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9 対峙と対決ー6

「……でも私はやっぱり諦めきれない。ここで引き下がるなんて絶対に出来ません」


「結構しつこい性格してますね。それストーカーさんの思考ですよ?」


「アナタに何が分かるっていうのよ。本気で人生に悩んだりした事なんかないクセに。本気で家族を憎んだ事なんかないクセに」


「喧嘩ならしょっちゅうしますけど。まぁ最近は言い争いすらしなくなりましたが」


「私には喧嘩する相手もいなかった。最初からこの世に生まれてこなければ良かったんじゃないかとさえ思っていた」


 ただ人心地が付いたのは一瞬だけ。挑発的な発言と共に小田桐さんが右腕の袖を捲った。


「……え」


 全身が硬直する。言葉にならない声と共に。


「これは私が自分の人生を終わらせようとした傷です。この1本1本全てが死を望んだ数でした」


「そ、それって…」


「別に流行ってるからとか皆がやってるからなんてバカげた理由ではありません。本当に死ぬつもりで切りつけたのです」


「死ぬ…」


 露出した彼女の腕には無数の線が存在。1本や2本なんて生易しいものではない。そこにあったのは数え切れない程の歪な跡だった。


「……後悔はしています。死にきれなかった事実と、また辛い毎日に身を投じなくてはならない未来に対して」


「なんで…」


「醜いと思うならどうぞ笑ってください。なんなら周りのお友達に話してくれても構いませんよ?」


「そ、そんな事はしません」


「遠慮なんかいらないです。私に気を遣ってるなら無駄ですから。嫌われたくないなら最初からこの傷を見せたりなんかしなかった」


 場の空気が大きく変化する。修羅場とは違う別の雰囲気へと。


「私は自分の人生がどうなっても構わない覚悟があった。希望を見いだせない将来に進んでいく事が怖かったから」


「将来…」


「だから本気で死のうと考えました。リストカットなんて中途半端なものではなく、もっと確実に命を絶てる方法を」


「えぇ…」


「でもそんな私をたまたま助けてくれたのがアナタです」


「へ?」


 すぐ目の前には焦点が定まっていない不安定な瞳が存在。虚ろな表情を向けられた事で緊張感が一段と高ぶった。


「……なぜアナタは自分の人生に絶望しか感じなかったのですか」


 パニックに陥っていると別の方角から意見が飛んでくる。自転車から手を離した後輩の声が。


「私には本物の家族がいません。物心がついた時から知らない人達の元で育てられていました」


「本物の…」


「両親は私が赤ん坊の頃に離婚。引き取った父親はすぐに過労死したそうです」


「僕と一緒だ…」


 全く同じではないが似ている。赤ん坊の頃に両親が離婚していたり、父親と死別している部分が。


 それから小田桐さんが自身の過去話を暴露し始めた。父方の伯父と伯母に引き取られた話を。


「2人は普段から仲が悪く、いつも言い争いばかり。喧嘩は日常の風景でしたが、それでも小さかった私は怖くていつも押し入れやトイレに隠れていました」


「は、はぁ…」


「伯父は自堕落な人間で仕事をすぐに辞めたりクビになるの繰り返し。だから家庭の経済状況はいつも最悪です」


「……そうですか」


「その事が原因で私が5年生の時に2人は離婚。伯母が逃げ出すように家を飛び出して行ったので、私は伯父と暮らす事をやむなくされました」


「んっ…」


 その時の彼女の姿をイメージする。子供なのに肩身の狭い思いをしながらの生活を。


「ただでさえ働く意欲が少なかった伯父は知り合った若い女と遊び呆け、毎日自宅に連れ込むようになりました」


「えぇ…」


「もちろん私にとってその女性は迷惑な人物です。ただ2人からしたら他人のクセに住み着いている余所者の方が厄介だったのでしょう」


「そんな…」


「しかし私が中学に上がる頃には破局。経済力が壊滅的に破綻している私達は生活保護を受給するようになりました」


「……働かなければ収入はなくなりますからね」


「はい。そしてせっかく手に入れた僅かばかりのお金も伯父の酒とギャンブルに湯水のように消えていきました」


「典型的なダメ親父だ…」


 怠惰を具現化したような人物。その点は自分の父親とは大違いだった。


「けどそれだけならまだマシだったのかもしれない。酒やタバコだけでは欲求が満たせない伯父は更に暴走していきました。何だと思います?」


「しゃ、借金をしたとか…」


「いいえ、違います。女です」


「女?」


「伯母も女も失った伯父は、堪えきれなくなった性欲を当時まだ中学生だった私に向けてきました」


「え!?」


 ほんの少しだけ彼女の声色が変化する。怯えの感情を含んだ物へと。


「今まで我が子のように扱ってきた私を今度は性の対象として見るようになりました。一番身近にいた異性だからという理由です」


「それって…」


「もちろん抵抗しました。いくら身寄りのない自分を育ててくれた恩人だからといって、そんな事は出来ません。でも私には逃げ場がなかった」


「……最悪だ」


「毎日学校から帰宅しては伯父に言い寄られ、そして無理やり乱暴をされた。帰る家も助けてくれる家族もいなかった私にはその仕打ちに耐えるしか選択肢がなかったんです」


「ぐっ…」


 まるで昼ドラのような展開。倫理観を無視した行動に思考が追い付かなかった。


「殺してやろうとも考えました。けど人生をダメにしてしまうぐらいなら、この仕打ちに耐えていた方がマシだと思うようになったんです」


「せ、先生や友達に相談するとかは?」


「アナタは身内に性的虐待されてる事を周りの人に話せるんですか?」


「え?」


「もし勇気を振り絞って打ち明けたとしても、解決出来なかったら更に辛い状況に追い込まれるだけなんですよ?」


「……ですよね」


 彼女の反論に萎縮してしまう。自身の軽率すぎる発言が情けなくて。


「それから気が付けば私は知らず知らずのうちに腕を切りつけるようになりました。嫌な記憶を消し去りたい一心で」


「そんな…」


「ただ覚悟が少なかった為に死にきれず、辛いだけの時間を過ごす日々が続きました」


「んっ…」


「そして何とか高校に入学しましたが、その時に伯父は新たな女を見つけて私は捨てられた女のように邪魔者扱いされるようになりました」


「酷い…」


 話を聞いているだけで堪えきれない程の怒りが湧いてくる。暴力的な負の感情が。


 自分が直接的な被害に遭った訳ではない。リストカットをした訳でも。それなのに溢れてくる悲しみが止められないでいた。


「乱暴されていても心のどこかで伯父に必要とされてるんだと考えていたんだと思います。しかしそれすらもされなくなった時には、自分が何故この世界にいるのかの意味さえ分からなくなってきました」


「……小田桐さん」


「そして何も考えられなくなった頭の中には自然と走っている電車に飛び込む光景が浮かんできたんです」


「え?」


 最悪な状況を脳裏にイメージする。フィクションでもあまり描かれない事故が浮かんできた。


「学校帰りの駅のホーム。次に来た電車にこの身を投じようと線路を見つめながら突っ立っていました」


「ちょっ…」


「けど私がぶつかったのは車両ではなく1人の男子高校生でした」


「高校生?」


「私は彼とぶつかった衝撃でその場に倒れ込み、ちゃんと締まっていなかった鞄からは教科書やノートが散乱。何もせず黙ってヘタレ込んでいると、その男子は何度も頭を下げてきました」


「あ…」


「更に彼は散らばった筆記用具類などを必死にかき集めてくれました。すいませんと何度も謝りながら」


「そ、それって…」


 覚えてる。そんな出来事をまだ1年生だった頃に体験した記憶があった。


「翌日、私は彼にお礼を言う為にホームで待ち伏せしていました」


「えっと…」


「だけどそれは叶いませんでした。彼の隣には懇意にしていそうな女性が並んでいたからです」


「女性?」


「話しかけるタイミングを逃した私には黙って2人の様子を見守る事しか出来ません。気付けば頭の中で男子生徒とどうやったら接触出来るかを考えるようになりました」


「んんっ…」


 その時はまだ1年生だから香織はうちの学校には通っていないハズ。だとすると一緒にいた女性は智沙なのだろう。


「その男子生徒の名前や学年を調べ、毎日朝と帰りに駅のホームで見守るのが日課となりました」


「えぇ…」


「ただ次第に虚しさを感じたのでその男子生徒を忘れる為に他の男性とお付き合いする事に。2つ上の先輩と同級生、2人の男性と」


「は、はぁ…」


「しかしどちらも長続きはしませんでした。彼らが私に求めていたのは伯父と同じ物だったからです。欲求をはねのけた私に彼らは罵声を浴びせて立ち去っていきました」


「最低だ。そいつら…」


「記憶を上書きしようとする行為は失敗し、もはや男という生き物に対して憎悪の念しか感じなくなっていました」


「……ん」


 そんな経験をしたらトラウマにならない訳がない。まともな恋愛を出来る気がしなかった。


「男性恐怖症となった私は再び人生を投げ出そうと考えました。そしてホームの端に立った時にふと思ったのです。あの男子生徒ならまた救ってくれるんじゃないかって」


「あ…」


「アナタにとってはたまたまぶつかった通行人の1人に過ぎなかったのかもしれません。でも人生に絶望しか感じてない私にとっては命の恩人だった」


「いや、あの時は急いでて周りを見ていなくて…」


「誰に助けを乞えばいいのか分からなかった私には雅人くんだけが唯一の希望だった。一方的な意見かもしれないけど、もうアナタしか頼れる人がいなかったの」


 目の前にいる人間を直視出来ない。視線を別の方角に逸らす事も。


「迷惑だって分かってます。自分勝手なワガママだって。けど家族も親友もいない私にはその意思を貫くしか方法がなかった」


「え……な、七瀬さんは?」


「彼女には私の過去について話をしていません。もしこの腕の傷を見せたら七瀬だってきっと敬遠して離れていってしまう」


「なら彼女の代わりに僕に接触してきた理由は?」


「私があの子の名前を使って試したんです。雅人くんが女にホイホイ付いてくる軽率な男かどうかを」


「そんな…」


 だとしたらラブレターを書いたのも彼女だったのだろう。一連の行動は全て小田桐さん1人で行われていた計画だった。


「でもアナタは私の誘いに食いついてこなかった。その時に決めたんです。この人の為に生きようって」


「いやいや…」


「バカな女って思うよね? 何を勝手に決めてるんだって。ただ一度好きになっちゃったらもう歯止めが効かなかったの」


「えっと…」


 喋ろうとする言葉が詰まる。否定すべきか肯定すべきか判断出来ずに。


「……んっ」


 救いを求めるように隣に視線を移動。告げられた内容が衝撃的だったのか強気な態度だった後輩も意気消沈していた。


「雅人くんと学食で初めて会話した時はドキドキした。けど好きな相手がいると知ってショックでした。しかもその相手が身内だなんて…」


「そ、それにはいろいろ事情があって…」


「だから許せなかった。私には持ってない物を持っているアナタ達2人が」


「物…」


 気を許せる家族の存在かもしれない。彼女が今までの人生の中で一度も手にした事がない絆。


「自分でも間違えてるって分かってるんです。分かってるのに止められなかった……止めようとさえしなかった」


「んっ…」


「だって私には間違えてる事を叱ってくれる人がいないんだよ? 慰めたり励ましてくれる人が」


「……小田桐さん」


「誰か1人でもいてくれたら良かった。私を……私を助けてくれる人が」


 目の前にあった体が地面にヘタレ込む。そして膝を突くのと同時に両手で顔を覆い隠してしまった。


「うっ、うあっ…」


「あの…」


「あああぁっ、ぁあ………うあぁあぁっ!」


 何もすれば良いのかが分からない。どんな声をかければ良いのかも。


 励ましの台詞も今の彼女には陳腐に聞こえるのだろう。それ程までに打ち明けてくれた話が重々しかった。


「私はどうすれば良いですか…」


「それは…」


「教えてください」


「……ん」


「お願い……しま、す」


 哀しみを表した涙が次々に溢れ出ている。言葉にならない声と共に。


「むっ…」


 自分の人生がどれだけ恵まれているか。そう痛感させられるぐらい彼女の生い立ちは異様だった。


 時間を巻き戻せるなら助けてあげたい。苦痛に耐えながら自らの体を傷つけていた少女を。


 そして自分はもっと早くに知るべきだった。救いの手を差し伸べていた1人の同級生の存在に。

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