4 猛暑と土下座ー5
「……すぅ」
「寝ちゃったか」
しばらくするとソファから寝息が聞こえてくる。その発信元は気持ちよさそうに眠っている小学生。痛みがかなり引いたのか彼女は夢の世界へと飛んでいってしまった。
「可愛い寝顔。どうして子供ってこんな愛くるしい顔つきしてるんだろ」
「変な気を起こすのはやめてくれよ」
「雅人じゃあるまいし有り得ないから。あっ、風邪ひくといけないからタオル持って来て」
「ん、了解」
和室に移動してタンスを漁る。亀のキャラクターが描かれたブランケットを小さな体にかけた。
「またお腹冷やして悪化させたら可哀想だもんね」
「華恋って案外、面倒見が良かったんだ」
「はぁ? 何よ、いきなり。これぐらい普通でしょうが」
「そうかな。イメージだと薬飲ませてほったらかしなんだけど」
「私、そこまで無慈悲な人間じゃないわよ。困ってる人がいたら進んで救いの手を差し伸べるタイプだもん」
「自分でそう言う人ってなかなか信用出来ないよね」
2人して安穏とした時を過ごす。バラエティー番組の再放送が流れている空間で。
「ねぇ」
「ん?」
「もし私達に子供が出来たらさ、こんな感じなのかな」
「……へ?」
テレビ欄を確認していると持っていた新聞が床に落下。ついでに空いた口から間抜けな声が飛び出した。
「アパートに部屋を借りて、同棲して……それで毎日3人で一緒にお風呂に入るの」
「あ、あの…」
「雅人が帰って来たら2人で出迎えて、休みの日には家族揃ってお出掛け」
「華恋さん?」
「私が子供に構ってばかりだから雅人がその子に嫉妬して、でももし子供が女の子だったなら私がその子に嫉妬したりするのかなぁ~とか」
「えぇ…」
どうやら妄想を繰り広げているらしい。叶う望みが気薄な未来を。
「え~と……それはどういう意味なのでしょうか」
「はぁ? どういう意味ってそのままじゃない」
「つまり2人でどこかに駆け落ちでもするという事?」
「別に駆け落ちじゃなくても、どこか近くのアパートとか借りて暮らせば良いんじゃない?」
「この家を離れるって意味ならどっちも変わらないよ。本気でそんな事を考えてるの?」
「本気よ、本気。2人だけの生活とか憧れるじゃない」
「そんな…」
発言が大胆すぎ。とても学生とは思えないようなビジョンの形成だった。
「ま、まぁ僕もスーパーマンになる妄想とかよくしたし」
「そういうのとは違うでしょうが。私は超現実的な話をしてるのよ」
「子供を作るってのが現実的な話なの?」
「もち」
「ひえぇぇぇっ!」
つまりそれはそういう行為をするという事で。人間としてある一線を越えてしまうという意味を表している。想像したら羞恥心が暴走。未経験の人間には刺激が強すぎる発言だった。
「んで、いつ頃それは実現出来そうなのかしら?」
「さ、さぁ…」
「なるべく早くしてよ。歳喰ってから出産とか辛そうだし」
「……そういう話は自宅ではあんまりするべきではないんじゃないですかねぇ」
本気で言ってるのだとしたら妄想力が強すぎる。もし家族の誰かにこの会話を聞かれたら。そう考えるだけで冷や汗が止まらなかった。
「どう? まだ痛い?」
「平気……かな。ギュルギュルが無くなってる」
しばらくすると腹痛に苦しんでいた小学生が目を覚ます。瞼を何度も擦りながら。
「そっか。なら良かったわね」
「えへへ……迷惑かけてごめんなさい」
「なに言ってんのよ。これぐらいで迷惑だなんて事はないわよ。ねぇ、雅人?」
「ん? ま、まぁ」
コンビーフの缶と必死に格闘中。勉強をやる予定だったのに晩御飯調理の手伝いをさせられていた。
「……固いな、コレ」
「お腹空いてない? 何か食べる?」
「ん~、空いてるけど人の家でご飯食べちゃダメってお母さんに言われてるし」
「よそ様の家に迷惑かけるなって事?」
「かな? 友達の家に行ってもご飯前には必ず帰って来いって」
「はぁ…」
華恋が呆れたように溜め息をつく。微量な怒りの感情も含ませて。
「だったら子供といつも一緒にいてあげれば良いのに……遠慮しなくて平気。お母さん達にはお姉ちゃんが言っておいてあげるから」
「ん~、でも…」
「ならちょっとだけ食べる? シュークリームとエクレア買ってきてあるよ」
「あ、はい。食べます!」
食欲に負けたのか病人が主張を撤回。冷蔵庫から取り出した洋菓子を美味しそうに頬張り始めた。
「ん…」
華恋が悪態をつく気持ちも分かる。お互いにそういう境遇で生きてきたからこその不満なのだろう。
帰って来ても誰もいない家。子供にとってそれは不安定な空間だった。
「そろそろ帰らないと。お母さん達が帰って来ちゃう」
「うん。気をつけてね」
「気をつけてって言っても家、隣じゃないか」
「……あ?」
「いでっ!?」
華恋の帰宅から数時間が経過した頃、客人を見送る為にリビングから玄関へと移動する。その途中、鋭い肘鉄が脇腹に命中した。
「そういうのを無粋っていうのよ。バカ雅人」
「すいません…」
「まったく…」
どうもこの子の前だと威厳を保ちたいらしい。2人っきりの時に発動するデレモードが解除されていた。
「雅人くん」
「ん?」
「今日はありがとうね。ここまで運んでくれて」
「いえいえ」
名前を呼ばれたので視線を移す。緑色のボールを抱えた小学生の方へと。
「あと一緒にサッカーやってくれて楽しかったよ。ジュースも奢ってくれて嬉しかった」
「ほとんど飲まずに残しちゃってたけどね」
「ただ恋人になるとかはごめん。私、まだ心の準備が出来てないから」
「ちょっ…」
「じゃあ、また一緒に遊ぼうね」
「ま、待って待って…」
「バイバ~イ」
素直にお礼を言ってくれるのかと思っていたのに。彼女の口からは他意を含んだ台詞が飛び出した。
「ほ~う、ほ~う」
「さ、最近の子供は大人びてるよね。ついていけないから驚いちゃうよ」
「……雅人」
「ん?」
「大事な話があるからちょっと来て」
「げっ!」
2人きりになった空間で華恋が言葉を漏らす。廊下を引き返しながら。
「そ、そんな…」
こんな流れでの説教は理不尽でしかない。紛うことなき冤罪。
「そこ、座って」
「はい…」
リビングへとやって来ると華恋がソファを指定。素直に指示に従ってゆっくりと腰を下ろした。
「……ん~」
「どうしたの? 座らないの?」
「何て言えば良いのかしら…」
しかし何故か本人は座ろうとしない。腕を組んだまま直立不動を維持。
「んっ…」
もしかしたら作戦を練っているのかもしれない。どんな拷問を実行しようかと。
様々な状況を想像して怯える。逃げ出そうかと考えていると目の前にあった身体が床にひれ伏した。
「お願いします、宿題を写させてくださいっ!!」
「……は?」
乾いた口から情けない声が出る。呆れた気分を表した言葉が。
「どうしたのさ、急に。宿題って夏休みの?」
「そうそれ。実はまだほとんど手をつけてなくて」
「ほとんどって…」
3日後には二学期がスタート。徹夜したとしても残された時間は60時間にも満たなかった。
どれぐらいの量を残しているのかは知らないが、この口振りから察するにかなり危ないのだろう。全力で取り組んだとしても間に合わないレベルで。
「夏休みに入った時にちゃんと忠告しておいたじゃないか。どうしてやってないんだよ」
「やろうとは思ったのよ。けど全然進まないっていうか終わらないっていうか…」
「毎日少しずつ進めてたら普通は完了するハズだって。この1ヶ月以上もの間、何してたのさ」
「し、仕方ないじゃん。いろいろやってたんだから」
「いろいろって?」
「……雅人の身の周りの世話とか」
「じゃあ僕がバイトに行ってる間は?」
「へへへ…」
聞かなくても分かっている。遊びほうけていたんだと。
お盆に里帰りしていた期間を除外したとしても自由に使える時間はタップリ存在。その間、宿題に手をつけなかったのは単にサボり癖が発生していただけだった。
「もしかして大事な話ってそれ?」
「う、うん…」
「はあぁ…」
どんな攻撃をされるのかと身構えていたのに。ビクビク怯えて損をした。
「お願いっ! 貸してくれるだけでいいからさ!」
「やだよ。まだ2日あるんだから自力でやりなって」
「だって難しい問題ばっかなんだもん。私1人じゃ無理なの!」
「自業自得。間に合わないなら放課後に居残りさせられてやりなさい」
「やぁだあぁっ!」
どうせ部活もバイトもしていない身。時間は有り余っている。
「お願いします、お兄様。華恋には他に頼れる人がいないのです。だから…」
「あぁ、そうなの。それは大変だね」
「……こんなに必死に頭を下げてもダメですか」
「当たり前じゃん。全部自分が悪いんだし」
「そ、そんなぁ…」
突き放していると目の前の表情が変化してきた。泣きそうな弱々しい物へと。
こんな事をしてる間に少しでも進めれば良いのに。このやり取りこそ最も無駄な行為だった。
「あぁ~、なんか肩が凝ってきたかも」
「あっ、肩ですね。すぐに揉みます」
「いや、別にそういうつもりで言ったんじゃないんだけどなぁ」
「この辺りですか? 確かに固くなってらっしゃいますね」
ワザとらしく腕を回してみる。直後に立ち上がった彼女が背後から接近してきた。
「お兄様はいつも頑張ってらっしゃいますもんね。お疲れ様です」
「あぁ~、気持ちいい。落ち着くわぁ」
「今晩はお兄様の大好きなカレーを作る予定ですから。楽しみにしててください」
「うむうむ」
「だから、あの…」
「ん?」
この日は1日中華恋を利用して遊び続けた。ただ報復が怖いので宿題は写させてあげる事に。
必死に努力する妹を眺めながら残りの休みを過ごす。そして結局、目的未達成のまま新学期を迎える事になってしまった。




