崇の場合
一夜明けて冷静になってくると、罪悪感が増してきた。おもしろそうに笑う香織の笑顔が、それに拍車をかける。
そして全裸の自分を見つめられているのが、途端に恥ずかしくなってきた。
「わぁっ!」と一声叫び、崇はそのままバスルームに駆け込んだ。バスタブのふちに腰掛けると、改めて携帯 電話 に向かって怒鳴る。
「久治!」
「なんか大変そうだねぇ」
電話のむこうから、のんきな笑い声が聞こえた。
「笑い事じゃないぞ。なんで電話に出ないんだよ!」
「いやぁ、真夜中だからさ。マナーモードにしてて気付かなかったんだよ」
絶対ウソだと直感する。だが調子のいい久治は、追及してものらりくらりと躱すだろう。だから話題を変えた。
「おまけに車乗り逃げしやがって!」
「あー、やっぱ怒ってる?」
「当たり前じゃないか! あんなとこで置き去りにされてどうやって香織を送って行けって言うんだ」
するとすかさず久治が言葉尻をとらえた。
「あれ?"香織"って呼び捨て? ずいぶんと仲良くなったんだねぇ」
崇が絶句していると、久治はさらに畳み掛ける。
「それにケータイに出るまでずいぶん時間があったよなぁ。まさかあのままバスターミナルで野宿して電話にも気付かず熟睡ってわけないだろうし」
「当然だろう。お客様を野宿させられるか」
憮然として答える崇に、久治が鬼の首を取ったかのように言った。
「あーっ、やっぱり一緒に泊まったんだ!」
「あのなぁ! 誰のせいだと……」
崇が言い訳しようとした時、隣の部屋から壁越しに桃色の声が聞こえてきた。
(朝っぱらから風呂場で何やってんだよ、 隣の奴!)
朝っぱらだろうが真っ昼間だろうが、ラブホテルなんだから何やってるなんて愚問である。
崇が言い訳しながらうろうろ歩き回っている間も、隣の桃色の声は絶え間なく聞こえる。ついにたまりかねて崇は叫んだ。
「あーっ! うるさい!!」
腰にバスタオルを巻きながら、崇はバスルームから部屋に戻った。電話のむこうでは久治がおもしろそうにひやかす。
「隣も朝からお盛んだねぇ」
崇は驚いて聞き返した。
「えっ? 聞こえたのか? 今の声」
しばし沈黙の後、久治が吹き出した。
(あ、しまった!)
崇は自ら墓穴を掘ってしまったことに気付いた。
「てめぇ! カマかけやがったな!」
久治は得意げに言う。
「なに、簡単な推理だよ、 ワトスンくん 。君も彼女も荷物はこちらに置き忘れている。手持ちの現金は二人合わせてもわずかだろう。あの時間その付近で二人が泊まれる安宿といえば推して知るべしだ。――で、やっちゃったの?」
崇には答えることができない。途端に久治が真面目な声で話し始めた。
「崇、ツアーのスタッフと参加者の色恋は御法度だ。発覚すれば君はスタッフの資格を失う事になる。たとえ彼女の方から仕掛けたとしてもだ」
「わかってる。だが香織は悪くない。オレが軽率だったんだ」
「じゃあ認めるんだな?」
「……ああ」
崇は観念して俯いた。今後のことをあれこれ考えようとしていると、突然久治がうれしそうに叫んだ。
「やりぃ! 昇! オレの勝ちだ!」
「なにーっ?! マジかよ、崇ーっ!」
久治のうしろで昇の悲痛な叫びが聞こえる。今ひとつ状況が飲み込めない崇は久治に尋ねた。
「何の話だ」
久治は勝利の喜びから饒舌になる。
「昇と賭けたんだよ。おまえが香織ちゃんと一夜を共にしておちるかどうかをさ。崇は生真面目だからツアー参加者とは絶対に間違いを起こさないって昇は主張したんだが、オレは絶対におちると思ったね。みごとオレの勝ち」
楽しそうに話す久治の声を聞きながら、崇は沸々と怒りがこみ上げてきた。
「おまえら! ひと をおもちゃにして遊びやがって! クビになるオレの今後はどうしてくれるんだ!」
崇の心配をよそに、久治は軽く答える。
「ああ、大丈夫。心配ないない。香織ちゃんはツアーの正式な参加者じゃないんだ」
ゆうべバスに戻った久治は、参加者の名簿に香織の名前がないことに気付いた。結婚詐欺などに利用されてはまずいので、参加者は全員申込時に、必ず実名、住所、連絡先を登録することになっている。参加者の変更は前日までに知らせなければならない規則だが、香織は当日有紀によって急遽代理で連れてこられたらしい。
次の休憩場所で久治が有紀を問い質したところ、それが発覚した。だが有紀はバスターミナルで、久治と昇が賭の話をコソコソしているのをちゃっかり聞いていたのだ。
香織の荷物を残したままバスを出発させた時、スケジュールが押しているので町に着いてから宅配で送るという久治の苦しい言い訳に、納得したフリをして黙っていた。
そして代理参加を問い詰められた時、崇が香織に手を出したなら、それを黙っている代わりに代理参加を不問にするよう取引を持ちかけてきたのだ。
そうなるように仕向けた、久治たちの事ももちろん黙っていると。
なかなかの策士だ。後ろ暗いところのある久治たちは、喜んで条件を飲んだ。
「おまえら間抜けだな」
「何言ってんだ。おかげておまえの首がつながったんだろ。よかったじゃないか。だってオレ、おまえがつっかかってんの見てすぐわかったよ。彼女、モロおまえの好みじゃん。一目惚れだろう」
「な、何言って……!」
久治の言葉に、崇は顔に血が集まってくるのが自分でわかった。言葉を失っている崇を、久治が更にからかう。
「あれ? やっぱ図星? だっておまえ中坊の頃から変わらねーじゃん。好きな子にやたらとからむの。いいかげん大人になれよ。じゃ、彼女の荷物は本当に宅配で送るから、後はよろしく。なんならもう一発やって帰れば?」
言うだけ言って、久治は一方的に電話を切った。崇は携帯電話を再び上着のポケットに入れると、ため息をついた。
"中坊の頃から変わらねーじゃん。いいかげん大人になれよ"
久治の言葉が頭の中でリピートする。
「崇くんクビになっちゃうの?」
ふと見ると、香織がベッドの上に体を起こして、心配そうにこちらを見ている。
「聞いてたのか」
崇はベッドのふちに腰掛けた。同じ部屋の中であれだけわめいていれば、聞こえて当然である。
「それって私のせい?」
香織が崇ににじり寄ってきた。
「心配ない。クビにはならないよ。香織のおかげで」
キョトンとする香織。
「ツアースタッフがツアー参加者に手を出したらクビになるんだ。当然だけど。でも香織は正式なツアー参加者じゃなかった。おかげでクビが繋がったって事」
「きゃあ、よかったぁ」
香織が崇の背中に飛びついてきた。背中に触れたやわらかい胸の感触に、崇はドキリとして香織を突き放した。香織もまた全裸のままだった。
「っていうか、おまえなにか着ろよ」
香織は口をとがらせて横を向いた。
「ふーんだ。そんなのお互い様でしょ。ゆうべ散々見たり触ったりしたくせに、今さら何言ってんの?」
「そういう生々しいことを言って蒸し返すな! 自己嫌悪に陥ってんだから」
香織が黙り込んだ。崇は背中を向けたままつぶやいた。
「ゆうべの事は悪かった。ごめん。どうかしてたんだ」
さらに沈黙が続く。不審に思って崇が振り返ると、そこには今にも泣き出しそうな顔をした香織が崇を睨んでいた。
「どうしてあやまるの? 自己嫌悪って何? どうかしてたってどうしてたのよー!」
香織がとうとう泣き出した。どうしていいのか分からず、崇は内心ひどくうろたえる。
「崇くんはゆうべの事を後悔してるの?」
「後悔してるよ」
「ひどい!」
香織がさらに声をあげて泣き出した。崇は香織の方を向いて座り直した。
「泣くな、わめくな、話を聞け!」
香織がとりあえず声を止める。
「いいか? ゆうべの時点でオレにとっておまえはお客様だったんだ。本当は違うって事を知らなかったんだから、オレはわかっていながらお客様に手をつけたって事なんだよ」
香織は泣き止んだが、まだ納得はしていない。
「でも崇くんは私を救ってくれようと思ったんじゃないの?」
「そんなのは口実だ」
香織が不思議そうに尋ねた。
「違うの? どういう意味?」
崇は視線をはずして天井を仰いだ。少し余計なことを口走ってしまった。しかし後戻りはできそうにない。
意を決して視線をもどしたが、香織を正視できない。
「……わかった。白状する。信じてはもらえないと思うけど……」
香織が見ている。次の言葉を待っている。崇は視線を落として続けた。
「……オレは初めて会った時から、おまえに惚れてたんだ」
ちらりと香織を見ると、口に手を当てて絶句している。この隙に全部暴露してしまえ。
「だからおまえが好きで、おまえが欲しくて、ずっとチャンスを狙ってたんだよ。仕事を忘れて。かっこ悪いじゃないか、仕事そっちのけで女に夢中になってるなんて」
香織が呆然として抑揚のない声で言う。
「それで自己嫌悪で後悔してるんだ……」
崇はさらに続ける。
「それに、こんな話をする前にいきなり段取り踏み越えてるのも好きな相手に対して失礼だろう」
「それで"悪かった、ごめん"なのね……」
すっかり泣き止んだ香織は、崇の言葉をかみしめる様に何度も小さく頷いた。
「でも崇くん私の事好きな様には見えなかったよ。いきなり怒ってたじゃん」
崇は深いため息をついて、がっくりとうなだれた。
「さっきも久治に指摘された。好きな子につっかかるなんて中坊の頃から変わってない。いいかげん大人になれって。頭ではわかっているけど、どうも素直に優しくできない。だから好きな子に嫌われるんだ」
「じゃあ崇くんはモテないくんなの? その割にゆうべは手馴れてたけど」
「だから! 蒸し返すなって言ってるだろ!」
顔をあげると、香織が慈母の微笑みを湛えて見つめていた。
「崇くんは照れ屋さんなんだね。でも大丈夫だよ。私になら素直になれなくても怒っても、もう私はわかってるから」
自分の中にわき上がった感情に、崇は戸惑った。この感情はなんだ。まるで初めて恋をした少年のように、胸がどんどん高鳴っていく。気持ちがどんどん膨らんでいく。そしてふと浮かんだひとつの気がかりが、突然それにブレーキをかけた。
「あの……ひとつ聞いていいか?」
「何?」
「おまえ、今付き合ってる奴とかいないよな?」
「いないよ」
「よかった」
崇は一気に脱力して、大きく息を吐き出しながら項垂れた。
「このうえ他人 の女にまで手を出してたら立ち直れないとこだった」
香織がクスクス笑う。
「崇くんってクソ真面目よね」
「クソって言うな。どうせ言うなら生真面目って言えよ」
そして崇は背筋を正すと、香織の前に座り直した。
「生真面目ついでに今さらながら段取りを踏ませてもらう。今後もオレと付き合ってもらえないか?」
香織がこらえきれずに吹き出した。
「笑うなよ!」
「だっておかしーっ。私たち裸だよ。裸で第一段階踏んでるのってなんかへん」
言われてみればその通りだが、もともと段取りは狂っているのだ。
香織の笑いが収まるのを待って、崇は聞きなおした。
「で、返事は?」
香織は微笑んで答える。
「私でよければ喜んで」
崇は無言で香織を抱きしめた。そして気になっていた、もうひとつの事をきいてみた。
「なぁ。ところでゆうべ、結局気持ちよくなれたのか?」
「もう。蒸し返すなって言ったの誰ー?」
崇の腕の中で、香織がいたずらっぽく笑う。
「ヒミツ。教えてあげない」
「じゃあ、今から自分で確かめる」
ニヤリと笑って、崇は香織を押し倒した。
これも口実だ。罪悪感が無くなった今、恋人として改めて香織が欲しくなった。
「エッチ」と罵りながらも、香織はクスクス笑って本気で拒んではいない。口づけを落とすたびにその笑い声も、甘い吐息に変わっていく。
崇はゆうべ告げることの出来なかった言葉を、香織の耳元で囁いた。
「香織、大好きだ。おまえは?」
「私も……。崇くんが好き」
「割と?」
「すごく」
「気持ちいい?」
「教えない。自分で確かめて」
チェックアウトまでは、まだ時間がある。図らずも久治の言った通りになったのはシャクだが、そんなことはどうでもいい。
二人はゆうべ以上に甘い口づけを交わし、互いに熱く解け合っていった。
(完)