第二章 岩人形(1/5)
後悔先に立たず。今ほどその言葉が骨身に染みることもないだろう。カリスタはどんよりと顔を曇らせると、誰に向けてでもなく大きく溜息を吐いた。
首都シモンズ。その東部に位置する一画。監獄区。大勢の亜人が暮らしているその区画の人気のない路地に寂れたホテルが立っている。そのホテルは大人の男女がベッドを共にする施設、いわゆるラブホテルであるのだが、そのラブホテルの一室にて今――
カリスタは目を覚ましたばかりだった。
早朝七時。カチカチと秒針を刻んでいる置時計をぼんやりと眺めつつ、カリスタはまた大きく溜息を吐いた。部屋の中には彼女以外に誰もいない。そしてこのベッドで夜眠りにつく時も彼女は一人であった。
魔導教学院の学院長にして、カリスタの父親であるネイト・マリオット。その父の知人だという亜人の男。特徴的な黒白髪をした青年――ヴィンス。その彼と細かな情報交換をして昨日は一日が終わった。そして昨夜、宿泊先のないカリスタにヴィンスがこのラブホテルの部屋を借りるよう指示してきたのだ。
「お前も捜索についてくるんだろ? だったら近くに寝泊まりしているほうが都合いいだろ。心配しなくてもお前は成功報酬だ。依頼が完了するまでは手を出さねえよ」
そうニヤリと笑うヴィンス。だが正直なところ彼の言葉などまるで信用できなかった。
ピエロにさらわれた友人。ネル・シンプソン。カリスタは彼女を助けるためにヴィンスに仕事を依頼した。魔導士である彼女に辛辣な言葉を吐きながらも、依頼は請け負うとしたヴィンス。だが彼はその報酬として――
カリスタの体を要求してきたのだ。
窓から差し込む暖かな陽射し。爽やかな朝だというのに、カリスタの表情が優れないのはそれが原因である。友人であるネルを助けたい。その気持ちに偽りはない。それを果たすためなら何でもする気持ちで監獄区を訪れた。だがしかし――
この展開はあまりに予想外であった。
「私まだ初めてなのに……」
陰鬱な気分で独りごちる。
当然ながら、友人の命と自分の貞操を比べるなど愚かしいことだ。自分がヴィンスに抱かれることでネルが助かるのなら、喜んでその条件を呑むべきなのだろう。その理屈は分かっている。分かっているのだが――
理屈でない何かがそれを拒絶していた。
「しかもその理由が最悪だし……」
ヴィンスがカリスタの体を要求した理由。それはカリスタが魅力的な女性だからではなく、魔導士の彼女にとってそれが一番屈辱的だと彼が考えたためだ。
あまりに性根が腐っている。カリスタは頭を両手で抱えると、嫌らしくニヤついているヴィンスを脳裏に浮かべつつ金色のポニーテールを悩ましく左右に振った。
「やっぱりあんな男に依頼するのは止めようかしら! だけどネルは助けなきゃいけないし! 他にあてもないし! ああもう! 私はどうすればいいのよぉおお!」
「何を一人でぶつくさこいてんだ?」
「――っきゃあああああああああああ!?」
ベッドから転げ落ちる。頭を強かに床に打ちながらも、カリスタは聞こえてきた声に視線を向けた。ベッドのすぐ横に黒白髪の青年――ヴィンスの姿があった。
怪訝な顔をしているヴィンス。包帯の巻かれた顔の左半分を、同じく包帯の巻かれた左手でポリポリと掻いているその彼に、カリスタは立ち上がりざまに声を荒げた。
「ちょ、ちょっと! 勝手に人の部屋に入らないでよね! ノックぐらいしなさいよ!」
「なんでそんなしなきゃいけねえんだよ?」
「常識じゃない! もし私が部屋で着替えとかしていたらどうするつもりなのよ!」
「カメラで撮影するだけだ」
「なに物的証拠残してんのよ!」
目尻を尖らせて憤慨するカリスタに、ヴィンスが煩わしそうに耳を掻く。
「うっせえな。人様に自慢できるような体でもねえくせに自意識過剰なんだよ。んなことよりも出掛けるぞ。さっさと準備しろ」
ヴィンスが一方的にそう告げてくる。怒りが収まらないながらも、カリスタはヴィンスの言葉にきょとんと目を丸くした。
「出掛けるってどこに? もしかしてネルの居場所に心当たりがあるの?」
期待を込めて尋ねるカリスタだが、ヴィンスは「いや」とそれをあっさり否定した。
「お前の依頼と並行して別の依頼も受けていてな、これから依頼主に報告をしに行く」
「別の依頼って――そんな悠長なことしている余裕なんてないのよ! 早くネルを助けないと殺されちゃうかも知れないじゃない!」
「つくづく喧しい女だな。俺は人気者なんだよ。お前にばかり構ってやれるか」
包帯の巻かれた左手を適当に振り、ヴィンスがニヤリと意地悪い笑みを浮かべる。
「だが俺も時間を無駄にする気はねえ。お前から報酬を受け取れないのは困るからな」
思わず顔が赤くなる。こちらの反応を楽しむようにヴィンスがクツクツと肩を揺らす。
「その生意気な態度がベッドでどう乱れてくれるか。楽しみだなオイ」
「最低! どういう神経しているの!」
「口を開けば亜人を罵るような魔導士が、都合の悪い時だけ人道を求めてんじゃねえ」
ヴィンスの反論に言葉が詰まる。魔導士による亜人の偏見。それを指摘されると、魔導士であるカリスタは何も言えなくなってしまう。悔しさを滲ませるカリスタに、ヴィンスが気楽に肩をすくめる。
「まあ落ち着け。これから会う依頼主はえらい情報通でな、監獄区内での出来事はおおよそ把握している。報告のついでに、お前の依頼にかんする情報収集もしようってことだ」
「……それなら余計なこと言わないで、それだけを言えばいいじゃない」
「話も聞かずに騒いだのはお前だ。何にせよ早くしろ。そろそろ奴も戻ってくる頃だ」
そのヴィンスの言葉に、カリスタは怪訝に眉をひそめた。
「奴って……誰かここに来るの?」
「俺の仕事の手伝いをしているバイトだ。そろそろ合流する時間なんだが――」
「もういるよ」
真横から聞こえてきた突然の声に、またカリスタは「きゃあああああああ!」と悲鳴を上げて飛び退いた。心臓をドキマギさせながら声に振り返る。そこには――
顔色の悪い青年が一人立っていた。
年齢は二十代前半ほど。くすんだ色のブラウンの髪に青白い肌。目尻の垂れたブラウンの瞳に血色のない唇。鎖を輪にしただけの首輪。服装はよれよれのワイシャツとズボンで、足先にはサンダルが引っ掛けられていた。
いつの間にか部屋に入り込んでいたその青年に目を丸くする。だがすぐにカリスタはその顔色の悪い青年に見覚えがあることに気付いた。
「あ……アナタは昨日、軍の人にぶつかったとかでひどい目に合わされていた?」
「うん、そうだよ。昨日はボクを軍から庇おうとしてくれてありがとね」
死人のような青白い顔にニコリとした笑顔を浮かべる青年。何とも物腰柔らかいその青年に、ヴィンスが顔をしかめながらポツリと尋ねる。
「どっから現れたんだテメエは?」
「窓からだよ。待ち合わせていた部屋の番号をド忘れしちゃってさ。どうしたものかと思っていたら建物の外に彼女の声が聞こえてね。こうして直接乗り込んだというわけさ」
いつの間にか開いていた窓を一瞥して「ここ二階だぞ?」とヴィンスが嘆息する。ラブホテルから自分の声が漏れ聞こえていたとなるとかなり恥ずかしいが、それはそれとしてカリスタは先程から気になっていることを青年に戸惑いながら尋ねた。
「どうして右腕が……無事なの?」
この顔色の悪い青年は昨日、クレイグの魔法により右腕を肩口から切断されたはずだ。だがどういうわけか今の青年には右腕がしっかりとついている。困惑するカリスタに、顔色の悪い青年が右腕を振りながら答える。
「うん? この右腕ならもう大丈夫だよ。ついたから」
「ついたって……人の腕がそんな簡単にくっつくわけがないじゃない」
「本当だって。ほらグルグルグルー」
右腕をクルクルと回して自身の言葉を証明する青年。一体どういうことだろうか。普通に考えれば魔法で腕を接着したということだが、これほど後遺症もなく治療できるものなのか。そうつらつら考えていると――
ブチッと音が鳴り、青年の右腕が袖口からすっぽ抜けてポーンと宙を舞った。
「――きゃあああああああああああああ!?」
足元に落下した青年の右腕に、カリスタは悲鳴を上げて後退りした。顔色の悪い青年に負けないぐらい顔面を蒼白にするカリスタ。だが当の青年はというと、ちょっとしたヘマをしたような様子で、「あちゃー」と左手でポリポリと頭を掻いていた。
「無茶し過ぎちゃったか。まだ完全にはくっついていなかったみたい」
「相変わらず能天気な野郎だ。気味悪いからさっさと千切れた腕を拾いやがれ」
顔をしかめるヴィンスに「気味悪いはひどいよ」と苦笑して、顔色の悪い青年がすっぽ抜けた右腕を拾い上げる。そしてその右腕を袖口から通して肩と右腕の切断面を密着、そのまましばらく断面を合わせていると――
切断されているはずの青年の右手指先がピクピクと動き出した。
唖然とする。右腕を確かめるように軽く振り、顔色の悪い青年が満足げに笑う。
「これで良しっと。ただまあしばらくは激しい運動は禁物かな?」
「……い、一体何なの……アナタは?」
声を震わせるカリスタに「自己紹介をしてなかったね」と顔色の悪い青年が笑う。
「カリスタ・マリオットだよね? 君のことはヴィンスから聞いているよ。昨日も会っているけど改めて初めまして。ボクの名前はテッド。『屍人』に変異した亜人だよ」
「『屍人』に変異?」
首を傾げるカリスタに、顔色の悪い青年――テッドがこくりと頷く。
「亜人の中には体そのものじゃなくて、体質に変異が起こる場合もあるんだ。ボクは生きたまま死んだ状態という体質でね、腕が切られるとか程度の怪我ならたいした痛みもなく、こうして自然と回復できるんだ」
話に聞いたことがある。体質が変異した亜人はまれに特殊な能力を持つという。切断された右腕をあっさりとつなげたテッドの異常な回復力。これがその能力ということか。
「だ、だけど……切られた時はすごい血が出てたじゃない? 本当に大丈夫なの?」
「ああ、あの血? あれは違うよ。あの血はえっと……コレさ」
テッドがポケットから何かを取り出す。小さなビニール袋に包まれた赤い液体。ぽかんと目を瞬くカリスタに、テッドが液体を揺らしながら言う。
「ボクはいつも血のりを持ち歩いているんだ。カリスタが見た血はこれだよ」
「血のりって……何でそんなもの?」
「ボクは怪我をしても血が出ないからね。だけどそれだと周りから気味悪がられるだろ? だから怪我をした時はこの血のりで周りの目を誤魔化すようにしているんだ」
「下らねえお喋りは後にしやがれ。テッド。例の物はちゃんと持ってきたんだろうな」
ヴィンスの言葉に、テッドが血のりを片付けて「もちろん」とシャツをめくり上げた。テッドのズボンに数十枚もの紙の束が挟まっている。テッドが紙束をズボンから引き抜いてヴィンスに手渡す。ヴィンスが受け取った紙束をめくりその中身を確認する。
「問題なさそうだな。これでアイツの依頼は問題なく終了だ。おらカリスタ。ぼさっとしてねえで、さっさと出掛ける準備しやがれ」
「だったら一度部屋から出て行ってよ……ていうか、その紙の束は何なの?」
「守秘義務があるが……まあいいだろう。協力してもらった礼として教えてやる」
「協力?」
身に覚えがない。疑問符を浮かべるカリスタを無視して、ヴィンスが説明を始める。
「この資料はクレイグの野郎から盗んだものだ。わざと野郎ともめごとを起こし、奴の目が俺やお前に集中している隙に、テッドが奴のスーツケースから拝借したのさ」
「わざと……ええええ!? 昨日の騒動ってアナタたちの仕組んだことだったの!?」
ぎょっと目を見開く。驚愕するカリスタに、ヴィンスがハラハラとその資料を揺らす。
「俺たちが知り合いである時点で、その程度のこと察しておけよ。本来は俺一人で奴の気を引くつもりだったんだが、お前のおかげで奴の意識が完全に逸れて助かったぜ」
「なに勝手なこと言ってんのよ! 私まで巻き込んで結構危なかったんだからね!」
「お前が勝手に巻き込まれたんだろ。知ったことじゃねえな」
こちらの非難をあっさりと一蹴して、ヴィンスがテッドに向き直る。
「それでテッド。クレイグの野郎を見張ってたんだろ? 野郎はもうこの資料を盗まれたことに気付いてたか? だとすれば随分と慌てたんじゃねえか?」
「いや。彼の宿泊しているホテルを観察している限り、そういう動きはなかったね」
「んだよ詰まんねえ。まあいいか。いずれは気付くだろうしな。その時に奴がどう行動するのか、念のため注意を払っておかねえと」
「多分その必要もないんじゃないかな」
テッドの返答にヴィンスが眉をひそめる。「だって」とテッドが指を立て――
「クレイグはどうやら昨日の晩に――殺されたみたいだからね」
軽い口調でそう話した。