごうと燃える炎に包まれた山林。
本来ならそこに生息していたであろう、大小様々な動物たちは草植物もろとも焼き払われてしまった。
ものの一瞬で地獄と化してしまった山林の中央には、一つの炎があった。
他のただ燃やし、範囲を広げ続けるだけの炎とは違う。まるで生きているかのように揺らめき、形を変えて人魂のように浮いている、人間大の炎。
しばらくの間ただ風に揺らされるようにして左右上下を行き来していたそれは、しかしある瞬間にピタリと静止する。
そしてそれは自身の体ともいえる炎の形をふにゃふにゃと変形させ、人魂のようなそれからまるで人間のような二足の足と二本の腕、そして胴体と頭を持つ形へと変わっていく。
だが、それでも炎で形成されたその容姿は怪物そのもの。
見る人がいればUMAや妖怪でも見た、と叫びながら逃げているところだろう。
もしいたとしても、残念ながらこの山林を包むこの炎の中ではそんなことをしている余裕はないだろうが。
そして、人の形をとった炎は空中に浮くのをやめて歩き始める。
そのゆっくりとした不安定な歩みからはとても目的地があるようには思えない。
だがそれと同時に横を見る素振りさえ見せず、一方向に向かって進んで行くその様子からは、なにか、確固たる目的があるようにしか見えなかった。
そうして人型の炎はゆったりとした不安定な動きで、しかし一点を見つめて進み続ける。
一点。ただ一点。最も近い、人の気配が多い街に向かって――