序章
月のない夜だった。
厚く垂れ込めた雲は月の光を遮り、しかし街の明かりを反射して鈍色の淡い光を放っている。
町の中心部に近いところなどは、むしろ黒雲のかかった昼よりも遙かに明るさをたたえている。
しかし、それも郊外に行けば行くほどに衰え、街灯の疎らな小道は暗闇と化している。
そんな人気のない裏通りを一人、足早に行く影がある。
仕事帰りの家路を急ぐ女性の姿だ。
このところ、この近隣も物騒な話題がちらほら持ち上がっており、夜道の危険な香りに怯えつつも、自宅までの最短ルートだからとこの道を選んで半ば駆けるように靴音を響かせていた。
幾つ目かの交差点に差し掛かろうとしたとき、彼女は嫌な気配を感じ取り、息を呑んで歩を緩め、二、三歩で止まる。
左前方の曲がり角の奥に何かがいる。
野犬?けっして小さくはない獣の息づかいのようなものが聞こえる気がする。
彼女は身を竦ませ、角から目をそらせずにいる。
音は少しずつ彼女の方に近づいてきている。
「何、いったいなんなの!?」
声にならない声でそう呟く。
季節は初冬。肌寒いはずなのに汗が噴き出すのは、駅からの数百メートルをやや駆け足で来たからだけではない。
いやな汗も混じっている。
角を曲がった十数メートル先には街灯がある。
その明かりが交差点までわずかに届いている。
仄暗い路面にゆっくりと、何者かの影が伸びてくる。
長く伸びてはいるが、人間の頭の形のように見える。
猛犬を散歩させているのだろうか、とより安心できる理屈を頭は求めるが、体は何かに身構えてしまう。
不意に頭の陰が角の向こうに引っ込む。
遠ざかって行くのかしら、と思ったら、体制を低くした何者かが勢いよく飛び出してきた。
彼女は突然のことに体が動かず、目だけでそれを追う。
暗くてよく見えないが、人間が四つん這いになって素早く動いているように見えた。
ソレは右角の向こうに消えたかと思うと、方向転換して、こちらにゆっくりと向かってくる。
やはり四つん這いになった人間のようだが、手足が奇妙に長い。
獣のような荒い息づかいで、口からボタボタと涎のようなものを垂らしている。
ソレは低い唸り声を発しながら、獲物を見定めるように、彼女を中心に弧を描くようにゆっくりと移動し始めた。
彼女は恐ろしさのあまり身じろぎ一つ出来ずに、目でソレを追い続ける。
そのとき、彼女はここ何日か、テレビのニュースで流れていた内容を思い出していた。
猛獣と思しき生き物に襲われ、何人も死傷しているということを。
交差点の向こう正面まで移動したソレは、少し後ろに下がってさらに体勢を低くすると、勢いよく彼女目掛けて走り出す。
とんでもない速さで交差点に差し掛かった。
彼女は思わず後ろに体勢を崩して尻餅をつく。
襲われると思い咄嗟に目を瞑ったその瞬間、眩い光が瞼越しに飛び込んできて、重たい何かが路面を滑る音、甲高い摩擦音、直後に激しい衝突音を聞いた。
やや間を開けて、我が身に何も起こっていないことを不思議に思いながら、恐る恐る彼女は目を開ける。
すると、目の前ほんの2,3メートル先に自動車が停止していた。左角から飛び出してきたのであろう、向かって右の方が車体前部で、ヘッドライトがさらに右の方を照らしている。
その先数メートルに、赤黒い液体を路面にまき散らした黒い物体が横たわっていた。
やや時間をおいて、運転席のドアが開き、若い男性が恐る恐る出てくる。
その顔はヘットライトに映し出された物体の方にむけられており、一言「マジかよ」と呟いていたが、意を決したのか、かすれるような声で「大丈夫ですか」と言いながらソレに近づいていく。
あと一歩の距離に近づいた彼は、言葉を失い、固まったように動かない。
なにか信じられないものを見たような、表情は見えないが、全身がそれを表している。
次の瞬間、横たわっていたソレが徐に四つん這いの状態に起き上がった。
少しふらつく感じで四肢を伸ばしたソレは、自分の躰をあちこち見回し、やがて右角の方へ脇目も振らず、ものすごい速さで走り去って行った。
若い男性は一瞬怯んで後退ったきり、放心したようにしばらく動かなかったが、やがて意識を取り戻したかのように、辺りを見回し、自分の車のボンネットなどを調べ始めた。
そして、そこで初めて、交差点手前で倒れている女性に気づき、慌てて駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
「ええ、助かりました」
「え?」
彼女は身の危険を脱したことを悟ると、安堵の息を漏らし、若者に礼を述べ、一連の経過を話した。
若者と彼女は、先ほど見た生き物について、それぞれの見解や感想を一頻り延べあった後、この後どうすべきか相談し、警察に通報するのだった。
交番勤務の警官から経緯を聞いた刑事の滝沢は、より詳しい事情を聞くため、当事者の若い男女からそれぞれ聴取を行っていた。
まずは、自動車を運転していた若い男性を呼ぶ。
現場に残された血痕、青いスポーツタイプの自動車の破損具合から、何者かをはねたことは明らかだったが、被害者がいない。
居合わせた女性は、自動車からは離れた場所に倒れており、これといった怪我もなかったため、事故に関して言えば目撃者ではあるが、被害者ではない。
若者は、何かにぶつかったのは事実だが、人ではなかった、見たこともない、人に似た動物だったと言う。
科学捜査班の調査によると、血液は人間のものに酷似しているが、確実に人間とは言えない、とのことだった。
証言に嘘はなさそうだ。
次に女性に事情を尋ねる。
彼女は交通事故については、目を瞑っていたため見ていないとのことだった。
それよりも、はねられた生物に関して、やはり人ではないという内容を、やや興奮気味に語った。
そして、若者のおかげで助かった、感謝してもしきれないと何度も言っていた。
その後、科学捜査班からの報告で、路面に猛獣の爪でつけられたような傷跡が見つかったことがわかった。
かなり深く抉られており、おそらく猛獣が獲物に飛びかかる際、初速を得る後ろ足の動きで付けられたものであろうこと、但し、爪の硬さや脚力が尋常ではない、とのことだった。
ここ数ヶ月、正体不明の猛獣による被害の通報が幾度かあった。
また、見慣れない者ならしばらく食事も喉を通らなくなるであろう、酷く無惨な姿で発見された被害者も何度か目にした。
これは、警察の取り扱う事件の範疇なのだろうか、軍隊の仕事なのでは、という考えが頭を過ぎる。
滝沢は言い知れない戦慄を覚え、それでも市民を守るためにどう動くべきか、頭を悩ませるのだった。