月下のせせらぎ
陽がとっぷりと暮れた山中。仄かな月明かりを頼りに、山道を進む者がいた。
男は、平服に草鞋履きで帯刀している。その背には女を背負っている。
女は、寝間着に薄い羽織という出で立ち。シンプルながら上品にまとめられている風である。
「姫様、今暫くご辛抱を。今宵中に峠を越え、我が祖母の屋敷へ落ち延びましょう」
「しかし、それでは落ち延びる前にそなたが倒れてしまう」
「なんのこれしき。普段鍛練を欠かしておりませんゆえ。米二俵抱えてでも、辿り着いてみせましょう」
それきり、女は黙ってしまった。男は山道を駆け抜ける。
女は必死にしがみつき、男は女を落とすまいと、しかし歩を緩めることなく走り続けた。そして夜明けまで一刻になろうかという時、女が口を開いた。
「宗次郎、ここで一度休みましょう。そなたには休みが必要です。大丈夫、ここまで来ればひと安心です」
「姫様がそう仰るのならば。お気遣い、痛み入ります」
男は近くにせせらぎを見つけ、適当なところに女を座らせた。そして懐から小さな碗を取り出すとせせらぎで洗い、水を汲む。
「姫様、これで喉を潤して下さいませ。さぞやお疲れでしょう」
「ありがとう宗次郎。ですがわらわは大丈夫です。そなたが飲みなさい。その汗は尋常ではありません」
「されども…」
女は朗らかに笑いかけた。男はしぶしぶながら水を飲んだ。
「では宗次郎、ひとつ頼まれてはくれぬか?」
「何で御座いましょう、姫様?」
「屋敷から逃げる際、足を痛めてしまったのじゃ。手頃な棒切れを見繕ってきてほしい」
「わかり申した。すぐご用意致しましょう。しばしお待ちを」
男は立ち上がり、茂みに這入っていった。程なくして戻ってくる。
「見繕って参りました。…姫様!」
女は倒れていた。懐刀がその胸に刺さっている。
「姫様、お気を確かに!な、なにゆえ…」
「先程、麓の村とおぼしきところから薄く火が煌めくのが見えました。父の出陣した折りを狙う叔父御のこと。綿密に計画を練ったのでしょう」
「しかしてご自害なさるとは…」
「わらわとて武門の女子。敵の手に落ちることはなりません」
「…姫様!申し訳ありませぬ!某に、某に無力なばかりに!」
「いいえ、宗次郎。それは違います。そなたが父に、そしてわらわによく尽くしてくれました。それは誰しもが認めていることです。もちろん、父もわらわも」
「もったいのう…」
「それに屋敷が夜討ちにあった時、真っ先に駆け付けてわらわを逃がしてくれたから、わらわは敵の手に落ちずに済んだのじゃ。それに…」
「…それに?」
「愛しい男の腕の中で逝けるのじゃ。女冥利に尽きるというもの」
「…なっ!?」
絶句する宗次郎。その時見た女の笑顔は、月明かりに照らされていた。
「もう時間も残ってはおらぬ。…牧村家当主和興が次男、宗次郎。そなたの忠道、大義であった。月城家当主正興が娘さくやが命じる。わらわの遺骸を敵の手に渡さぬようにせよ。これが最期の命である」
しかし宗次郎は俯いたまま答えない。
「…宗次郎、わらわの願い、聞いておくれ」
「…承り奉る。我が命に変えましても」
「うむ」
女…さくやは穏やかに笑う。
「最後にもうひとつ、ひとりの女子として頼みがある」
「…なんで、ございましょう?」
「わかわの、名を、呼んではくれぬか?」
「…畏まりまして、ございます。…さくや」
「ああ、宗次郎、わらわは、幸せ、じゃ」
「うう、さくや姫」
「大の、おのこが、泣くで、ない。あと、わらわの、あとを、追うで、ないぞ。生きて、天寿を、全う、せよ。さらば、じゃ、そうじ、ろ、う」
穏やかな、満ち足りたような笑顔だった。白銀の月と煌めく水面が二人を幻想的に包んでいた。