25 春と空ー1
「……ただいまぁ」
重く感じるドアを開けて中へと入る。酷使した喉から掠れるような声を絞り出しながら。
「おかえり~、お疲れ様」
「んん…」
「はい。ご飯用意してあるわよ」
「サンキュー」
洗面所で手と顔を洗うとリビングの椅子に着席。母親が用意してくれた晩御飯に箸を付けた。
「バイトどう? 忙しい?」
「まぁ。でも平日だからそこまででもないよ」
「しっかしまさかアンタがここまで続けられるとはねぇ。始めて何ヶ月目だっけ?」
「え~と、4ヶ月……かな」
部屋に戻って着替えるのが億劫なので制服姿のままで食べる事に。自分以外の3人は既に済ませていたので1人きりの食事。茶碗を空にすると階段を上がって二階に移動した。
「……疲れたぁ」
制服をハンガーにかけてベッドに横になる。湿った靴下を脱いだ事によって快楽ともいえる解放感に満たされた。
「はぁ…」
華恋がいなくなってから数日後、アルバイトという物に応募してみた。海城高校の近くにある個人経営の小さな喫茶店に。力仕事が少なそうだからという理由でのチャレンジだった。
しかしいざ働き始めてみると大変で神経をすり減らされる毎日。無口なおじさんや騒がしいおばちゃん集団相手に愛想笑いを振りまいていた。
結果、労働に対する認識の甘さを痛快。おかげでバイトのある日はクタクタになりながら帰宅していた。
「へへへ…」
だが辛い反面、楽しみもある。オーナーは怒ると怖いが基本的には優しくて希望を出せば土日祝日でも休みを提供。学生という事もあり他のパートの人達よりも労働時間は少ない。一緒に働いている人達も親切で数少ない男性として可愛がられたり。
従業員はほぼパートの女性で学生は自分を含めて3人だけ。大学生の女性が1人、高校生の女の子が1人。大学生の人とはたまにしかシフトが被らなかったが高校生の子とはバイトの度に対面。今ではタメ口で話しかけるぐらいに親しかった。
「眠…」
その時の流れは自信と共に心に大きな変化を与える事に。あれだけ寂しいと感じていた気持ちがいつの間に消え去っていた。
双子の妹と別れてから冬を迎え、年を越して。そして高校生最後となる春を迎えていた。
「……ふぁ~あ」
翌日、いつもより遅めの時間に起床する。大きな欠伸を放出しながら。
「んっ、んん…」
ベッドから起き上がるとカレンダーを確認。早起きしなくても良い実感を噛み締めた。
「春休みかぁ…」
三学期は昨日で終わり。今日から長期連休に突入する。受験勉強に追われなくていい最後の猶予だった。
「……っと、こんな事してる場合じゃない」
今日はバイトが休みだが別の予定がある。駅前で人と待ち合わせしている約束が。
「う、うわあぁあぁぁ!?」
着替えた後は寝癖を整えて廊下へと移動。そのまま階段までやって来た所で足を滑らせて転落してしまった。
「いちちち…」
強打した腰を押さえながらリビングへとやって来る。誰もいないキッチンでメロンパンを発見。冷蔵庫からコーヒー牛乳のパックを取り出すと軽めの朝食をとった。
「んむんむ…」
静まり返った辺りを見回す。テレビもついていない無音に近い空間を。
普段はあまり意識しないがそこら中に物が散乱。家族全員が掃除をサボっていた為に散らかりまくっていた。
「……ま、いっか」
待ち合わせ相手は親しい人物だし今さら部屋の汚れを気にしなくてはならないような間柄じゃない。そう心の中で言い訳して片付けする事を早々に断念する。
「ほっ、ほっ」
食べ終えた後は二階の妹の部屋を訪問。ドアをノックして中へと入った。
「起きてる?」
「ぐぉおぉおぉぉっ!!」
「怪獣か…」
様子を窺うとイビキをかいている人物を発見。シャチホコのような体勢で寝ている部屋主を。
「起きて起きて」
「んんっ……なぁに?」
「今からちょっと出掛けて来るから。留守番よろしく」
「……あ」
「ん?」
用件を告げて部屋を引き返す。そのまま廊下に出たら途中で呼び止められた。
「今、何時?」
「11時過ぎ? 何かあるの?」
「しまった! リエちゃん達と遊びに行く約束してたんだ。寝てる場合じゃない!」
唐突な叫び声が反響する。焦りを表した台詞が。
「もしかして香織も出掛けるの?」
「そうだよ。着替えるから出てって」
「なら先に出るから戸締まりよろしく」
「えぇ……私が出ていくまで待っててくれない?」
「そっちの準備が終わるの待ってたらこっちが遅刻する。じゃあね」
要求を出されたが華麗にスルー。せせら笑いを浮かべてドアを閉めた。中から聞こえてくるバカバカと連呼する声を耳に入れながら。
「行ってきま~す」
貴重品の有無を確認すると玄関に向かう。買い替えたばかりのスニーカーを履いて家を出発した。
「暖かいなぁ…」
春の穏やかな空気に包まれた街中を進む。のんびりペースで。
吹く風が心地良い。暑くもなく寒くもない絶妙な気温と天候だった。