18 思い出と記憶5
「だ、大丈夫?」
「ごめん、ちょっと気分悪くなっちゃって。手を貸してくれて助かったよ」
「顔、真っ青じゃない。汗もビッショリかいてるし」
「だって華恋に会いたかったから」
「……え」
倒れそうになった瞬間に彼女が駆け寄って来る。持っていたキャリーバッグから手を離して。
「とりあえず椅子に座ろ。あそこ空いてるから」
「だ、大丈夫。それより話したい事があるんだ」
「でも…」
親切な提案を即座に拒否。辺りを見回すが小田桐さんの姿が見当たらなかった。
「昨日、智沙の家に泊まったんだって?」
「え……あ、うん。本当は昨日の新幹線で出発するハズだったんだけど」
「どうしてズラしたのさ。ていうかどうして延長したならうちに帰って来なかったんだよ」
「そ、それは…」
「僕の顔を見たくなかったから?」
「……うん」
彼女の返事が胸にチクリと突き刺さる。その内容が予想通りすぎて。
「自分ではちゃんと決意出来たつもりだった。けど急に淋しい気持ちが湧いてきちゃって」
「決意…」
「とにかく誰でも良いから悩みを聞いてほしかったの。ずっと抱えてた不安や愚痴を」
「それで智沙の家に?」
「ん…」
どうやらこの行動は意図的な物だったらしい。突発的なトラブルが起きた訳ではなかった。
「なら小田桐さんは? 彼女と一緒に行くハズだったんじゃないの?」
「茜ちゃんはもう向こうに住んでる。あの子は4日前に荷物も全部持っていったから」
「じゃあ華恋だけが一時的にこっちに戻ってきたって事?」
「そう……だね」
「どうして駅で小田桐さんと待ち合わせしてるなんて嘘ついたのさ。1人だと分かってるなら皆でここまで見送りに来たのに」
「ダメだよ、そんなの」
「何が?」
「だってそんな事したら……意思が鈍っちゃう」
彼女が腕を離して俯く。陰りのある表情を浮かべながら。
「雅人の顔を見たら私はきっと踏ん切りがつかなくなる。次の列車に乗ればいい、これを逃したらまた次の列車にって」
「え?」
「どうしようも出来ない事なら諦めもつくけど、自分の力で動くのはダメ。誰かに背中を押されでもしない限り足を動かせないもん」
「な、何が…」
「だから自宅で別れようって決めたの。そこから先は引き返さず、何も考えずに歩き続けようって」
「華恋?」
「……でもやっぱり出来なかった。最後の最後で誰かに甘えたくなっちゃった」
名残惜しいから知り合いに泣きついたのかもしれない。それなら出発を1日遅らせた事実にも納得。
ただその道は彼女自身が選んだ進路のハズ。家族には気丈に振る舞っていたのに友達に甘える意味が分からなかった。
「智沙に全ての事情を話したら泊まってけって言われちゃった。だから1日だけお世話になる事にしたの」
「……智沙はお節介だけど良い奴だからね」
「本当は東京に行くの嫌なんだよ。私はここにいたい。今までみたいにずっと皆の側にいたい」
「そうなんだ…」
「けどこれは自分で決めた事だから。自立してちゃんと1人で生きていけるようになろうって」
「じゃ、じゃあさ…」
「智沙にも言われたよ、頑張れって。嬉しかった……私の事を本気で応援してくれる人がいて」
頭にある考えがよぎる。都合の良い解釈が。
「だから私はちゃんとこの場所まで来れた。でも雅人が追いかけてくるなんて思ってもみなかった」
「だ、だって智沙に言われて……じゃなくて華恋に会いたかったから」
「ダメじゃん、追いかけてきたら。そんな事されたら……私、また泣きつきたくなる」
「……誰に?」
「さぁ、誰でしょうね」
彼女がキャリーを持つ手とは反対側の手で瞳を擦った。いつの間にか流れていた雫を擦る為に。
「向こうに行くのは何で? 嫌ならこっちに残ってれば良いじゃないか」
「だからそれは…」
「自立ならこっちでも出来る。わざわざ上京なんかしなくったってアパートを借りて1人暮らしすれば良い。でしょ?」
「それだとダメなんだよ。ここから離れないと意味がないんだってば」
「どうしてさ」
「……ん」
今度は黙り込んでしまう。目を合わせず地面の方ばかり見ていた。
「それも僕に会いたくないから?」
「うん」
「ならまだ嫌いなの?」
「えっと…」
「だったら追いかけたり引き止めようとしたら怒るんだ。必死で華恋にしがみついたら」
「そうだね。それはやめてほしいかな…」
問い掛けに対して返ってくるのは否定的な意見ばかり。同時に心の中には確信めいた予感が生まれていた。
「もう1つだけ聞きたいんだけど」
「何?」
「僕の事好き?」
「……っ!」
「教えてほしいんだよ。最後だから」
発した台詞に目の前の肩がピクリと震える。動揺を表すように。
どんな答えが返ってくるかは不明。本音を語ってくれるかも。それでも尋ねずにはいられなかった。頭の中はその事でいっぱいだったから。
「……好きだよ、雅人の事」
「な、なら…」
「本当はずっと好きだった。退院した後や、卒業してから今この瞬間もずっと」
「え?」
「だから嫌だった。雅人が茜ちゃんと2人で出掛けたり、バレンタインに他の子からチョコを貰ったりしてたのが」
「華恋…」
小さく名前を呟く。意図も意味も込めていない台詞を。
「凄く苦しかった。胸が締め付けられる感じでドンドン涙が出てくるし」
「意味が分からないよ。好きなのに興味の無いフリなんて…」
「……だって仕方ないじゃん」
「何がさ?」
「私が雅人を好きになったせいで、おじさん達に嫌われちゃったんだよ? 私のワガママが家族を壊しちゃった」
「じゃ、じゃあ…」
「消えようとしたのにそれもダメだった。だから私は誰にも迷惑がかからない方法でこの街からいなくならないといけない」
どこかで聞いた事がある言葉が耳の中に侵入。それはベランダからの転落事故を表していた。
「もしかして今まで距離を保とうとしてたのは…」
「雅人の為。強いていうならこれ以上溢れ出る気持ちを我慢出来ない私自身の為かな」
「なら僕の事もう好きじゃないってアレも…」
「……嘘だよ」
「それじゃ進学を取りやめたり、家を出て自立したいって言い出したり、今この場所に立っているのも…」
「全部嘘。本心に抗って私は今日まで過ごしてきた」
「そんな…」
どうやら最初から何も変わっていなかったらしい。あの日からずっと。
思い返せば納得出来る。なぜ病室で目覚めた時に記憶を失っているフリをしようとしたのかを。
「本当は黙ってるハズだったのに…」
「自分の気持ちを?」
「……うん。内緒のままで今の家から離れて、そうすれば雅人とも別れられるって思ってたから」
「そうなんだ…」
「でも出来なかった。最後の最後で……言っちゃった」
彼女が不自然な作り笑いを作成。ただし喋る唇は小さく震えていた。
「……うっ、あぁあぁぁっ!」
「ぐっ…」
「ごめん、ね……ごめんね、雅人」
場に歪な声が響く。感情の堤防が決壊した人間の嗚咽が。
「んっ…」
どんな気持ちだったのだろう。好きな相手を忘れる為に本心と真逆の行動を取り続けなくてはならないなんて。自分には到底出来ない。そのせいでここ2ヶ月もの間、悩み苦しんでいたのだから。
「華恋…」
「……何?」
ずっと欲しかった。家族でも友人でもない支え合える存在が。失ってしまったと思っていた恋愛感情を。
けど消えてなんかいない。初めから何も変わってなんかいなかった。
その気持ちさえあれば頑張れる。大好きな妹が慕い続けてくれるならどんな困難にだって立ち向かえる。そう何度も自身を鼓舞しながら震える体に向かって手を伸ばした。
「向こうに行っても頑張って。華恋なら大丈夫だから」
「え…」
「この不甲斐ない兄貴と違って優秀だからどんな場所でも生きていける。器用な性格だもん、平気だよ」
「まさと?」
「料理だって出来るし喧嘩だって強いし。それに人に好かれるタイプだから、華恋は」
「ぐすっ…」
「小田桐さんだってついてるし、助けてくれる人もちゃんと周りにいる。だから安心して送り出せる」
思い付く言葉を次々に紡いでいく。上手く回らない呂律で。
「僕もこっちで頑張るね。1年間しっかり勉強して、来年こそ本当に大学に行ってみせるよ」
「……ん」
「お互いに前へ進んでいこう。それぞれのやりたい目標に向かって」
「あ…」
「華恋が戦ってる姿を見れば自分も立ち向かっていける。辛い事があったって頑張ってる妹の姿を想像すれば負けてられないと思えるハズだから」
続けて肩に添えていた右手を髪の方に移動。何度も触れてきた頭を優しく撫でた。
「でもどうしても辛くなったら誰かに頼ろう? 小田桐さんでも良いし、向こうに行ってから知り合った友達でも良いし」
「……うん」
「それに呼んでくれれば僕も行くから。淋しくなったらすぐにそっちに駆け付ける」
「え…」
「だから忘れないで。華恋にはちゃんと心配してくれる家族がいるって事を」
「まさ……と?」
「いつか胸張って会える日が来るよう頑張るよ。やりたい事だって見つけるから」
次第に視界がボヤけてくる。波紋の発生した水面のように。
言いたい事がたくさんあるのに上手く喋れない。言葉も呼吸も詰まっていた。
「うあぁあぁぁっ、あぁ!!」
「大丈夫だから。ちゃんと好きでいるから」
「んっ、うん……うん」
「誰に何を言われても迷ったりしない。華恋を見放したりなんか絶対にしないよ」
「私も雅人を……んっ、嫌いになんか、ならない」
「そうだよね。だって家族なのに別々の人生なんて悲しいもん」
飛び込んできた体を力強く抱き締める。コートに包まれた温かい体を。
やがて乗るハズだった新幹線が到着。ホームに真っ白な車両が流れ込んできた。
「じゃあ……私、行くね」
「うん。元気で」
「バイバイ、雅人」
「……バイバイ」
ドアから中に乗り込んでいく姿を見守る。キャリーバッグを引く背中を。
しばらくすると窓際の席に座る彼女を発見。話しかけながらその場所へと近付いた。
「向こうに行っても元気でね。頑張るんだよ」
叫ぶ勢いで口にする。激励の言葉を。その声が本人に届いたかどうかは分からない。ただ不器用な動作で小さく手を振り返してくれた。
「あっ…」
そして別れの時間はあっという間に訪れる。大勢の人間を乗せた列車は互いの距離を引き離すように走り始めた。
「ハァッ、ハァッ…」
小走りで彼女を追いかける。辺りにいる人達にぶつからないよう気を付けながら。
「またね!」
やがてホームの端に到着。スピードを上げた車体は人間の足では追いかけられない程の速さで視界から消えてしまった。
「……行っちゃった」
無意識に甦ってくる。彼女と過ごした今日までの毎日が。
何度も喧嘩をした。何度も言い争いをした。そして同じ数だけ仲直りもした。
どれぐらいなのだろう。自分達が共に過ごしていた時間は。
「バイバイ…」
泣きながら笑っていた顔が脳裏に焼き付いている。嘘も本当も詰め込んだ愛くるしい表情が。
その姿を再び見られるのはもう少しだけ先。お互いが大人になった後の事だった。




