病室にて。3
窓の外から風が駆け寄る。
花模様のレースのカーテンが、開け放たれた窓から逃げようともがく。
それに便乗しようとでもするかのように、窓際の机上に置かれていたハードカバーの本が、白い腑をさらした。
身じろぎはすれど、カバーが重りとなって、舞い上がることを許さない。
「……僕は、“生きていたくはないから”」
風が去り、静寂が、伸びをしようと構えたとき、本に伸びた骨のような指が腑を撫で、ついで白く筋張った十の指が、本を捕らえようとした。
「キョーくん、変な引用はやめてって、オルも言ってたでしょ?」
横から伸びた手が、骨に囚われた本を救う。
腑を秘められた本は女性の健康的な腕に納まった。
「“それでも僕は、止められない”」
視界の横に滑っていった本を追い、骨そのもののような病的な腕が持ち上げられる。
本に焦点を結べていない両の眼は、落ちくぼんで光を反射しない。
短く切りそろえられた髪によって、昔とは異なり不健康な容姿がはっきりと窺える。
弱々しい声が、床に跳ねた。
「それは“サクラ”の絵描き中毒のセリフ。
さっきのは“アマガエル”の主人公の『死んだように生きていたくはないから。』
引用は勝手だけど、変な風に抜粋しないで」
骨ばった腕は下ろされる。
長く眠っていたせいで、骨のような彼の体力筋力は落ちていたから。
糸が切れた人形のように、青年が倒れた。
短い髪はまだ、揺れることを知らない。
ベッドに座った状態から、彼は綺麗に後ろに倒れ込んだ。
女性は倒れたまま体を起こすことのない青年の傍らに座ると、まっすぐに彼の目を見下ろす。
「君は、生きているんだから」
「──僕は……“貴女を恨みます。”」
弱々しい声は天井に届く前に霧散する。
「恨んでくれてもいいよ。
キョーくんが生きてくれるんなら、そのためなら、私のことなんか憎んでくれても構わない。」
女性は笑おうとした。
両の瞳には透明な滴がたまる。
「私は……“あなたのことが……憎めない。”」
青年を真似て腕の中の本から言葉を引用した女性の瞳から溢れでた滴は、何度も青年の頬を打った。
「僕は“姉さんが、うらやましい”」
青年は目を閉じた。
その言葉は女性が手にしている本と同じ著者によって書かれた最初の作品に登場する一節。
女性は青年の姉ではない。
従姉でもない。
血縁関係はないが、親密な仲ではあった。
姉弟というよりも、母子と表現するほうが適当な間柄であるが、普段から姉のように慕っていたから、そのまま引用したのであろうか。
「私はキョーくんのお姉さんじゃないよ」
「マオのお姉さんだから──そう言っても、問題ない」
「変な理屈。」
目元を指で拭いながら微笑んで、女性は青年の体を起こし、壁に寄りかからせた。
「“体力が、予想以上に落ちてる”」
「それはアマガエルのセリフでもあるよね。
引用ばっかりしてないで……キョーくんの言葉が聞きたいな」
言われ、青年は壁に視線を刺す。
「……マオも、みゅーも居ないこの世界に、生きる意味は、あるのかな」
壁の向こうには、過去が見えた。
壁のこちら側に、現在は見えない。
幼なじみの姿を思い浮かべ、青年は言葉を紡いだ。
弟たちの姿を思い浮かべ、女性は視線を虚空へと向ける。
「前よりは前向きな発言だ」
女性は弟のような息子のような存在である青年の内面の変化を感じ、過去と現在の決定的な違いを改めて思い知った。
それを受け入れるためにも、あの少女の代わりに、この彼を生かさなければ。
そう、思った。
「“私が貴方と遊びたいの”
──それが、あなたが生きていなければならない理由。」
青年は、くすんだ瞳を瞼の裏に隠した。
そこには過去があった。
少女と少年と。
3人と兄弟と姉と、両親やクラスメイト。
今は亡き平穏と静寂が、そこにはあった。
過去があがり、現在が網膜に虚像を結ぶ。
すぐそこには、過去にも現在にも共通する、あたたかいものがあった。
彼がいなくとも、それはあり、あの彼女がいなくとも、それはある。
青年は、思い出した。いや、気付いた、と表現するのが妥当かも知れない。
目の前の彼女が、誰なのか。
初めて知ったのかもしれない。
こんなにも大切な存在だったなんて。
「じゃぁ、少なくとも編花さんが死ぬまでは、私は、死んではいけないんだね……。」
女性は頷いた。
「おかえり、キョー」
「ただいま」
現実に帰った梗一郎は、リハビリを経て退院し、自宅へは帰らず編花の家で──幼馴染みだった彼らの馴染みの地で、しばしの安息を得た。