14 ゼロとリセットー1
「んっ…」
濡れている手を強く握り締める。痛みで現状を脳に理解させるように。
「なんで、なんで…」
廊下を照らす照明が鈍く輝いていた。黄色とも緑ともとれる不気味な光が。
周りにあるたくさんの座席には誰も座っていない。既に通常業務が終了している時間帯なので当然だった。
「どうしてあんな事を…」
1人になった途端に沸々と蘇ってくる。まだ1時間も経っていない衝撃的な記憶が。
庭へと下りて落下した華恋の様子を確認。彼女は口から血を垂らして気絶していた。
ケータイを取り出し、すぐさま両親が働く職場へと連絡。電話は運良く父親に繋がり、手配してくれた救急車に乗って病院へとやって来た。
「雅人っ!」
「……え」
「アンタ、大丈夫だったの!」
「母さん…」
ロビーで立ち尽くしていると力強い声で名前を呼ばれる。白衣の上から上着を羽織った母親に。
「ビックリしたわよ。お父さんからアンタ達が救急車に乗って運ばれて来たって聞かされて」
「……華恋がベランダから落ちちゃった」
「落ちたってどういう事よ。二階から落ちたの!?」
「僕が帰ってきたらベランダにいて、それで足を滑らせてそのまま後ろに」
「滑らすって壁を乗り越えようとしない限り有り得ないでしょうが。どうして華恋ちゃんは落ちたのよ」
「それは…」
事情を説明したいが上手く言葉が出てこない。呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうなレベルで思考回路はパニックへと陥っていた。
「2人で部屋で何してたのよ。こんな天気の日にベランダに出たりなんかしないでしょうが!」
「だから知らないってば。僕が帰って来たら華恋はもう窓の外にいたんだから」
「どうして止めなかったのよ。アンタ、華恋ちゃんが落ちる時に部屋にいたんでしょ!?」
「止めたよ、止めたさ。けど……間に合わなかったんだ」
「……なんでこんな事に」
互いに声を荒げる。他に誰もいない空間で。
「雅人は怪我とかしてないのよね?」
「僕は大丈夫。平気」
「裸足じゃない。靴下どうしたのよ」
「あ……履いてくるの忘れた」
2人して足元に注目。素足のままで突っ込んでいるスニーカーに視線を移した。
「香織は? あの子はうちにいるの?」
「……家を空けっぱなしにするのはマズいから残っててもらった。今は1人でいるハズ」
「どうしよう。怯えてなければ良いけれど…」
「んっ…」
名前を出されて脳裏に浮かんでくる。狼狽えてパニクっていた妹の姿が。
自分が庭に飛び出した直後に彼女も外へと登場。突然聞こえた大きな音が気になったとかで。ただ詳しい事情を説明しないまま留守を任せてしまっていた。
「とりあえずあの子には母さんから電話しとく。アンタは1回家に帰んなさい、タクシー呼ぶから」
「やだ」
「やだって…」
「ここにいる。帰ってもやる事ないからここにいたい」
「雅人がここにいてもやれる事はないの。後はお父さんに任せて大人しく帰りなさい」
「もし血が足りないなら輸血とか出来るよ。僕と華恋は同じAB型だから」
「それは……そうかもだけど」
体中の血液を分け与えてでも良いから救ってほしい。今更になってあの時に最善の行動を取れなかった事を激しく後悔した。
「華恋ちゃん、そんなに出血してたの?」
「口から少し血が垂れてた程度かな。他は怪我してなかったみたい」
「どうやって落ちたかは見た? 地面にぶつかる瞬間とか」
「……見てない。ベランダから身を乗り出したらもう横たわってたから」
「そう…」
庭に出て華恋に触れた時、髪が濡れていたので頭から流血しているのだと判断。しかしそれは雨で濡れていただけで怪我をしている様子は特になかった。
脈はあったものの意識は完全にシャットダウン。半開きの目が生気の無いマネキンを彷彿とさせてきて怖かった。
「内出血とかしてなければ良いんだけど…」
「ねぇ、大丈夫だよね? 華恋は助かるよね、ちゃんと」
「……お父さんが頑張ってくれてるから信じなさい。ああ見えてもしっかりした一人前の医者なんだから」
「そっか…」
幸運なのか、はたまた運命なのか。いつも顔を合わせている家族に頼る事になるなんて。
けれどそれで不安が軽減される訳ではない。身内が医者だからといって優遇されるような事は何一つ無かった。
「とりあえず濡れたままだと風邪引いちゃう。家に帰ってお風呂入んなさい」
「ねぇ、このままここにいたらダメ? 母さんや病院の人には迷惑にならないようにするからさ」
「ダメ。もし華恋ちゃんが目を覚ました時にアンタが風邪引いてたらどうするのよ。あの子に伝染す気?」
「そ、それは…」
「とりあえず今は母さんの言う事を聞いて。不本意でしょうけど」
「……分かった」
納得はしていない。でも逆らう訳にもいかない。
母親が手配してくれたタクシーで家路に就く。車内では一言も言葉を発さなかった。
「……あ」
「ただいま」
「ど、どうなったの?」
「……知らない」
「え?」
玄関の扉を開けて中へと入る。同時に奥から留守を任せていた家族が登場した。
「華恋さんは?」
「だから知らないってば」
「お母さんから聞いたんだけど病院で検査を受けてるって。華恋さん、大丈夫なの?」
「だから知らないって言ってるじゃん。どうなってるのかこっちが知りたいぐらいなんだから!」
「ご、ごめん…」
追及の台詞を罵声で一蹴する。冷たい態度であしらった。
「……着替えなくちゃ」
「え……靴下履いて行かなかったの?」
「ん…」
後ろから言葉をかけられたがスルー。そのまま洗面所へと向かって上着を脱いだ。
「お母さん達はまだ病院にいるの? どうしてまーくんだけ帰って来たの?」
「……知らないし」
「華恋さん、大丈夫だよね? ちゃんと帰って来てくれるよね?」
「ちっ…」
「なんで庭に倒れてたの? 口から血を流して…」
「うるさいなぁ。少し黙っててくれよ」
「え?」
質問に対して答えになっていない暴言を飛ばす。目も合わせないまま。
「くそっ…」
腹が立っていた。不安そうな顔をしている香織にも、病院から強制的に帰るよう命令してきた母親にも。
華恋があんな行動をとったのは精神的に追いつめられていたから。そして彼女を追いこんだのは紛れもなく家族。妹を悲惨な目に遭わせた人間達が憎くて仕方なかった。
「……あ」
部屋へと戻ってくると真っ先に外に目を奪われる。開けっ放しの窓と、その先にあるベランダに。
「華恋…」
バイトから帰宅する前から彼女はそこに立っていた。恐らく最後に言いたい事があったのだろう。
その時の気持ちを考えると胸が苦しくなる。誰もいない場所で1人淋しく佇んでいた状況を。
「ぐっ…」
時間を巻き戻したい。そして転落する前の華恋を引き止めたい。そうすれば今もすぐ隣で笑ったりケンカしたり出来ていたハズだった。
「んっ…」
窓を閉めた後はベッドへ倒れ込む。スマホを取り出して1つの連絡先を呼び出した。
「はぁ…」
この番号にかければ出てくれるだろうか。画面の向こう側にいる妹が。
彼女の声が聞きたい。あの甲高くてやかましい声を耳に入れたい。呼び掛ける言葉に返事をしてほしい。
急に愛おしくなってくる。毎日側にいた大切な人物の存在が。
「……ふぁあ」
いつ連絡が来てもいいようにケータイを握り締めたまま就寝。夢の中では何度も華恋と対話していた。ベランダでのやり取りを再現するように。
その結果は全て同じ。都合の良いシナリオ。
二階にいたハズの自分はいつの間にか庭へとワープ。倒れている華恋の肩を揺さぶった。
現実と違うのはそこで彼女が目を覚ますという事。安堵するのと同時に体を抱き寄せ、そこで今度は自分が目を覚ました。
意識がハッキリとする度に今のが夢なんだと落胆。少しだけ涙を流した。




