一度だけの犯罪
「だから、私は璃子お嬢様じゃないんです。山本紗英です」
「いや、だってぇ。あの豪邸から出てきたじゃない。顔だって一緒だし」
誘拐犯は、目出し帽の下から途方に暮れた声を出した。
「だから、私はお嬢様のお付きをしてるんですから、あの家から出てくるのは当然なんですよ」
倉庫と思われるだだっ広い場所で、私は後ろ手に縛られていた。
「素顔を調べてない貴方の落ち度ですよね? ほら、ネットでもう一度検索してくださいよ。顔くらいすぐ出ますから」
「む……本当だ……似てるけど違う」
「私、あんな嫌らしいテカテカした顔してません。似てるのは髪型だけでしょ!?」
「若い子の見分けなんてつかないよぉ。困ったなぁ……」
誘拐犯は、本当に困っている様子で、呆然としている。
「これで息子の移植手術の金が手に入ると、俺はそう思って……」
「……息子さんが?」
「そうなんだ。高校生なんだけどね、心臓が……。このままじゃもう長くは保たないって先生が言うんだよ。……俺は、俺を父親にしてくれたあいつを、どんなことをしても守るって誓ったんだ。あいつのいない人生なんて、もう考えられないっ」
犯人は目を真っ赤にして、グスンと鼻を啜った。
「ねぇ、お付きの人なんだから、君だって結構良家のお嬢様なんじゃないの?」
「そう思いますよね? でも残念ながら全然そうじゃないんですよねぇ」
私は溜息をついた。
「ご存知の通り、お嬢様の家は霊験あらたかな神社の社家として有名なんですよね。私の家もその社家には違いないんですけど、ほんの末席なんですよ。おまけに、遊び人だった祖父の代で財産は喰い潰されて、両親も早くに他界しました。いわゆる天涯孤独ってやつです。昼間は奨学金をもらって大学に通って、夜はフーゾクで働いてるくらいですし」
「……ッすまない! 君がそんなに苦労してる子だったなんて!」
「いいんです。昔から運は最悪ですから、本当」
沈黙が流れた。
「とりあえず、君を家に帰したい。申し訳ないけど、誘拐したこと、無かったことにしてくれないか?」
「は? 何言ってるんですか?」
「へ?」
「私たち、利害が一致してるでしょう! 二人とも金に困っていて、私はお嬢様の付き人。香取家に堂々と入ることだってできるんですよ?」
「協力してくれるってこと……?」
「当たり前でしょう! 一晩のパーティに、一千万を超えるお金を使ってしまうような金持ちですよ!? ああいう連中から金を巻き上げるべきです! 大体あの女、私のこと貧乏人、貧乏人ってからかって……金の力を、全部自分の実力だと勘違いしてんのよ! あーッイライラする!!」
「お、おぉ、けっこう恨みが募ってる感じ?」
「とにかく! 私が手引するからあの女を誘拐してください! それで、身代金巻き上げてやりましょう!!」
「分かった。でも本当に協力するか? 裏切らないって証拠が欲しい」
「何言ってんのよ! あんた元々一人でやるつもりだったんだから、責任は一人で取る準備あるでしょうが! それにね、こっちは誘拐されてんのよ!? 私が『暴行された』とでも訴えたら、あんたの罪は倍増なんだからね? 息子が聞いたらどう思うか分かってんの!?」
「そっそれだけは!」
「分かったらさっさとこの縄解きなさいよ! あんたみたいなドジっ子が一人で誘拐なんかできるわけないんだから!」
「そんなこと……」
「実際失敗してんてしょうが!」
「ヒイィィィすみません」
私は自由になった両手で、おっさんの目だし帽を髪の毛ごと引っこ抜いた。
「痛い痛い!!」
「このくらいは我慢しなさいよ! よし、今から作戦会議よ!」
「は、はいぃ! 紗英さん!」
何だかんだあり、私たちは璃子を誘拐し、身代金を手に入れた。警察に通報される猶予を与えない、スピード重視の作戦が功を奏した。私が内部からその手引きをしたことは言うまでもない。ちなみに作戦は全て私が立てた。おっさんは、私の言う通りに動いただけだ。
「紗英さん、これで息子の命は助かります。どうやってお礼をしたらいいのか」
「いいのよ。私もこれで奨学金が返せるわけだし、夜のバイトだってもうしなくていいんだから。それにあの女には散々バカにされていじめられてきたのよ。慰謝料を頂いたも同然でしょ。あの家だって、しばらくパーティする金がないってくらいのものよ。娘も無事帰したんだし、大した被害じゃないわ。それより早く行きなさいよ。足がつく前に息子さんの手術は終わらせたほうがいいわ」
「ありがとう……もう会えないかもしれないけれど、御恩は一生忘れません」
おっさんは、深々と頭を下げると、涙を一杯溜めた目でこちらを見つめてから、その場を後にした。
半年後、四月。私は真新しいスーツに身を包んで、朝の街に足を踏み出した。このスーツも、誘拐事件で手に入れたお金で買った。お金は、無駄遣いせず大事に使っている。朝の住宅街を駅に向かって歩いていると、街路樹の桜の下に、三人の人影が並んでいるのが見えた。そちらから視線を感じて目をやって、私はハッとした。一人はあの時のおっさんだった。隣には妻と思われる優しそうな女性と、線の細い、色白な青年が立っていた。三人は、私の視線を捕らえると、深々と頭を下げた。妻はハンカチで目頭を抑え、おっさんと目元がそっくりな青年は、バラ色の頬で恥ずかしそうに笑っていた。おっさんはぐしゃぐしゃに泣いていた。私は少し笑って見せて、頷いて、その前を通り過ぎた。私たちは言葉を交わさなかった。それがお互いのためであった。しかし、それで十分だった。終わりかけの桜がハラハラと散って、美しい朝だった。