雨の日(一前+二谷)
雨の日の夜、一前と二谷がストレスを発散するだけの話。
「……本当に、やるのか?」
コーポ・エデンの園。201号室、俺の部屋。
25:30。窓の外では雨が降り続いていて、時折通り過ぎる車が派手な水音を立てる。そんな車の往来と雨の音が、すぐそこにあるようにも思えるし、ずっと遠くにも思えた。
殺風景な部屋で、俺と半身向き合った冬暁が、穏やかに笑んで頷いた。
今日は俺も冬暁も遅番だったから、外で一緒に食事をして、23時頃に俺の部屋に来た。酒を飲んだが、本当に少しだったし、酔いはもう殆ど残っていない。付き合い程度にしか飲まない冬暁は、尚更素面に近い筈だ。
お互いにスーツ姿のままで、肩口の濡れたジャケットはそのままに、シャワーも浴びずにテレビを眺めたりして過ごしていた。0時前頃に眠くなったらしい冬暁が微睡んでいたが、ブランケットを掛けて放っておいたら20分くらい前に目を覚ました。
そのまま冬暁が眠り続けていたら、この予定は中止になっていただろう。
「……うん。そんな、躊躇う事じゃないよ。行こう」
「ああ……」
どちらから言い出したんだったか、よく覚えていない。
居酒屋で……確か、はす向かいの酔っぱらいだか何かを見て、お互いに大した会話もせず――この空気になった気がする。
冬暁だって色々と溜め込んでいるのはわかるが、俺に付き合わせているのではないかという気持ちがどうしても抜けなくて、やめようと喉元まで出掛けている。
だが、あの冬暁がここまで思い切ってくれているのに、ここで俺がその気持ちに水を差すのも野暮ではないか。そう思ってみると、寧ろ決行すべきな気もしてくる。
あとは、単に恥ずかしかった。
玄関に行って靴を履く。俺が扉を開けると、冬暁が傘を広げた。その横で俺も傘を広げてから、冬暁がこちらに傘を傾けてくれているのがわかって、何となく申し訳ない気持ちになった。が、男二人で相合傘をしたいとも思わない。
アパートの階段を下りて、通い慣れた通勤路と逆の方へ向かっていく。そちらへ暫く歩いていくと、大通りに出る。車の往来は殆ど無く、辺りは日付が変わる前に閉店した店ばかりで、雨音しか聞こえなかった。
いよいよか、と鼓動が高鳴る。冬暁を横目に見てみると、何処を見ているでもなく遠くに視線をやっていて、声を掛けづらくなった。本当に綺麗な顔をしている、俺はゲイではないが素直にそう感じる。
やがて、俺の視線に気付いた冬暁がこちらへ振り向いた。街灯こそあるものの空は暗く、更に傘によって目元に影が落ちて、思いなしか切なげに見えた。
「いつもお疲れ様、夏月」
言葉と同時に、傘が閉じられていく。雨音の中でも、冬暁の細い声はしっかりと俺に届いて――
再び見た冬暁の顔は、先程とは明らかに違って晴れやかに見えた。
「――――わ、……あああああああ! あああああああああ!」
傘が地面に落ちる音を掻き消す程の冬暁の叫喚が、俺の素肌と胸の奥を震わせた。
声量自体が大きいわけではなく。意味のある音でもない。甲高い悲鳴でもなければ、絶望したような慟哭でもない。音は意味を成さないし、冬暁の気持ちがわかるわけでもない。
それでも、酷く悲しくなって、苦しくなって。
俺も、救われるような気がした。
俺の記憶や心内にある、悲しい記憶や悔しかった出来事、苦しい思いを、全部引っ張り出されて引き裂かれるような思いがした。引き裂かれた心が必死で声を上げるかのように、堪らずに俺も傘を投げ捨てて、雨雲に向かって感情の塊を吐き出した。
「あああああああ、あああ……! もう、嫌だ、嫌だ嫌だ……! ふざけんなよ、畜生……!」
何に対して、というわけでもない。わからない。きっと冬暁だって、何を吐き出したいのか自覚していないだろう。
大声を出してみると、頬に温い液体が伝った。それが涙だと認識するより早く、また声を上げていた。冬暁は、もう一度だけ声を荒げると、その場に膝を付いて自分の身体を抱き締めていた。俯いていて顔は見えないが、きっと冬暁も泣いているのだろうと思った。
糸が切れたように俺もその場に膝を付くと、アルファルトの冷たい地面に両手を付いて、わあわあと子供のように泣いてしまっていた。冬暁は、そんな俺の様子を見て共鳴したように、わっと泣き出した。
俺の所為で泣かせたのではない。そう確信していた。言葉を掛けてやる必要も無いし、何を考える必要も無い。唯、雨の中で一心不乱に泣いているのが気持ち良かった。都会の大通りで、気でも触れたかのように唯声を張り上げるのが気持ち良かった。
救われて、掬われて、洗い流されていく気がした。正体の無い声が、何処までも届いていきそうだった。
やがて漸く泣き止んだ頃、冬暁が俺より先に立ち上がって、力無く破顔して片手を差し出してきた。何故だか、ひとりで立ち上がれる気がしなくて、冷え切ったその手を取って腰を上げた。俺の手も冷たくなっていただろう。
雨に濡れたからか、抱えていた荷物を捨てきったからか、何だか疲れた。体温の無い冬暁の手を握り返すと、また目元が熱くなって視界が滲んで、冬暁に強く抱き締められるのがわかった。そっと背に腕を回し返すと、冬暁は少し震えていた。
抱擁は恐らくたった数秒のみで、握り合った手もすぐに離した。
帰路を辿る間、俺達は互いに言葉を発さずにいた。ひとりきりのような気楽さと、ひとりではないという安堵感が曖昧に共存していて、妙な心地だった。
俺の部屋の前で、冬暁が「おやすみ」と微笑んで、自分の部屋に戻っていった。
この雨は、夜のうちに止むらしい。