夜
僕は、非常に不味い状況に陥っている。遅刻をするかしないかの瀬戸際に、周りは霧により真っ白に染め上げられているのだ。出口を見失った僕は必死に周りを見渡すが、霧が濃くて何も見えない。僕は慌てて腕にはめている時計を眺める。残り時間があと1分。
身体中の血液が一気に引いていくような感覚に僕は襲われた。
とにかく、走らなくては拉致があかない。
僕は再び足を前に出して、進み出す。
そして、徐々にスピードが上がっていく。
その時、
「ラ~ン、ラ~ン、ラララ~ン♪」
どこからともなく、女の子の歌声が聴こえてくる。とても癒され、安心するような声だ。 しかし、今の僕にその唄を聴いてる暇はない。急いで行かなくては・・・。
そして、走るのに夢中になっている内に霧はいつの間にか晴れ、僕は駅の前に立っていた。
「・・・あれ?」
状況が判断出来ない僕は周りを見渡した。携帯を弄りながら階段へと上る学生や紺色のスーツを身に纏ったサラリーマン風の中年の男の人が公衆電話で何か話してたりと何ら変わらない日常の風景だ。
結局さっきの霧はなんだったのだろうか。僕はそう思いながら、ふと駅に取り付けられている時計が目に入った。
「!!」
AM6:14分
僕は時計を見ると、直にダッシュをした。
結局、電車には間に合わず、走って工場へと出勤することになった。
そして、今に至る。
大勢の機械の音が流れていくなか、社長は、はぁ~と重たい溜め息を吐いた。
「まぁ、良いわ。今回だけは許してあげる。次からは気を付けるのよ?」
「はい、ありがとうございます!」
僕は勢いよく、ペコリともう一度頭を下げた。
この時僕は、社長が仏様に見えてしまう程、嬉しく感じたのは言うまでもない。社長は僕の言葉を聞くと少し頷いてその場から離れて行った。
社長が離れて行くのを確認すると僕は頭を上げて、そっと胸を撫で下ろした。
「よっ、彼岸花!何とか生き残れたようだな!」
突然後ろから聞き覚えのある声が聞こえてきた。取りあえず振り返ってみると、そこには同僚の高野 浩平が陽気に笑って立っていた。
相変わらずのその頭から生える二本の黒いアホ毛がユラユラと額の方へと垂れ、前後に揺れている。
「はい、何とか生き残ることに成功しましたよ。高野君」
僕は素っ気なくそれに答えた。すると、アハハッと苦笑いをして口を開く。
「そんな風に言うなよ~。ほら、仕事しようぜ」
高野は手を動かして、こちらに来いと促す。 僕は黙ってそちらに歩み寄って、仕事場へと向かった。
その日の夜、僕は仕事のメンバーと一緒に食事をすることになった。メンバーはざっと4人。僕と同僚の高野と上司の松岡 徹(まつおか とおる)。そして、イギリスからわざわざやって来たウィリアム・カナスタ。
四人席のテーブル席にみんなは腰掛け、今日あったことを色々と駄弁っていた。そして、話題は僕が遅刻した理由に移った。
「で、結局どうして遅刻したの?」
陽気に高野は僕に話しかける。この質問にはどうやって話したら良いのか分からなかったが、取りあえずあったことを全て話しておこう。どうせ信じてくれないが・・・。
そして、僕は全て話した。
僕が話すなか、みんなは真剣な表情で聞いていた。
僕が話を終えると、少しの沈黙が続いた。しかし、その沈黙もすぐに消えることになった。メンバーの一人、高野が「ぷっ」と吹き出す音が出たと思ったら、「アハハハハッ」とみんなが笑いだした。
こんなに笑われるなら言わなければ良かったと心から僕は思った。
涙ぐみながら上司の松岡が口を開いた。
「悪い悪い、とてもメルヘンチックな話だからつい・・・」
涙を拭きながら言う姿に若干の腹ただしい気持ちになるのだが、そこは我慢しなくてはならない。
「アア、デモ僕達ノ村デハソンナ話聞イタコトアリマスヨ」
イギリスからやって来た金髪に白い肌のウィリアムが思い出したように言う。僕は視線をウィリアムの方へと向けた。
みんなもウィリアムの話に興味を持ったのか、視線か彼の方へといく。
「マジで?お前の国でそんな話があるの?」
高野が笑いながらウィリアムに話しかける。ウィリアムは軽く頷いて、静かに口を開いた。
「確カ、アル一人ノ男ガ散歩シテル途中、ドコカラカ、霧ガ立チ込メタラシインダ。デ、ソノ男ハ訳モ分カラズ、適当二足ヲ進メテ行ク内二アル歌声ガ聴コエテキタ。ソノ男ガ言ウニハトテモ綺麗ナ声デ、トテモ人間トハ思エナカッタラシイ。最終的ニハ、ソノ男ハイツノ間ニカ霧ヲ出テイテ、声ガ消エテイタ。」
「マジで!?彼岸花が体験した話と全く一緒じゃん!で、結局その霧の正体はなんだったんだ!?」
高野が驚いたように言った。確かにこれには僕も驚いた。あの時と全く一緒の話が出てくるとは僕も思ってもいなかった。
「アア、村ノシャーマンガ言ウニハ精霊ノ類ラシイヨ。理由ハ分カラナイケド、人間ヲ惑ワス事ガアルラシインダ。」
「へ~、じゃあ彼岸花君が遭遇した霧や歌声は精霊のものか!良かったな~彼岸花君!精霊なんて滅多に出会えないぞ?」
上司の松岡は笑顔でそう言うと、ポンポンと僕の背中を軽く叩いた。僕も相槌を打って笑ってみせた。実際、あれが精霊だったのか分からないが、まぁレアな体験だったことは確かなようだ。
そして、食事は無事に終り、暗くなった夜道を僕は一人で歩いていた。現時刻、AM2:00を廻ったところだ。僕はお腹を大事そうに抱えながら歩く。
明日以降は工場は休みという嬉しさでつい食べ過ぎたのだ。お腹周りを擦って歩いていると、いつの間にかあの公園の前へと立っていた。
ウィリアムのあの放った単語が頭の中で駆け巡る。
「・・・精霊ですか」
僕はそう呟くと、公園の中に足を踏み入れた。そして、何気なく公園を横切ろうと歩く 。
今は深夜の2:00を廻っているのでさすがに誰もいない。とても静かで、とても暗い。ベンチの横にある街灯だけが唯一の明かりだ。
「ラーン、ラーン、ラララーン♪」
「!!」
またあの歌声だ。僕は立ち止まり、驚きのあまり目を一瞬だけ見開いた。あの時の声。またあの時の唄。今朝聴いたものと同じ。だが1つだけ違うのがあった。それは霧だ。今朝は霧が出てから唄が聴こえたのに、今度は唄が先だ。
僕は額から流れる一筋の汗を作業服の袖で拭き取り、唄が聴こえてくる方へと体を向けた。その先に広がる景色は、暗い森だった。
ここに森があったとは知らなかった。何せあまりこの公園は通らないし、今朝は仕事に行くのに必死だったから気がつかなかった。
僕はゴクリと生唾を飲んで、森の方へと一歩全身する。