怪物
ゆったりと、静寂の中を楽しんで下さい。戦闘描写は有りませんが、こんな図書館があったらいいのになと思いながら描いてみました。ギャグや言葉遊びの要素を書き出した当初よりも多くしてしまいました。
神奈川県横浜市某所。その図書館は、丘の上に静かに鎮座しており、神の帰還を待つ神殿のようにも見えた。黒色に塗られた石煉瓦で造られたそれは、そこに偶然可視化された宇宙の法則のようにも見えた。理解の及ばぬ神聖な雰囲気を纏った、とても図書館とは思えない建物だった。しかし、建物の中は所狭しと本棚が並べられており、その本棚の一つ一つに、隙間なく沢山の書籍が敷き詰められている。地上二階建ての建物の二階部分は暗色の木材で作られた吹き抜けになっており、一階の本棚を眺める事が出来る。とは言えども、この図書館には試読スペースが設けられていない為、眺めてみても目に映るのは本の海だけだ。
すると、そんな二階の木製フェンスの手摺の上に、音もなく黒い影が降り立った。その影の正体は、小さな黒猫だった。もともとそういう種類なのか、それともまだ子供だから小さいのか。器用に四本の足を手摺の上に収めて、一階を覗き込む。その表情は、何かを探している様な表情で、僅かながら、鼻がぴくぴくと動いていた。すんすんと、匂いを嗅ぐような音も聞こえる。しかし、この図書館は相も変わらず静寂に包まれていた。この猫は若しかすると、或いはこの静寂の独特な香りを楽しんでいるのかも知れない。
猫がとてとてと小さな可愛らしい足音を立てながら手摺の上を歩き始めた。すると、ぶおぉと図書館の外から大きな汽笛の音が聞こえてきて、猫は足を止めて窓の方に首を向けた。昼間はランプに火を灯さず、深い緑色のカーテンを閉めずに自然光だけで光源を賄っているこの図書館。当然今の時間帯は自然光が眩しい時間帯だ。特に、猫が見上げた方向は西側で、昼下がりの今の時間帯は一番眩しい方角だ。容赦なく目を貫く日光に、堪らず猫は顔を背けて再び歩き出す。
すると、ぱたんと本を閉じるような音が聞こえて半分出した足を止める。そしてぎいと椅子を引く音、かたんとヒールの靴で立ち上がる音。猫はその音がどこから聞こえてくるのかを知っていたので、再び歩き始め、そこが見える場所へと移動していく。
こつ、こつとヒールが石煉瓦を叩く音、さらさらとした、僅かな衣擦れの音、微かに軋む木材の音。猫は目的地に到着した様で、そこから身を乗り出して、一階を覗き込む。猫の視線の先には、一つだけぽつんと置かれた作業机があった。そこには既に誰もおらず、やはり誰かが立ち上がったのか、椅子が引かれたままになっていた。机の上に重ねられた本は分厚い物ばかりで、辞書みたいに見えた。
足音が少し高くなる。耳をピクリと動かして、その音の変化に気づいた猫は、足音の持ち主が二階に登って来る事を察知したのか、すぐ傍の螺旋階段の方に向き直って、ちょこんとフェンスの上に座って待った。尻尾をゆっくりと左右に振っていると、螺旋階段の隙間から、彼女の黒い長髪が揺れるのが見える。腕に抱えられたのは深い青色の表紙を持った本。そして、螺旋階段を昇りきった彼女の姿がようやく見える。
黒色の背広のような上着と、黒色で植物の蔓の装飾が裾に施された繊細なロングスカートに身を包んだ黒に金色で刺繍の設えられたスカーフを三画巻きにした女性。それが螺旋階段をゆっくりと昇ってきた彼女であった。
「今日は客は来ないのか?」
なんと、猫が幼い高音で人語をしゃべった。これは驚いた。しかし、彼女は驚かないどころか見向きもせずに猫の前を通り過ぎた。彼女がなんの反応をも示さないのが詰まらなかった猫は、フェンスから木目の床に飛び降りて彼女の茶色いロングブーツの足取りの中を入り乱れた。明らかに彼女の気を惹こうとしている。
「じゃあキチョーは?」
猫が彼女の足の下から彼女を見上げる。スカートの中に黒色のタイトなズボンを履いていたが、猫は顔を顰めて、彼女の足元から躍り出る。しかし彼女は全く気にせず、本棚の前で立ち止まり、空いていた空白の中に手に持っている分厚い本を収めた。
「おい、聞いているのか?」
あまりにも彼女が猫の事を無視し続けるので、しまいに猫は頭をぐりぐりと彼女の足に擦り付けるに至った。すると彼女はひょいと猫の首を掴んで持ち上げ、目線を合わせるように自身の顔の前に運んだ。
「煩い。女性のスカートの中に潜り込むだなんて、盛っているの?」
心底猫の事を見下した様な、救いようのないものを蔑む様な表情で彼女が言った。声は落ち着いた低音で、言い方も相俟って冷酷な印象を与えた。
「何だと! 吾輩を馬鹿にするのも大概にしろ!」
じたばたと暴れる猫だったが、その手は彼女に届かず側から見ていると可憐しい。猫の手が空を切る音が退屈に感じた彼女は目を伏せて溜息を吐き、猫をフェンスの上に置いてやった。
「利用者はいないわ。綺蝶も今日は仕事で遅くなるって言ってたから、今日は来ないでしょうね。」
再び猫の前を通り過ぎる。猫は詰まらなそうに眉尻を下げた。そして前に屈んで、フェンスから木目に音も無く飛び降りる。そして、彼女の背後についていく。見上げてもスカートの中が見えない距離を保って、だ。
「寂しそうだな。」
猫が問いかけるが、彼女は振り向かないし、返事もしない。螺旋階段の中心に伸びている柱に手を摺りながら、ゆっくりと時間をかけて降りていく。登りの時よりも音が鳴るのは体重がよりかかるためである。ブーツのヒール部分がその音を増大している。
「おい、司書?」
猫が再びその背中に問いかけるが、司書と呼ばれた彼女は猫に見向きもせず、淡々と作業を繰り返す様に螺旋階段を降っていく。時を巻いて戻す様にゆっくりと、静寂の中を、永遠に続く螺旋階段を降る様に。或いは、砂時計の砂が零れ落ちていくのを阻止する様に。
「なんか言ったらどうなんだ?」
しかし永遠に続くかの様に思われた螺旋階段も終わりを迎え、石煉瓦の敷き詰められた硬い床の一階に降り立った。猫も石煉瓦の上に着地するが、先程までの木目の床よりも温かみのない床に身震いをした。そして、立ち止まったまま再度彼女に尋ねる。
「最近キチョーに会えてないんだろ?」
その言葉に、漸く彼女が立ち止まった。立ち止まった彼女の背後に近寄って、硬くて冷たい石煉瓦に文字通り腰を下ろす。
「もう三日とか会ってないんじゃないのか?」
彼女が黙ったままだったので、猫は大人しく尻尾を左右に振って彼女の言葉を待った。この図書館にはどこにも時計が置かれていない。時間の感覚が狂う理由の一つだ。だが、そのお蔭で針の進む音も、振り子の揺れる音も無いので静寂の真っ白な様な、暗闇の真っ黒のような空間の中で読書に集中することが出来る。
「帰蝶はあくまで利害が一致しているだけよ。」
肩越しに鋭い眼光で猫を貫いた。が、その一瞥だけで彼女はすぐに前に向き直って、彼女の作業机の方に歩いて行ってしまった。猫も腰を上げて、勢いをつけて作業机の上に飛び乗った。
「キチョーが聞いたら悲しむぞ?」
彼女が椅子に手をかけて引かれていたその椅子に腰掛ける。猫も、積み上げられた本の上に登り、ちょこんと座る。先程よりもやや曇った彼女の顔を覗き込み、心配する様に首を傾げる。
「おい、司書?」
司書は机の上の分厚い本の一つを手に取り机の上で開き、それ以上猫の質問に答えようとはしなかった。
気がついたら机に突っ伏して眠っていた司書は、身体を起こして眠たい目を擦る。そして、光の差し込む西側の窓の方に目を向ける。夕日が誇りをダイヤモンドダストの様に輝かせていた。起き抜けだからか、少し荒い自分の呼吸だけが部屋の中に響いている気がした。猫はどこかへ散歩にも出かけたのだろうか。視認できる場所にはいなかった。
どれくらい眠っていたのだろう。記憶の糸を辿れば、最後の記憶ではまだ東側の窓から朝日が差し込んでいた。高度はそこそこだったので正午は近かったようだが。そして今は低めの位置に太陽が位置していて、空を一転オレンジ色に染めていた。黄昏時を少し過ぎたくらいの時間帯だろう。鴉の鳴き声も疎らで、間も無く夜の闇がこの街を包み込んでいくだろう。
机の上に目を向けると、いつもと同じ光景が広がっている。分厚い本が何冊も並べて、重ねられている。読み終えた記憶のある本も、そうでない本も同じ様に並べられていて、眠る前の記憶を修復していく。随分限界まで起きていたのだろう、眠る直前の記憶はどう頑張っても甦らなかった。
昨日は猫に言った通り綺蝶としばらく会えない日が続いていて、猫に心を見透かされた様な気分に嫌気がさして家に帰るのが憂鬱だったのだ。彼女の言葉に嘘は無い。あくまで彼女は綺蝶と利害関係で結ばれている。しかし……
考えるのをやめようと、溜息を吐いて両手を机について状態を支えながら立ち上がる。椅子に座ったまま眠っていたからか、彼女の身体はいつもよりも随分重たく感じられた。頭もぐらぐらする。重たい身体を無理矢理動かして、痛みを主張してくる頭を否定して、右奥に重ねられた二冊の焦茶色の表紙の本を抱える。そして、机の右側を横切って本棚の海の中に潜り込む。
ブーツの足音だけが響く。規則的な高音が図書館の時を刻む。まるで時計の針が進む様な音だ。その音がなければ、この静寂の図書館は永遠に時が停止したままなのでは無いかと錯覚する様な音だ。
そして、一つの本棚の前で立ち止まる。所狭しと並ぶ本の背表紙を目でなぞる。色とりどりだが基本的に深くて暗い色の多い本の数々が並ぶ本棚の中に、真っ暗な空白を見つける。そして、そこに自分の抱えている本の一つを丁寧に押し込んで再び歩き始める。
再び時間が動き始める。先程よりもゆっくりと動き始めた時間は、夕焼けの赤を暗く塗りつぶしていく様だ。水でよく薄めた絵の具の黒色を、筆で何度も何層にも塗り重ねて、空は段々と暗く染まっていく。
そして、空が暗く染まり切る前に再び本棚の前で立ち止まり、その空白の中に手に抱えていた本を押し込む。本と本の表紙と表紙の皮と皮が、擦れて僅かに音を出す。最奥まで本を押し込んだ時、重々しい扉が開かれる音がしたので、司書は扉の方に向いた。しかし、本棚が視界を遮っており、利用者の姿は確認出来なかった。
欧米のきちんと整理された街路を思わせる本棚の路地を抜け、大通りに出る。そして、扉の前できょろきょろとしている挙動不審な一人の男性を見つける。紺色のブレザーに臙脂色のネクタイを巻いて、灰色のズボンの下から少しだけ黒色のローファーが顔を覗かせている。一眼見て学生だと分かる、一般的な制服姿だった。背丈は彼女より高く、高校生かと思われる。
少ししてすぐに、彼は本棚の路地から現れた司書を視認して慌てた様子を見せる。
「あ…あの、こちらの図書館の……司書さんですか?」
「えぇ、そうよ。」
青年の声は緊張しているのか、少しだけ震えていた。声は想定通りの低音で、しかし青色の若さの様なものを感じ取った。対して氷の様に冷たい声で司書は返事をする。その声の刺々しさに、青年も少し戸惑っていた。
「あ、その…欲しい本は何でもくれるって、本当ですか?」
都市伝説にも近いこの図書館にまつわる噂を聞いてやってきたのだろうか。この横浜の街ではそこそこ有名な部類の都市伝説の一つだが、丘の上という立地状利用者も少なく、誰もそんな噂を信じようとしない。仮に本当だとして、確認したい程でも入り浸りたい程でもない。だが、司書は首を縦にも横にも振らず、まっすぐ彼の目を見つめた。
「何か欲しい本があるの?」
彼女は否定も肯定もしないような、曖昧な答えかたをした。しかし、青年の目的はこの図書館の都市伝説の解明ではなかったので、それ以上深く追及する必要はなかった。素直に頷くと、彼女は踵を返して図書館の奥へと歩いていく。言葉も声も、身振りもなく、しかし呼ばれた様な気がした青年は、軽く深呼吸をしてから彼女の背を追った。
青年にとって、不思議な空間だった。音の無い空間、時間という概念すらないように感じられる異次元の空間。その一方で、僅かな衣擦れの音、遠くから聞こえる波の音、そして彼らの息遣いさえも聞こえた。そして淡々と靴音と共に時が進み、日が沈む様に感じられる。
「自分の本、かしら?」
青年はどきりとして足を止めた。心の奥底まで見透かされた様な気分がしたからだ。数は彼女が歩くのを見守ってから、再び歩き出す。
「はい、そうです。」
恐る恐る、青年自身も自分の言っていることを確かめるように言葉を紡いだ。そして自分が口にした事が半ば信じられなかった。『自分の本』だなんて小説家でもないのに、それを本気で求めていることを肯定するだなんて、普通に考えれば正気の沙汰ではない。
机の前で立ち止まり、司書の彼女は青年に振り返る。
「照明を灯すのを手伝ってくれるかしら?」
その目は青年のことを人として扱っているようには見えない目だった。精々良くて、従順な犬か、言葉を覚えたての猿程度だろう。そんな侮蔑の視線を真っ向に受け止めた青年は居心地の悪さに胸のあたりがざわざわするのを感じたが、我慢して彼女の言葉に従うことにした。
「どうすれば良いんですか?」
「二階に上がってすぐの所にスイッチがあるから、それを押してきて。」
彼女は左の螺旋階段の上を見上げながらそう言った。そして、自分は机の左を通り過ぎて、更に図書館の奥へと歩いて行った。引き受けた以上は仕方がないので、渋々螺旋階段の上を目指す。木製の、少し脆そうな造りに見える螺旋階段だった。しかし、それを覆うような手摺と、中心の支柱に拵えられた細やかな蝶と花の装飾が、その螺旋階段が職人によって造られた業物であると語っていた。
螺旋階段に足を踏み入れれば、石煉瓦と比べて高い木材の足音に変わった。右手で手摺を持ちながら、やや急勾配の段差を、支柱に刻まれた装飾を観賞しながら一つ一つ登っていく。木材色に咲き乱れる花と、それに魅了される同じ色の蝶。しかしそれらはまるで本当に生きていて、何かの物語を演じている役者のように見えた。
青年が螺旋階段を半分程登ったところで、先程まで続いていた石煉瓦の上を歩く足跡が途切れて、カチッという音が聞こえてきた。小さく反響したその音と共に、図書館の一階の奥側から順に、段々と街灯のようなオレンジ色の明かりが灯っていった。蝋燭のような温かさと古風な印象を受ける。先程までの夕陽を吸収しているような図書館は姿を変え、まるで闇の中で怪しく光る教会のように見えた。
青年は先程よりも急いで階段を登り始めた。あまり遅いと彼女に何を言われるか分からないと思ったからだ。最上段まで登って、照明のスイッチはすぐに見つかった。というのも、そのスイッチが登り切ったその真正面の柱に設置されていたからである。手早くそれを押して、今まさに登ってきた螺旋階段に振り向けば、二階も同じように奥から順に段々と明かりが灯った。最後に灯ったのは、中央に吊られた豪奢なシャンデリアだった。
登りと同じように、しかし今度は左手で手摺を掴んで階段を降りていく。急いだほうがいいだろうと頭では分かっていても、その頭が危険を知らせて駆け降りようとする体を制止した。横目にちらりと階下を見れば司書が既に机の横を通り過ぎていて、青年は更に焦った。
バタバタと激しい足音をたてながら、しかし早く階段を降り切って、青年は司書を探す。心なしか息は上がっていたし、顔は蒼かった。机の方を見るが彼女は居らず、反対側の本棚の立ち並ぶ方へ目を向ける。少しして、本棚と本棚の間から彼女が姿を表した。その腕には一冊の辞書みたいな本が抱えられている。
「御主人様を見つけた犬じゃないんだから、もっと静かに降りれないのかしら?」
それが手伝ってくれた図書館の利用客に対する一言めなのだろうか、青年は唖然とするほかなかった。視線、発想、性格の悪さ、その全てが彼女から人間性という言葉を乖離させていた。上品っぽい口振りも知識を感じるばかりで本質であるはずの他人への思いやり等はまるで感じられない、冷酷な刃物のように感じられた。
「自分の本を探しているのよね?」
彼女は目を伏せ、どうしようも無い駄犬にやれやれと首を横に振る。そしてゆっくりと青年の方に歩き出し、唖然として動けないでいる彼に、抱えていたその本を渡す。青年もそれを受け取りながら、その本の重さに驚いた。しかし、彼が本当に驚いたのは、表紙にまるで題名のようにして自身の名前が、倉田篤志という名前が、丁寧に刻まれていることに気づいた時だった。
「こ、これ……どうして!」
倉田は自分が焦っているのをよく理解していた。しかし、冷静になどなれるはずもなくて、脳内で無理矢理絞り出した言葉を震える口で音にする。しかし、そんな彼を、司書は憐れむような目で見下した。
「どうして? あなたがこれが欲しいと言ったのでしょう?」
まるで聞き分けのない赤子に厳しく言って聞かせるように、事実を淡々と確認した。しかし、事実だとかは彼にはどうだってよかった。彼女に名前を教えたわけではない、外見に名前を貼り付けているわけでもない。しかし彼女は、何も迷わず、当然のようにして青年の名前、倉田篤志を題名として冠した本を彼に渡してきた。
これは紛れもない恐怖。人の理解を遥かに超越した、人ならざる者の所業であった。そして、唐突に理解した。神は、いるのだと。彼女なのか、それとも彼女の協力者なのかは知らない。だが、目の前で起きたこれは超常、神業と呼ぶほかにない、明らかに手品の範疇を超えた、人の範疇を超えた文字通り神の御業だった。
「貸出期間に制限はないわ。あなたの本だなんて、あなた自身以外に誰も興味がないから。」
彼女はそれだけ言って、呆気に取られる倉田の右を通り過ぎて、静かに机と並んで置かれた椅子に腰掛けた。そして、積まれた本の一つを手に取り、机の中心で開いて読み始めた。そのまま、しばらく時が止まったように過ぎていった。
漸く我に帰った、遥か遠方から魂を取り戻した倉田は、彼女に手渡された本を胸元で抱きかかえるようにして持って、彼女に声をかけた。
「あの、ありがとう…ございました。」
頭を下げて、目を伏せる。なんとなく、今初めて誰かに感謝したような気分になったのだった。顔を上げると、本から目線を上げた彼女が青年を睨みつけていた。その視線はどこか刺々しくて、苛々していることだけはよく分かった。
「邪魔。用が済んだならさっさと帰って。」
読書の邪魔は御法度らしい。そそくさと回れ右して出入り口の扉の方へ小走りに向かう。また何か言われてしまうのかという不安があったが、結局青年が外に出るまで彼女は何も言わなかった。出入り口の重々しい扉が音を立てて閉まる。そして、その音を契機にして、再び図書館は静寂に包まれる。彼女の呼吸と、照明を灯す僅かな電気の走る音だけが静寂の黒を微かに彩っていた。
すると、そこに風の音と、小さな何者かの足音が聞こえて来る。二階の窓から侵入した黒猫は、二階の木目の床に降り立ったかと思えば、素早く再跳躍して音もなく手摺の上に飛び乗った。
「随分ビクビクしていたな、あの子。」
「……救いを求めて、時として人は、頭で分かっていても愚かしい行動をとるものよ。」
日はすっかり暮れていた。月明かりが天から降っていたけど、横浜の夜は明るくて、月明かりのありがたみはよく分からなかった。昔の人は星々を道標の一つとして考えていたそうだけど、僕にとっての道標は星々ではなくて、今手の中にあるこの本だ。
僕の、本。僕が書いたんじゃない。けれど、僕の本と呼ぶ他にこの本を表現出来なかった。嘘じゃ……都市伝説なんかじゃなかったんだ。本当に、欲しい本を貸してくれる図書館があるんだ、この街には。
僕は海岸沿いの道路の側につけられた停車スペースのベンチに座って海を眺めていた。朧げに月が反射していて夜の到来を告げているみたいに見えた。そして、膝上に抱えた本に目を落とす。その表紙には、倉田篤志と、僕の名前が題名みたく刻まれている。
この本には、僕の生涯の全てが書き記されていた。十七年前に産まれて、好奇心旺盛で無鉄砲な子供として育つ。幼少期は特撮ヒーローに憧れて、将来は悪の組織と戦うことを夢見た。しかしある日、人々を災害から守る家を設計する父親を見て、設計士を目指す事にした。建造物だなんて、特撮物の中では無慈悲に怪物に壊されるだけの物なのに。
しかし僕は夢想家だった。理想ばかりが先行して、まるで実力の伴わない学力に何度も進路の変更を勧められた。僕は進路変更を一度だって認めたことは無い。公立高校の試験に落ちて私立高校に通い、毎日勉強ばかりしていた……はずだった。けれど、受験を間近にして、偏差値が全くもって志望校に不足しているという事実を突きつけられた。
第一志望校は国立大学だが、他はそこまでレベルが高いとは言えない、所謂中堅私立校だ。今までの努力の全てを否定されたような気がして、世界がぐるぐると渦巻いて見えた。歪みきった世界は吐き気を催すほどで、前に歩く事を諦めそうになった日々が続いた。
そんな時だった、『欲しい本は何でも貸し出してくれる、魔法の図書館』の都市伝説を聞いたのは。実際にはまだ僕が幼い頃に数度耳にしたことはあったが、誰もその真実に辿り着けなかったのを覚えている。そんな夢に希望を見出すのは愚かしい事だと分かっていた。けれど、僕は未来を知るためにもう一度夢を見る事にした。
夢は、僕に現実を突きつけた。僕は、志望校のどこにもかすりもせずに、滑り止めの教育学部の私立大学にしか合格出来ないらしい。浪人はせず、その大学に通い、無職のまま三十歳で絶望して、孤独に自室で首を吊るらしい。
ぽたりと、水滴が表紙の上に零れ落ちて、皮の中に染み込んで色を濃く染めた。肩が震えているのが分かる。嗚咽と一緒に、水滴が二滴、表紙に零れ落ちた。
十七歳で自らの人生が絶望に塗れた物だと知った。そして、今までの地獄のような日々は全て無意味だったということも思い知らされた。どんなに美しい夢を描いたって、現実は無慈悲にそれを真っ黒に塗り潰す。造作もなく、ほんの少しの躊躇もなく。こんな人生に、いったい何の価値があるというのだろうか。
僕は、乱れる呼吸を整えるために大きく息を吸い込みながら、天を仰いだ。震える息が吐き出される。もう一度、嗚咽ごと深呼吸をする。しかし、無駄だ。僕の人生のように無駄だ。どんなに気持ちを落ち着けようとしても、何も変わらなかった。
「……っそが…あぁ、あああ……」
誰にも聞こえない怒りが込み上げて、人も車も通らないこの波音と風に草が揺れる音だけが聞こえる静かな道路の中で吠えた。人の気配はない、きっと誰にも聞かれていない。わかっていても少し不安で、しかしそれ以上に叫ばずにはいられなかった。
空っぽになった気分だ。もう、この身体の中には何も残っていない。そして、もう何も要らない。もうこれ以上、僕に夢を見せないでくれ。
風の強い日だった。風が草木を揺らす音を聞いて、司書は読んでいた本を閉じた。珍しく、机の上にはその一冊の本しかなかった。すると、螺旋階段の一段目で体を丸めていた黒猫が立ち上がる。
「帰るのか?」
「風が強くなってきたから。」
司書も椅子から立ち上がって、目を閉じて少し深い呼吸をする。その表情はどこか幼くて、少し眠たそうだ。猫も、体を伸ばしながら息を大きく吸い込んで、螺旋階段から飛び降りた。
「そういえば、今日こそは帰蝶が帰って来るんだろ?」
顔を上げ、司書の方を見上げながら猫が言う。司書は机の上の本をパタンと閉じて、それを胸の前で抱えた。
「そう言っていたわね。」
「吾輩も今日は街に出かけるんだ。前の会議で報告のあった魚屋を偵察してくる。」
猫はどこか嬉しそうに笑顔で言った。それはまるで悪戯を企てる少年のようなふにゃりとした笑顔だった。しかし司書はそんな猫を気にも留めず、一瞥もなくその隣を通り抜けた。猫は、詰まらなそうな顔をした。
「そこの御主人がな、売れ残った魚を寄ってきた猫に分けてやってるそうなんだ。」
司書は振り向かず、右手の本棚の路地に入った。そして上段の空白に本を押し込む。
「……醜いわね。」
「煩い! 吾輩を侮辱するのも大概にしろ!」
猫が犬のように吠えたてるが、司書は見向きもしなかった。また猫の隣を仏頂面のまま通り抜け、そして机の方へと歩いていく。猫もその後ろについて行きながら、その背中に呼びかける。
「抑も、人間が社会だとかコミュニティを創るのが悪いんだ。他生物、ましてや自然そのものの支配なんて愚かしいことを何世代にもわたり継承し、実践しようとする……実に愚かしい。」
「けれど、貴方もその支配制度の中で存在しているのでしょう?」
猫は耳が痛いと言うように、不服そうに溜息を吐いた。言い返せない。しかしもう一度口を開こうとした時だった。不意に出入り口の扉が開いて、猫が口を噤む。出入り口の方に振り返ると、黒いスーツ姿の男性が立っていた。黒縁眼鏡に七三分け、薄く髭の生えた厳格な雰囲気のある男性だ。男性も司書の姿を視認したようで、軽く会釈する。
「この図書館の司書、でよろしいか?」
「……えぇ。」
司書が眉間に皺を寄せた。男性の態度に対して苛々しているようだ。男性は三十代前半と思われて、司書よりも年上に見えたが、司書はその態度が礼を欠くと感じたらしい。猫が怪訝な表情で彼女を睨む。
「求める本は何でも提供する図書館とは、ここのことで合っているか?」
「要領を得ない質問ね。」
「……小澤美穂に関する本が欲しい。」
「……他人の本?」
司書の眉間に更に皺が寄った。相手の考えを理解しかねている。それどころか気持ち悪いものを見るような目をしていた。その目に男性も気分を悪くしたのか、腕を組み司書の事を睨みつけた。
「何か問題があるのか?」
「いいえ、無いわ。ただ、人の人生を覗き見ようだなんて、不躾な泥棒猫だと思っただけよ。」
司書はそれだけ言って、図書館の奥の方へと歩いて行った。男性は額に血管を浮き上がらせ、今にも怒鳴り出しそうな剣幕だったが、一つ深呼吸をして自分を落ち着ける。そして猫は司書に怒鳴っていた。
「にゃあん!」
しかし、司書は応えない。そして、男性も猫がにゃあと鳴く声に驚いて、そして溜息を吐いたが、何も言わない。それは勿論、男性には猫が鳴いているようにしか聞こえず、人語を話しているとは知らないからだ。
男性は組んだ腕の袖を捲り、時計を確認した。時刻は夜の八時を指している。この後特に予定は無かったが、時間には厳しいらしい。間も無くして、司書が男性の元に一冊の本を抱えて帰ってきた。男性が時計を見ていた顔を上げる。
「小澤美穂、貴方の本よりずっと分厚いのね。」
その赤い表紙の本は六法全書のように分厚く、そして題名の部分に小澤美穂という名前が刻まれていた。男性もこれには驚いた様子で、少し目を見開き、ひゅっと喉を鳴らした。暫く、その表紙に目を落とす。
「……まさか本当に……こんな本があるとはな。」
「恋人の人生を覗き見たいだなんて、良い趣味をしているわね。」
「……は?」
男性が司書の事を睨みつける。
「何ヶ月前だったかしら……その本を読んだ事があるの。その中に、貴方と思われる人物が恋人として現れたから。」
男性は再び、その本の表紙に目を落とした。そしてふん、と鼻で笑う。
「貴様も他人の人生を覗き見る、いい趣味の持ち主じゃないか。」
司書は心底嫌そうな顔をする。それはまるで、ごみを漁る貧しい人間の事を憐れみもせず、ただ只管に嫌悪感ばかりを映した瞳だった。
「お前と一緒にするな。精々猿程度の脳しか無い癖に、同一視をしようだなんて反吐が出る。」
男性は、一瞬呆気に取られた。失礼な女だとは思っていたが、こんな暴言を吐き連ねるとは思っていなかったからだ。そして、侮辱された怒りが込み上げてくる。
「何だと!」
「さっさと出て行け。そして二度と来るな、人間。」
司書は持っていた赤い表紙の本を床に捨てて、男性に背を向けて歩き出した。普段よりも石煉瓦を叩く音が強く、乱暴で気が立っているのがよく分かる。猫も心の中でやれやれと首を横に振った。
「人を愚弄するのも大概にしろ!」
「誰が喋る事を許した?」
司書がこちらに振り向き、その目を見開く。その漆黒の瞳が一瞬、怪しく輝いて見えた。その瞬間、男性は首を絞められたような息苦しさに襲われ、声を発することが出来なくなった。呼吸をするだけで精一杯で、その状況に顔を蒼褪めさせる。
司書がゆっくりと男性の方に振り向く。その身体は禍々しい何かが取り憑いたように、恐ろしい何かを放っていた。男性はそれを見て、恐れをなし、そして赦しをまた求めるように、しかし声を発することも出来ずに、口をパクパクとさせた。それを見て司書は穢らわしいとでも言うようにそれを見下して、出入り口の方を指差した。
「出て行け。二度は無い。」
言い終わるが先か否か、男性は転がる様に足元の本を拾って、図書館の外へと出て行った。その様子を見て、司書は小さく舌打ちをした。
「男だから、年が上だから、そんな理由で威張る人間ほど、愚かしいものはないわ。」
「やり過ぎなんだよ、お前は。」
猫が司書を咎めた。司書の身体からは、先程の禍々しく、そして恐ろしい何かの気配は無くなっていた。
「そんなに人間が嫌いか? 吾輩は……嫌いじゃないぞ。愚かだけど、優しいし。」
「それは猫を被っているだけよ。」
数で数えられないものは嫌いだ。ただ一つの答えが得られないからだ。だから、人の心を理解したりするのは苦手だ。それでも、初めて自分を求められた時私は嬉しくて、三十年間一度も経験の無かった恋というものを始めてみることにした。
恋は、やはり下手くそらしい。何度も下手だと笑いながら指摘されるが、そう言うとこらが面白くて可愛いと言われて、恥ずかしかったが、同時に安堵した。それでも、いつまでも下手なままではいられない。欲を見出した私は、彼女の事を知るために、一つのくだらない都市伝説というものを信じてみることにした。
と言うのも、横浜では随分有名な都市伝説であり、そこらの胡散臭い占い師などよりは余程信用出来たからだ。そして、あの図書館を訪れて、驚いた。本当に、彼女の名を冠した本が出てくるからだ。だが、それ以上にあの司書には驚かされた。何だ、あれは? 人ならざるものの雰囲気、理解の及ばぬ力……考えるのはやめだ、どうせその真実を知ることなどできやしない。
ただ一つ、確かな事があるとすれば、あの図書館の本は、人に希望を与えたり、救いを与えるものではなかったと言う事だ。
私の恋人は、恋人などではなかった。ただ私の財産と地位を目当てにした、薄汚い泥棒猫だった。
何をする気も起きなかった。当初は信じられなかった。今でも半分、信じられない自分がいる。だが、彼女の生涯を、産まれてから死ぬまでを事細かに書き記したこの本が、嘘を言っているとは思えず、信じるほかなかった。本を公園のゴミ箱に捨てて、すぐ側のベンチに腰をかける。
「……俺は、何がしたかったんだろうな。」
誰に向けるでもない、強いて言うならば自分自身に向けた無気力な怒り。三十年生きてきて初めて、金など要らんと思った。同時に初めて、誰かから愛されたいと思った。家族でも、恋人でも、部下でもいい。誰でもいいから、私を愛して欲しかった。
「金では買えぬものがある、か……」
ありきたりな台詞を星空に吐き捨てて、私はゆっくりと立ち上がり、ふらふらと帰路を辿った。
毛布が首のあたりを擦って、電気が走ったような痛みを感じて彼女は目を覚ました。珍しく、ぼうっとしている。隣から薄い寝息が聞こえてきて、首から上だけをそちらに向ける。隣で黒髪の女性が、彼女の左手を握りながら眠っていた。必然的に、彼女と見つめ合う姿勢になる。
自分の手を握りながら幸せそうに眠る女性を見て、白地に青のストライプスの寝巻き姿の司書は眉を顰める。因みにその寝巻きも、ぐうぐう眠るこの女性からの贈り物だった。
するりと手を引けば、眠っているからか緩んでいた女性の手から解放された。早朝の戦闘を制し、小さく溜息を吐いて上体を起こす。そしてダブルサイズのベッドから降りて、スリッパを履いて絨毯の上を歩き出す。赤色の花が咲いた、少し高級そうな絨毯だ。
地球儀や本や、白い女性ものの下着が散乱する部屋を通り抜け、廊下の先の洗面所に入る。そして、鏡に写った自分の首筋を見て、大きな溜息を吐く。続いて舌打ち。その首筋には、真っ赤なキスマークが付けられていたのだ。犯人は特定するまでもない。
それだけではなかった。胸元や腕、太腿にまで彼女の歯形やキスマークが付けられていた。彼女を起こした痛みの原因は恐らくこれだ。いや、十中八九これだ。司書は震える拳を握りしめ、先程の部屋に戻る。そして、眠る彼女の側に立ち、その顔に手を伸ばす。
「起きろ、人間。」
彼女の左の耳を摘んで、力加減などせず引き千切るつもりで思い切り引っ張った。すると彼女は「痛い、痛い!」と叫びながら即座に起きて、ベッドから転がり落ちる。手を離せば耳が千切れていないか確認するように両手で耳を押さえて、床の上で上裸、下も下着しか履いていない状態のままのたうち回った。いい気味だと司書が鼻を鳴らす。
「痛いよ、司書ちゃん。もっと彼女らしく優しく起こしてくれたりしないの〜?」
司書は彼女の言葉など気にも留めず、涙目の彼女に自身の首筋を見せる。真っ赤な花が二つ咲いていて、反対側には深い歯形が一つ付けられていた。
「発情期の猿なの? それとも噛むことしか出来ない犬なの?」
「ひどーい! 丁寧に付けてあげたのに!」
「付けるなって言ったわよね?」
司書の圧が強くなった。禍々しい何かが見えそうだ。しかし図書館じゃないからか、それは姿を現さなかった。司書の目には怒りと、彼女に対する侮蔑が漲っていた。
「綺蝶は毎晩毎晩会える日はする癖に、激しすぎるのよ。あれじゃ獣よ、畜生よ。」
司書が彼女に背を向けて、大きな溜息を吐きながら歩き出す。その背中に綺蝶がにっこりと笑いかける。
「司書ちゃんは、ベッドの上だと弱いもんね!」
彼女の顔に、白い下着が凄まじい勢いで投げつけられた。
トースターで焼き目をつけた食パンに目玉焼きを乗せて、ミニトマトとヨーグルトを添えた朝食。司書は沸かしたお湯をティーカップに、綺蝶はコーヒーカップに注ぐ。
「別にいいじゃん、司書ちゃんは図書館の中にいるわけだし、誰かに会うこともないでしょ?」
「利用客には会うわよ。今日は絶対に一人来るから。」
「え、絶対?」
司書が目を伏せたまま食パンを齧った。さくりと、実に美味しそうないい音を立てる。倣って、綺蝶も食パンを齧った。と、目玉焼きの白身が噛み切れずに、数度に分けて目玉焼きだけ先に頬張る。
「忘れもしないわ。初めてその人の本を読んだ時は信じられなかった。」
「そんなに⁉︎」
「嘘は吐かないわ。私が訪問してくる日付まで覚えているのはその人だけよ。」
「……なんか、妬けちゃうなぁ。」
綺蝶の言葉に、司書は首を傾げた。綺蝶はやれやれと首を横に振る。その様子を見て、綺蝶が自分と、今日の訪問客の事で誤解している事を察する。
「私は、その人に来て欲しくないのよ。勘違いしないで頂戴。」
司書が紅茶を口に含んだ。その司書を見つめて、そして綺蝶の顔がどんどんと明るくなっていく。口角を上げて、嬉しそうに笑った。机越しに、彼女が抱きつくような素振りを見せた。
「ありがとー! 私、今日も頑張れそう!」
「……四六時中、頭の中まで発情期か。」
「そんなに大きい“モノ”をぶら下げて誘ってるのは司書ちゃんじゃん。」
綺蝶が司書の胸の大きい“モノ”を指差しながら、腹を抱えて笑った。その様子に額に血管が浮き上がる音が聞こえた司書は、震える右手でティーカップを持ち上げた。
「ぶっかけられたいの?」
「え? おっぱ……」
言い終わるよりも早く、彼女の顔面にまだそこそこ熱い紅茶がぶちまけられた。
今朝の騒乱の事を思い出して、司書は溜息を吐く。それに、この後訪問してくる利用客の事もあって、とても本を読む気になれなかった。ということで、今日は彼女はいつも通り椅子に座って机に向かう姿勢だが、机の上には一冊も本が置かれていない。司書の溜息を聞きつけて、猫が本棚の路地から姿を現した。
「どうした? 今日はやけに機嫌が悪そうだが。」
司書は少し悩んだ末に、服を少し捲って右の首筋を猫に見せた。そして、そこに咲いている赤い花を見て、猫は「あぁー。」と納得したようだ。
「綺蝶にやられたのか。」
司書が服の襟を正した。そして息をするように溜息を吐く。それに前日随分と夜遅くまで起きていたので昼を過ぎると睡魔が襲ってきて頭痛が酷いのだ。机の上に右肘をついて、その右手で頭を抱える。
「綺蝶って、本当にお前のことが好きなんだな。」
「いい迷惑よ。」
「人間の恋愛観は知らんが、お前の何が良いのか吾輩には分からんな。」
司書は何も言わなかった。
「あ、でもこの前綺蝶に会った時は、会社の先輩とかに胸がデカくて好きって言ってたぞ。」
司書が溜息を吐く。
「少し黙れ。」
やめろと言いたかったのかもしれないが、猫は声を奪われ、口を開いたまま間抜けな表情になった。それでも司書は余程頭痛が酷いのか、猫に見向きもせずに小さく唸り声を上げながら、頭をさすった。
彼女にとって、トラウマというか、忘れられないほど衝撃的だったのは今日の訪問客に関する本だった。本にはあらゆる事が明記されており、つまりいつこの図書館を訪れて、そしてどんな会話をするのかも綴られている。ここで未来を知ることができれば、変えられる未来というものもある。勿論、そうではに例外もある。彼女の訪問自体は変えられそうにないが、彼女の訪問による被害を最小限に抑える術は最近ずっと考えていたのだ。だから、扉が開いて、司書は早々に立ち上がる。
出入り口から足音がするが、気にせずに机から一番近くに設置された本棚に近づき、中段の一冊の黒い表紙の本を抜き取る。
「あ、あの……」
出入り口の方から、怯えたような声が聞こえてきた。小さく深呼吸をして、意を決したように司書は机の前に戻ってきて、その女性の姿を視認する。白いタートルネックのセーターにジーンズ、茶色い短髪の女性だった。
「あ、こんにちは。」
「……こんにちは。」
「あの……その、欲しい本をくれる図書館って、ここですか?」
やはり、司書は頷かず、しかし首を横に振って否定するでもなくて、彼女に近づいて、手に持っていた本を差し出した。その表紙には、丸山杏と書かれていた。これが、彼女の名前のようだ。
「え、わ! 凄い、本当に……!」
俄には信じがたい現象に言葉が止まってしまう。本を受け取ろうと伸ばされかけた手も、中途半端なところで止まっている。やがて、少しして彼女の脳が再び活動を再開して、慌てた様子で司書から自分の名前が冠された本を受けとる。
「ありがとうございます。」
「……ここで読んでもらっていいかしら?」
「え?」
彼女は少しだけ、申し訳なさそうな表情だった。しかし特に理由を言うわけでもなく、困惑した様子の丸山だったが、表情から何かを察して、それを了承したのか、自分の本を開いて読み始めた。
椅子を出すわけでもなく、立ったまま丸山に本を読ませて、終始彼女は不機嫌そうだった。眉尻が下がっており、腕を組んで彼女が本を読むのを待った。
互いに一言も口に出さず、静寂の中で丸山が本を読むのを司書が見守るという状況が続いた。図書館の中には、彼女が本を捲る音と、微かな二人の呼吸音だけが響いていた。
すると、不意に丸山が顔を上げた。そして、司書の顔を不思議そうに見つめた。そして、また本を見て、司書の顔を吸い付くように見た。その様子に気付いた司書は、残念そうに溜息を吐いた。
「……」
「……」
「……あの…」
司書の表情がどんどん曇っていく。丸山が何を求めているのか、彼女は知っていたからだ。丸山も、その表情に少し怖気付いているようだ。しかし、自分の欲望を抑えられなかったらしい。唇を舐めて潤わせる。
「ここに書いてあるのって……」
「……そうね、事実よ。」
「じ、じゃあ……!」
言葉が喉に絡んだ。彼女が初対面の人であることを思い出したのか、自分が頼もうとしていることに恥ずかしくなったらしい。
「……本当に、どうしようも無い猿ね。」
司書が、組んでいた腕を解いて、深く息を吸い込んだ。そして、集中する。禍々しいものの気配が濃くなる。
「跪け。」
その言葉に反応して、丸山の身体が彼女の意思を確認するよりも早く膝を折り、両の膝をついて彼女を見上げた。その不思議な現象に、丸山が目を見開く。
「……す、凄い! 本当に……!」
「きっと、想像を遥かに上回るわよ? 本当にいいの?」
「勿論です!」
丸山は目をキラキラと輝かせて、しかし息を荒くしながら即答した。表情はエサを目の前に出された犬の様であり、頬を紅潮させてどこか艶かしかった。その表情を見て、司書は更に眉を顰めた。
「……」
彼女が尻尾を振る犬の様に見えてきた。悩んだ末、司書は目を伏せて大きく溜息を吐いた。そして、ゆっくりと息を吸いながら目を開く。
「……絶頂しろ。」
甘い匂いが鼻を貫いていた。司書は依然、機嫌が悪いのを隠そうともしていなかった。何度彼女に“命令”を下したのか覚えていない。兎も角終始彼女は命令されて幸福そうで、その顔を見ていた司書は吐き気を催していた。結局彼女は、五分間も、それも自身や或いは他人に体を触れられることもなく、司書からのただ一つの命令だけで絶頂し続けた。身体中から様々な体液を排出しながら、声が枯れるまで、嬌声を上げながら。
気持ちが悪かった。司書にとって、快楽だとか、性欲だとかは自分の生命から最も遠い存在だったからだ。他人に頼ったり、他人を蔑んだりして自らの地位を得て安心する人間の思考が理解出来なかった。それ以上に、彼女の様にただ己の快楽の為だけに、信じるにはとても脆弱な都市伝説などを信じて、己の欲を満たすためだけにそれに縋るなど、もっと理解が出来なかった。
「……匂うな。」
足音もなく螺旋階段を降ってきた猫は、鼻を刺す様な甘い刺激臭に顔を顰めた。司書は猫の方を向いて、
「発情期って、面倒なのね。」
と嘲るように言った。猫は何か言い返そうかとも思ったが、彼女の表情を見て何かを察知したのだろうか、悩んだ末にげんなりとして、
「そうだな。」
とだけ返した。そして小さく溜息を吐く。沈黙が司書と猫の気不味さを語っているようだった。猫は苦しそうな表情のまま司書が頬杖をつく机に近づいて、後ろ足に力を込めて華麗に机の上に飛び乗った。じとりとした司書の瞳が、彼女を見上げる黒い影を捉える。
「人間はどうして欲望の為なら何でもするんだろうな。」
「……猫は違うと言いたいの?」
「そうだな。特に子孫繁栄など微塵も関係ない快楽の為、なんてね。」
結局、人間が欲望を第一義として生きている理由は分からなかった。考えてもわからないだろう。司書も猫も生き物であり、人間と同じように欲望がある。特に司書は人間の姿をしており、同じく快楽を得ることが出来る。尤も、彼女は自分が快楽を得られる肉体を持つ事を嫌悪している。だから、綺蝶に体を求められることが憂鬱なのだ。
綺蝶とは利害が一致しているだけ。司書にとって、彼女は都合の良い人間だ。また綺蝶にとって、司書は顔と体型が好みで、一目惚れした相手だった。擬似的にでも司書と同棲する事を提案し、司書を養っているのは彼女だ。代わりに司書は、綺蝶の欲望に応える。司書からすれば、互いの欲望を互いに補い合うだけの存在だった。それが、彼女たちを繋ぐ絆のようなものだ。
「欲望だって、相手を理解する上では大切なコミュニケーションの一部なのかもな。」
「生きる事が罪だなんて、救われないものね。」
恍惚として、往来を行き交う人々を眺めていた。今日、私は長年の夢を叶えてもらった。実在するかも分からない、都市伝説の中の登場人物に。そして、二度とその夢を叶える事を断られた。否、禁じられた。
都市伝説というのは、利用客が求める本の全てが取り揃えられている幻の図書館というもの。そして、その図書館のたった一人の司書の言葉には、絶対的な強制力があるというものだった。その、絶対的な強制力を持つ“命令”は、例えば自然の摂理や、物理法則、人間の生理現象さえも超越して、相手を自由自在に操れるものだという。
人ならざる、圧倒的な力。人々はそれを都市伝説と恐れているが、私はそれが、まるで神様の御技のように見えて、崇め奉り、畏れていた。
簡単な話、相手に死ねと言えば死ぬし、爆発しろと言われたら爆発するはずだ。少なくとも、私はそうして、自分の体を自在に操作された。
ただ一言、彼女が『絶頂しろ。』と命令するだけで、私の身体は一気に熱くなって、それまでの身体の状態を全て塗り潰すような快楽がお腹の奥底から溢れ出して、強制と共にそれらを吐き出してしまった。
最初は理解出来なかった。何が起こるのかを知っていて、彼女の元を訪ねたはずだった。しかし、彼女が改めてまるで神様のような力を使うものだから、彼女が何をしたのかも、彼女が何者なのかも、理解出来なかった。そして、身体中から力が抜けて倒れながら彼女の表情を見て、唐突に全てを理解した。何も疑うことはない。彼女は文字通り、神なのだ。そして、神の絶対的な力を持つのだ。
だから、彼女についてこれ以上考えるのはやめた。人間は近くの及ばないものまで理解することはできない。神様の力を高くすることなんて出来るわけがない。つまり、理解出来るわけがない。だから、その時はただ、神様が与えてくれるその快楽の海に身を投げ出してしまおうと思った。
そして私は、何度も何度も果てて、気絶したら無理矢理起こされて、また何度も何度も果てて……幸福だった。他人から与えられる、こんなにも暴力的な快楽なのに、私は満足なんて忘れたように彼女に制止を乞わず、本能のままに快楽を貪り続けた。
気持ちいい、気持ちいい……それしか考えられなかった。自分の生死なんて考えられなかった。初めて死を覚悟したのは、絶頂と同時に身体中が熱した鉄杭に貫かれたような痛みに襲われた時だった。機械とかでそういう事をされた人がどうなるのかは知らないが、私はずっと彼女からの“命令”で強制的に絶頂状態まで引き上げられていたから、きっと身体も頭も限界が来たんだと思う。そこで初めて、私は彼女に「もう、駄目。」と、声にならない声で制止を乞うた。
彼女は即座に“命令”を止めて、代わりに私の身体を治してくれた。更に、
「二度と、ここに来るな。」
と、言われてしまった。やはり機嫌を損ねてしまったのだろうか。私が図書館に入った時から、彼女はとても不機嫌そうだった。私のせいだと言っている顔だった。
それでも私は、ここに来るまでに一度図書館に引き返してしまって、彼女に殺されても良いからもう一度だけあの快楽を与えてほしいと思った。けれど、図書館の扉に手を伸ばした瞬間、私は気を失って、気付けば街の中に戻ってきていた。きっと、彼女の“命令”の効果だろう。
だから、私は今、空っぽなのだ。快楽を貪ることしかできない獣が、快楽を得る方法を失ったのだ。神からの寵愛を失い、愚かに寵愛を受けていた時のことを思い出しながら、惨めに虚しく生きていくしかないのだ。
「あぁ……ああ……」
絶望、とでも言うのだろうか。私は絶望していた。もう二度と、あの時の快楽を得られないのだと、彼女に会うことが出来ないのだと。
大きく伸びをして、茶色いロングコートに身を包んだ綺蝶が星空を見上げる。三つ編みを肩から前に流しているのは司書とお揃いにする為らしい。
「先輩、帰りましょー。」
その背中に彼女の後輩の女性二人が手を振りながら声をかける。いつも綺蝶が駅まで一緒に帰る二人組だ。
「うん、帰ろうか。」
心なしか、司書と話すときよりも声は低くて、大人っぽく見えた。仕草はどこか艶かしく、後輩二人を魅了しているようにさえ見えた。自分の魅力をよく理解している人間の立ち振る舞いである。
そうして歩き出そうとしたところ、足元の茂みの中から、がさがさと一匹の黒猫がかき分けてきて、綺蝶の顔を見上げる。その口には、白い封筒が加えられていて、彼女が受け取るのを待っているように見えた。
「あら、来たの?」
しゃがみこんで、黒猫から封筒を受け取ると、もう一方の手でその黒猫の頭を優しく撫でた。
「お利口さんね。」
すると、黒猫は鼻を鳴らすようにしてそっぽを向いて、来た道引き返して行った。少し名残惜しそうに空中に取り残された手で、控えめに手を振る。
「綺蝶先輩、飼い猫っすか?」
「デレよりツンが強そうな猫でしたね。」
それを聞いて、綺蝶はうふふと、口元を隠しながら笑う。
「恋人からの手紙を届けてくれるの。滅多に私からの手紙は受け取ってくれないのだけれどね。」
「えぇー! 凄いっすね!」
「そんなこと出来るんですか?」
綺蝶も、あの猫は時折人間の言葉が理解出来ているのではないかと思う事が多々あった。だから、きっとあの猫は司書同様に特別な猫なのだと割り切っている。
封筒を裏返して開き、中から手紙を取り出す。手紙は小さな一枚の紙で、中心に小さく、丁寧とは言えないが綺麗な文字で一言だけ。
『今日は帰らない。』
「……」
綺蝶は絶句した。目と口を大きくあんぐりと開けたまま、その手紙の内容を受け止められずに固まった。
「……嘘だ……」
「どしたんすか?」
「……昨日は少し激し過ぎたのかしら……いや、でも、司書ちゃんはあんなに乱れて……」
もう、周りを気にしている余裕は微塵もなかった。
「キスマーク⁉︎ まさかあのキスマークがそんなに嫌だったの⁉︎ 露出しているのは頸だけでしょ!」
「せ、先輩⁉︎」
綺蝶は突然はっとした。そして、自分の肩から前に流れる三つ編みに手を触れる。
「司書ちゃんの髪型なら……隠せないじゃない……!」
綺蝶は絶望した。
冬は心なしか、風の音が大きい。吹雪いているわけではないのに、窓を叩く風の音が大きく感じる。
今日も変わらず、無表情のまま本を読む彼女は、悴む手を震えさせていた。エアコンやストーブは勿論、暖炉の様な暖房器具はないので、どんなに寒くても、悴んでも、それを回避する術はない。だが、彼女は寒さを気にすることもなく、凍える身体で本を読んでいた。
ここまでして彼女を読書に惹きつけるものは何なのか、或いはそんなものすらないのか。
ほう、と吐き出した息が白く染まり、虚空に消える。差し込む夕日が、微かにその白を暖かく染めた様に見えた。
「魂という名の布を形成するのは、精神という名の細く、脆い糸の束。」
司書は、頭の上に降ってきた、文字通り自分の声にゆっくりと顔を上げる。そこに立っていたのは、司書だった。
「夢という名の布を形成するのは……」
「欲望という名の醜悪で稚拙な糸の束、かしら?」
司書が言い終わるよりも先に、司書が続きを引き継いだ。それを見て、司書は少し不機嫌そうな表情になるが、すぐに元通りの仏頂面に戻る。
「毎日聞かされれば、嫌でも覚えるわよ。」
「……本を、探しているの。」
「それももう聞き飽きたのだけれど?」
椅子に腰掛ける司書は、机を挟んで反対側に立っている司書から視線を外して、机の上に広げられた本を見下ろした。
「探しているのは私の本……そして、同時にあなたの本でもあるわ。」
「七百五十階、何億もの本を読んだ。けれど、私の本はなかったわ。」
「けれどまだ、深淵には達していない。」
「無限の底に到達することなど不可能よ。」
「無限にあるなど、誰も決めていない。」
「いいえ、無限でなければこの世の事象の全てを書き綴ることなど出来ないもの。」
冷静な、しかし激しい口論の末、立っている司書は言い返せなくなって口を閉じた。座っている司書の方は涼しい顔で変わらず本を読んでいた。
「用がないなら帰って頂戴、目障りよ。」
頁をめくりながら、彼女が言う。立っている司書は、奥歯を噛み締めて悲しそうな表情をした。そして、ゆっくりと口を開く。
「いつまで、逃げているの?」
はっとして顔を上げるが、もうそこに彼女は居なかった。そして、虚空を睨みつける構図になる。やがて、自分が無意味なことをしていると知った司書は、溜息を吐いてやれやれと本を閉じる。
別に、彼女は逃げていたわけではなかった。ただ、真実を知った者は、多くの場合絶望させられる。真実の先にあるのは絶望ばかりであると知っていた。だから、見つけられない本を探すくらいならば、本当の自分を知らないまま、静かに司書を続ける方が有益だと思っていた。
だが、黄昏時に現れる“私という彼女”に指摘されて、心の奥底にまだ希望を捨てられないでいるのだと理解した。つまり、絶望するのが怖くて逃げているだけなのだ。
椅子を引いて立ち上がり、机の上をそのままに踵を返し、図書館の奥へと歩いて行った。今日は、彼女の足音が響いているのに、時が止まったままのようだった。そして最奥に待ち構えていたのは、二階へと続くものと同じデザインの、しかし地下へと続く螺旋階段だった。
螺旋階段の前で、立ち止まる。螺旋階段の続く先を見通すように、迷いの見える視線を地下へと送る。そして、漸く意を決した彼女は、ゆっくりと、螺旋階段の柱に手を添えながら、地下へ、否どこかへ、歩き始めた。
この螺旋階段は、文字通り永遠に続いている。彼女は既に地下七百五十階まで降りた経験がある。勿論、道中の本全てを読んで。だから、地下一階も、二階も、三階も、沢山の本が並んでいても全て無視だ。全て彼女は読んだことがある。
彼女がこの螺旋階段を降るのは、自分の本を探すようになってからである。元々は暇な時に新たな本を求めて地下に足を踏み入れていたのだが、いつからか黄昏時になると自分自身が利用客のようにして現れて、自分の本を求めるようになった。記憶の無い彼女はそれを承諾し、自分の本を探すようになったというわけだ。
地下探索で分かったことは、この地下空間は永遠と続いているということだ。この図書館の一階部分の蔵書は、彼女が眠りにつく度に入れ替わる。読んだ事のある本ならば地下空間の蔵書でも関係無く出現することが分かった。
問題はその蔵書数だが、残念ながらそれを知る術はなかった。人は証明をしているようでいて、有限性を証明することは出来ない。つまり、この世界において百パーセント例外がない現象などないということだ。それは観測された例がないだけで、未来で何が起こるかなど分からないからである。何故なら、人間には現在という一瞬しかないからだ。
過去の記憶も、未来の予測も、脳が見せる幻でしかない。或いは現在さえも幻と見間違う事がある。人には夢と現実の差さえも見分けられないのだから。しかし、現在には肉体が伴う。飽くまで自身の存在を証明する事ができるのは自分自身の精神だけだが、肉体は自身の存在証明において非常に重要な要因となる。よって、肉体が世界に存在している現在のみが、精神が存在を証明できる唯一の実存なのである。
現在の自分しか証明の出来ない存在、それが人間。よって、未来における自分の状態を百パーセント証明する事ができる人間は存在し得ない。未来の世界では人間には死という概念さえないかもしれない。また、過去も同様に過去では本当に神話のドラゴンが存在していたのかも知れない。
方法がないから、自然摂理に背くから、物理法則を無視するから、化石が見つからないから、人々は幻想を幻想として現実とはっきりと乖離させる。そして、あったかどうかを断言できないものに対して、勝手に畏敬の念を抱く。
よって、人間は有限性を証明できないのだ。それが当然と信じているだけで、断言するにたる証拠は何もないのだ。自分の産まれさえも証明出来ないのだ、自分の死に様さえも証明出来ないのだ。同様に、司書にはこの図書館が無限に続いていると考えていた。
無限という概念もまた、ある意味では有限性を表しているとも捉えられるが、ここでいう無限というのは、何が起こるかわからない幻想のようなもの、つまり夢幻のことを指す。誰も、何も証明出来ない、何が起ころうとも当然と同じと考えられる空間だ。当然、司書の“命令”が相手に対して絶対的強制力を持つのも道理だ。何せ彼女は、言うなれば夢幻という世界の王なのだから。
さて、どれくらいの間、この永遠へと繋がっている螺旋階段を降り続けたことだろうか。げんなりとした表情で、そして不安で悲しげな表情の司書は、とうとう螺旋階段を降るのをやめて、フロアを一望した。地下室は決して広くはないが、壁が文字通り全て本棚の為、その一室で蔵書数は十分沢山だ。
「……億劫ね。」
溜息混じりに吐き出された言葉は透明色に染まって冷たい無彩色の部屋を虚しく彩った。全ての本を隅から隅まで読む必要性はないが、全ての本をある程度読み進めなければ、どれが自分の本かは分からない。というのも、彼女には記憶がない。自分の名前が分からないので、表紙だけではそれが自分の本か否か判断出来ないのだ。
右の本棚の一番右上の本から順番に読み漁っていく。本棚の前に立ったまま、或いはその場に座り込んで、本棚に凭れかかって読んでいく。
しかし、自分の本は一向に見つからない。開いては閉じ、開いては閉じを繰り返して、更に何階も階下へ降り、何も口にせず、一睡もせずに何日も何日も自分の本を探し求めた。彼女は随分と疲れているようだが、しかし別段腹が減るわけでもなければ眠たくもなかったし、身体的には何ら負担を感じていなかった。彼女にとっての唯一の敵は精神的な負担で、こればかりは夢幻の王たる彼女もどうしようもできないようだ。
逆に言えば、肉体的な負担は彼女の力で全て無効化できているようだ。彼女の命令は絶対、それは自分自身の体に対しても例外では無いらしく、現実とは乖離した非現実的な現象を引き起こす。生理現象を無効化することくらい造作もないだろう。
しかし、いかに本好きであってもこの量の本の中からたった一冊の本を探し出すのは至難の業だ。それも、題名が分からない本を、だ。そんな永遠に続きそうな作業をしていれば、精神崩壊を引き起こしてもおかしくは無い。一体彼女は地下に籠ってから何百冊の本を確認していったのだろうか。
彼女はまたパタリと本を閉じて、溜息を吐いた。そして、本を本棚の隙間に押し込んで、立ち上がる。この階にも、彼女の本はなかったようだ。仕方なく、彼女はまた、螺旋階段を降った。地下八百八階、心はとうの昔に折れていた。どれだけ地下に潜ろうと関係ない。彼女のやることはただ一つ、本を確認することだけだ。
それまでと同じように、一番右端の本棚の一番右上の本に手をかけた。題名、というか名前は最早確認しない。開いてすぐのページに目を落とす。
『その人生は帰蝶という一人の少女の夢から産まれたものだった。』
最初の一文を読んだ瞬間、彼女は呼吸も、鼓動も忘れて固まった。
「きちょう……帰蝶…」
涙が込み上げてきそうだった。けれど、彼女の目から涙が溢れることはなく、蘇った記憶が溢れ出るばかりだった。体が自然と震えてしまう。
私は“怪物”と呼ばれる存在だった。怪物は人の姿をしていない異形で、私は黒猫だった。そんな私に、怪物と人が共存する世界の中で関係を持とうとする存在がいた。それが、帰蝶だった。この世界とは違って苗字はなくて、小さな世界の中には怪物か、日本語と同じ言語体系を持つ人間しかいない。
人間は、知識のない怪物を喰らうことで生きていて、怪物は人間の夢を喰らうことで人になる。それがその世界の構造だった。普段は人間の些細な悪夢を食べながら生きているだけの怪物だが、人間が願い続ける夢を喰らうと、その人間の姿を奪って、人間になることが出来る。だから、知恵を得た怪物達はきまって、夢を見る幼い子供達と関係を持って、その夢を喰らおうとする。
当然、私も怪物で、彼女の夢を喰らうために近づいてきた彼女を利用することにしていた。彼女から夢を聞き出せば、すぐに夢を喰らって人間になるだけだと思っていた。しかし、彼女は私に言った。
「夢なんて無いよ? 私は怪物さんにこの体をあげたかったの。」
頭が狂っているとしか考えられなかった。しかし彼女は、その日以来ずっと私の元に通い、学校で何があっただとかどんな夢にしようかなだとか言っていた。私はそれが、心地よかったのだと思う。そんな平凡な日々が得られるならば、怪物のままでも別にいいと思った。
彼女と出会ってから実に十年の時が経った。彼女は十七歳になっても、私の元に通い続けた。
「早く誰かお相手を見つけたらどうなの?」
「私男に興味ないんだよねー。でもレズだってバレたら面倒だからいいよ。」
なんて、私らしくも無い話をしたこともあった。そして、らしく無いのは帰蝶も同じだった。なんでも、夢が決まったそうだが、私に言いたく無いそうだ。私は最早夢などいらなかったから、適当に彼女を笑って誤魔化していた。
それでも彼女は、私に夢を打ち明けた。いらないと言った、食べないと言った。それでも、彼女は私に夢を主張し続けた。どうしても食べて欲しいと。この夢から、私を覚まさせて欲しいというのだ。
彼女の夢は、たくさんの人々を救うことだった。夢を喰らうか否か、迷った。理由の一つは、夢を喰らえば、その夢を全うするために力を与えられる点だ。幻を見せたり、寿命を引き伸ばしたり、自然現象を操ったりするもので、こんな夢を喰らえば、どんな力を与えられるのか分からないのが怖かった。それを全うすることが、私の人生の目的と定められてしまうからだ。
もう一つの理由は、夢を喰らわれた人間は、死んでしまう点だ。夢の中なった人間の精神は一瞬で廃れ、無理やり脳に負荷をかけてオーバーヒートさせて死んでしまう。つまり、彼女を殺すのが怖かった。
勿論、世界は違えど私がこの世界に人間の姿で存在しているということはつまり彼女の夢を喰らったということになるわけだが。だが、食らった結果得られた力がこれで、人々に絶望を与えて新たな希望を、現実の中に見出させることが人を救うことになるとは思わなかった。全くの予想外で、どうしても孤独な私は孤独な黒猫だった時よりも寂しいと感じた。一人でいるのが、怖かった。
気づいた時、彼女は家に帰ってきていた。綺蝶と二人で暮らす、女の二人暮らしには少し広過ぎるくらいの一軒家だ。記憶が曖昧だった。だけれど、彼女は綺蝶にどうしても伝えたいことがあった。
鍵穴に鍵を差し込んで、ゆっくりと回す。ガチャリと音が鳴って、扉は開いた。心臓の音がうるさいのがよく分かった。彼女の事を焦らせるように、あるいは乱暴に殴りつけるように大きな音を鳴らしている。家の中に体を滑り込ませて、後ろ手に扉の鍵を閉めた。その間に、バタバタとニット姿の綺蝶が現れた。
「司書ちゃん! どこ行ってたの⁉︎」
司書は、口を開かずに、靴を脱ぐことも忘れてそのまま廊下に上がり込んで、綺蝶に抱きついた。心臓の音はうるさかったのに、もう気にならなかった。彼女の左肩に、自身の額を押し付ける。存在を確かめるように強く、縋り付くように必死に。綺蝶は、彼女の微かに聞こえる嗚咽から、彼女が泣いていることを知ると、驚きながらもそっと、彼女の背中に手を回した。
「どうしたの?」
聖母のような微笑みで、綺蝶が尋ねる。頭を優しく撫でながら、背中を強く抱きしめて。まるで産まれて間もない赤子をそっと抱き抱えるように。
「……レム。私の名前は、レム。」
消え入るような声で司書……レムが言った。あの時、閉じた本の題名を見たことを思い出す。題名に冠されたたった二文字の名前、それが自分の名前だった。
綺蝶もそれを聞いて驚いて、レムを抱きしめる手に力が入った。石化したかのように、鼓動を失って固まった。鼓動が速くなるのが、彼女自身わかった。それを隠す暇もないほど、嬉しかった。
「あなたと同じ名前の女の子が、つけてくれたの……」
綺蝶の肩が、レムの涙で濡れる。しかし、互いにそんなことを気にしている余裕はなかった。
「ありがとう……ありがとう…」
どうしてその言葉が口から発せられたのか、レム自身もよくわからなかった。けれど、その言葉しか知らないように、ゆっくりと、彼女に囁き続けた。
「レム……レム、ありがとう、ありがとう……!」
綺蝶も、涙を流した笑顔でそれを返した。何度もレムと、彼女の名前を呼びながら、互いに、理解の及ばない魂の感謝を伝え続けた。レムの鼓動は、幸せな音を奏でていた。
「司書、随分と機嫌が良さそうだな?」
「……夢を見ているの。」
「……吾輩には分からない。吾輩も夢を喰らえば分かるのだろうか?」
「さぁ、シュレディンガーの猫、よ。」
読んでいただきありがとうございました。
あなたは、もしもこんな図書館があると知ったら、彼女に会いに行くでしょうか。自分探しの旅に出かけることになったとしても、絶望の淵に沈んでしまうと分かっていても……
希望という概念の二面性を描いたつもりでしたが、読者の皆様に何かが伝われば嬉しいです。