プロローグ(1/1)
その日は朝から強い雨が降っていた。上空に広がる分厚い暗雲。そこからこぼれ落ちる無数の雨粒。バケツをひっくり返したようなその大量の雨粒が、地面に叩きつけられてパチパチとした喧騒を周囲に満たしている。
彼はその喧騒をぼんやりと聞きながら小さく溜息を吐いた。デリック・フォード。国軍に勤めている二十代前半の青年だ。青を基調とした国軍の制服。その上から羽織ったレインコートを忙しなく叩く雨粒の騒音。その音に紛れさせて彼は愚痴をこぼす。
「……退屈だ」
デリックは今、高級住宅街にある一棟の屋敷を警備していた。屋敷の主は六十歳のアルバート・スキナー。当代を代表する魔導士の一人であり、特に医学界で優れた功績を残している男だ。その老人の屋敷の門前が彼の警備担当となっている。
アルバートから軍に警備の依頼があったのは一週間前のことだ。政治的な力もあるアルバートの依頼ということもあり、軍は破格の人員を投じてその警備を請け負った。
アルバートが警備を必要とした理由。それは二等兵に過ぎないデリックには伝えられていない。だが彼自身それに興味などない。彼は与えられた仕事を粛々とこなすだけだ。
(そのつもりだったんだけど……)
こうも何も起きないとさすがに退屈だ。警備を依頼した以上、アルバートは何かしらの危険を感じていたということだ。だがこうして門前に立ち尽くすこと一週間。これといった問題は起こっていない。有名人だというのに訪問者すら皆無なのだ。
(いや……今日は一人だけいたか)
ほんの一時間前に一人の女学生が屋敷を訪ねてきた。十代半ばほどの銀色の髪をした可愛らしい女の子だ。だが彼女の頭部からは羊のような角が生えていた。つまり――
その女の子は亜人なのだ。
(亜人の女の子が、よりにもよってこの屋敷を訪ねるなんてな)
眠気を覚えつつそんな取り留めのないことをつらつらと考える。すると――
突如背後にある屋敷の屋根が吹き飛んだ。
先輩の軍人がぎょっと目を見開いて、門をくぐり屋敷へと駆ける。デリックも慌てて先輩の後を追いかけ、屋敷の前に立ち止まり頭上を見上げた。一般宅の数倍はあるだろう巨大な屋敷。その赤い屋根の一部が破壊されている。そしてその破壊跡のそばに――
黒コートの何者かが立っていた。
「……何だ? アイツは……」
呆然と先輩が呟く。上空に広がる分厚い雲。そこから降り注いでいる雨粒。その雨粒に激しく打たれながら、赤い屋根の上に佇んでいる黒コートの人物。見覚えのない人物だ。というか見覚えのある人物であるか否かの判別さえできない。
なぜならその人物の顔は、ピエロの仮面により隠されていたからだ。
屋根の上からこちらを見下ろしている仮面の人物。その仮面にある陽気なピエロの笑顔がこの状況にあまりに不釣り合いで、言いようのない不気味さを帯びていた。
ここでふとピエロの首元に視線が触れる。頭に深く被さったフード。その暗がりに隠されたピエロの首元には、無骨な鋼鉄の首輪が付けられていた。
「あいつ……監獄区の亜人か? 牢に閉じ込められているはずの亜人がなぜここに」
ピエロの首輪に気付いたいのだろう。先輩がそう誰にともなく呟いた。ここで屋敷の周囲を警備していた同僚が、物音に気付いて屋敷の前に集まってきた。屋敷の中を警備していた者も玄関前に現れて、屋根に佇んでいるピエロを見上げる。
屋敷を警備していた軍人の大半が集まったところで、ピエロが右手をおもむろに前にかざした。ピエロの手に何かが握られている。それは――
人間の頭部に見えた。
「あれは――アルバート様!?」
一番年かさの軍人――本警備の指揮官――がピエロのかかげた人間の頭部に声を上げる。警備の依頼主であるアルバート・スキナー。ピエロの右手に握られた頭部は確かに遠目ながらその老人の頭部に見えた。
「くそ――奴を捉えろ!」
指揮官の命令に、数名の軍人がピエロに向けて両手をかざした。彼らのかざした両手に青白い光で描かれた魔法陣が展開される。
本警備のために呼び集められた卓越した魔導士。その彼らによる魔法がピエロに向けて放たれた。魔法陣から放たれた炎や稲光、突風や光の矢が、ピエロへと一直線に突き進む。魔法の直撃を受ければ生身の人間などひとたまりもない。だがここで――
ピエロの眼前に魔法陣が高速展開された。
ピエロの展開した魔法陣の障壁に、軍人から放たれた魔法が軽々と弾かれる。唖然とする魔導士たる軍人たち。指揮官が見開いた瞳を震わせる。
「馬鹿な……監獄区の亜人が魔法を使うなど……あり得ん」
軍人に動揺が広がる。ピエロがかざしていたアルバートの頭部を脇に下ろし、膝を折って屈みこんだ。そこでデリックは気付く。ピエロの足元に誰かが倒れている。それは銀色の髪に羊のような角を生やした女の子で――
つい先程アルバートの屋敷を訪ねてきた女学生の亜人であった。
「この娘は監獄区へと連れて帰る」
ここで初めてピエロが声を発した。奇妙な響きのある声で、男性のものか女性のものか判別できない。恐らく魔法で声色を変えているのだろう。
「監獄区だと? 貴様は何者だ。監獄区の亜人がどうしてこの場にいる?」
苦い顔をした指揮官の問いに、ピエロが女の子を右腕に担ぎながら答える。
「私は五十年の亡霊――亜躯魔」
驚愕に揺れる軍人。唖然とするこちらに亜躯魔を名乗るピエロが淡々と言う。
「私の目的は貴様ら魔導士への復讐だ。亜人を監獄区という牢に閉じ込め、不当に虐げる貴様ら魔導士に鉄槌を下す。そのために存在する亜躯魔こそが――この私だ」
「戯言を! 貴様はここで何をしている! その右手のものはまさか――」
「アルバート・スキナー。不当に亜人を虐げてきた罪人の首だ」
抑揚なく告げられたピエロの言葉に、指揮官が怒りも顕わにする。
「ふざけるな! 貴様のような薄汚い亜人にアルバート様がやられるはずがない!」
「裁きを受けるべきはこの男だけではない。これまで執拗に亜人を苦しめてきた魔導士。この男の意志と姓を継いだ生徒――クレイグ・スタンプ・スキナー、ジーン・レイ・スキナー、そしてニック・デナム・スキナー、この者もまた裁きを受けるべき罪人だ」
「なんだと――」
「私は監獄区にいる」
目を尖らせている指揮官に背を向けて、ピエロが言葉を続ける。
「この男の生徒に伝えておけ。私を捕らえたくば監獄区に――亜人の街にまで来いとな。そこで貴様らの罪を清算してやる。貴様らが犯した罪の重さを理解させてやる」
ピエロが僅かに振り返り――
その声に狂気の気配を混ぜた。
「貴様らが亜人にしたように、この私が貴様らの身を切り刻み焼き払ってくれるぞ」
ピエロが屋根から跳び下りて屋敷の裏側に姿を消す。「奴を逃がすな!」と声を上げる指揮官。その指示に従い、その場にいた軍人が一斉に屋敷の裏側へと駆けていく。当然デリックもそれに続くべきなのだが、彼は呆然として動くことができないでいた。
亜躯魔を名乗るピエロ。その目的は亜人を虐げてきた魔導士への復讐だという。言い掛かりも甚だしい、などとは言えないだろう。歴史的事実として確かに――
魔導士は亜人を苦しめてきたのだから。
振り続けている雨がさらに強さを増す。レインコートを突き破らんばかりに叩きつけられる雨粒。徐々に冷やされていく体。見上げていた視線を下したその時――
デリックの背筋がゾクリと震えた。