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校長!!毒見のお時間です!!

作者: 早乙女姫織
掲載日:2026/05/25

給食の匂いが、廊下の隅々まで染み渡る。

揚げパンの甘い香りに混じって、味噌汁の湯気がゆらゆらと漂っている。

子供たちは4時間目を頑張っている。

算数に頭を悩ませる教室、先生の質問に元気いっぱいに挙手して答えようとする子ども。


体育館から聞こえる規則的なボールの音はバスケットボールの授業だろうか。

学校内を回りながら、私はネクタイをそっと直す。

少し曲がっていた。よし、これでいつも通りだ。

入口で深呼吸をひとつ。

眼鏡の位置を確認し、校長室の扉を開ける。


「校長先生、今日もご用意しておきましたよ。」


佐藤先生が笑顔で待っていた。

私はそれに頷きで返事をし、ゆっくり椅子に腰かけた。

言葉は少なめに。

喉が乾いているのは、緊張のせいだろう。

この学校では、校長が給食を最初に食べる。

それは、伝統でも、模範でもない。


毒見だ。


誰も口にしないが、知っている者は知っている。


十年前、給食に異物が混入した事件があった。

原因は不明。

腹痛、嘔吐する生徒が大勢いた。

生徒が何人も病院に運ばれた。

命に別状はなかったが、生徒に大きな心の傷を負わせる出来事だった。


給食ではなくお弁当にする案も出たが、保護者の毎日お弁当を作るのは厳しいという声が大きく、給食は復活した。

他県の中学校では、生徒が漂白剤を混入したことがニュースになった。

金属片が入っていたことが取り上げられたり、みんな不安になっている。

それ以来、校長が先に食べることが暗黙のルールになった。


私は、その事件のことをよく覚えている。

あのとき、私はまだ教頭だった。

先生のなかでも体調を崩す者がいた。時間割を緊急で組み替え、5時間目は自習。

読書の時間として対応した。

病院に駆けつけたとき、保護者の方に言われた言葉が、今も耳に残っている。


「学校への信頼がなくなりました。うちの子をこのままでは預けれません。」


その言葉が、私を校長にした。

そして、毒見をする理由になった。


生徒たちはまだ教室にいる。

誰もいない空間で、私はひと口目を味噌汁に向ける。

湯気が眼鏡を曇らせる。

具は、豆腐とわかめ。

安全そうだだが、油断はできない。

二口目は主菜。

今日は鶏の照り焼き。

皮が少し焦げている。

香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

箸を止める。


「……うん、大丈夫、大丈夫。」


誰に言うでもなく、呟く。

三口目は副菜。

ひじきの煮物。

これで、今日の毒見は完了だ。


私は箸を置き、静かに息を吐く。

給食をおいしくいただいた。

キーンコーンカーンコーン。

授業終了のチャイムが鳴った。

笑い声、足音、給食当番が支度をする騒がしい時間が廊下に広がる。

そのすべてが、私の心を少しだけ軽くする。


「今日の給食、揚げパンだって!」


元気な声が飛んでくる。

私は笑って頷く。

生徒たちの笑顔を見るたびに、私は思う。

この毒見が、無意味でありますように。

この儀式が、ただの形式で終わりますように。


今日の給食は、わかめご飯、サバの味噌煮、なめこの味噌汁。

どれも和風で、どこか懐かしい香りが漂っている。

だが、表情は、少し曇っていた。


「……サバか。骨が多いんだよな。」


眼鏡を外し、ネクタイを直す。

深呼吸をひとつ。

わかめご飯をひと口食べる。

塩気がちょうどよく、海藻の香りが広がる。

安心の味だ。

次に、なめこの味噌汁。

ぬるりとした舌触りに、少し眉をひそめるが、異常はない。


そして、問題のサバの味噌煮。

慣れた手つきで箸を伸ばす。

もしかしたら、骨が喉に刺さるのではないか。

味噌の香りが濃く、脂が乗っている。

だが、心は落ち着かない。


「子供たちはちゃんと食べれるだろうか。」


サバを口に運ぶ。

骨を避けながら、慎重に噛む。

濃厚な味噌が舌に広がる。美味しい。

私はそのまま食べ進めた。


「ごちそうさま。今日も、無事だ。サバも、なめこも、わかめも……全部、おいしかった。」


廊下から、子どもたちの笑い声が聞こえる。

その声に、私は静かに微笑んだ。


運動会に向けて、生徒も先生も大忙しな時期。

疲れ知らずな子どもたちに憧れを感じつつも席に着く。

スパイシーなにおいが私の鼻をくすぐった。

ナンとカレー、サラダにスープ。

いつもより少し異国風で、どこか特別な雰囲気が漂っている。

私は眼鏡を外し、ネクタイを直すと、深く息を吸った。


「さて……毒見のお時間ですね。」


誰にも聞こえないように呟いて、椅子に腰を下ろす。

ナンをちぎる指先が、少し震えていた。

もっちりとしたナンをカレーにそっと浸して、口に運ぶ。

スパイスの香りが広がる。

辛さは控えめで、給食らしい優しい味だ。


だが、彼の心は穏やかではない。

二口目はサラダ。

キャベツと人参の千切りに、ゴマドレッシング。

そして、トマトが、そこにいた。

赤く、みずみずしく、堂々と。


「……これは……その……」


誰もいない校長室で、しばらくトマトとにらめっこをした。


苦手なのだ。

あの独特の匂い、ぷちっと弾ける食感、酸味。

子どもの頃からどうしても馴染めない。

だが、毒見は全てを食べることが原則。

お残し厳禁。

なにより、子どもたちに好き嫌いはしてはいけないと教えている。

そっと箸を伸ばした。


「みんなが食べるんだ。私が…食べなきゃ…」


トマトを口に運ぶ。

ぷちっ。

酸味が広がる。

目をぎゅっと閉じて、耐える。

お皿はすぐに空になった。

おいしかった。


「ごちそうさまでした。」


窓の外から、子どもたちの笑い声が聞こえる。

その声が、私の胸の奥にじんわりと温かさを灯す。


最近、冷たい風が吹くようになってきた。

生徒たちが風邪で体調を崩さないか心配しながら机の上に視線を向ける。

麦ごはん、筑前煮、けんちん汁。

今日はご当地料理らしい。

見た目は地味だが、どこか品のある香りが漂っている。


「今日は、地味に見えて、油断できない日だな。」


麦ごはんは、ぷちぷちとした食感が特徴。私はひと口食べた。


「もちもちしてておいしい。」


次に、筑前煮。れんこん、ごぼう、にんじん、しいたけ、鶏肉。


「子どもにとっては、大変な給食になるんじゃないか?」


けんちん汁は、豆腐、大根、にんじん、こんにゃく。

具だくさんで、見た目は優しい。

だが、こんにゃくの弾力とともに、心は揺れる。


「野菜がたくさん。みんなちゃんと食べきれるだろうか。」


私はしっかり食べきった。

給食は栄養バランスが考えられているため、ここ最近調子がいい。

いい一日を過ごせた。


学校の見回りの時、廊下を走っている生徒に注意をしたため、少し落ち込んでいた。

生徒と顔を合わせる機会は少ない。

怖がられていないだろうか。校長室の扉が、軽くノックされた。


「校長先生、今日の給食、ちょっと刺激的かもしれませんよ」


佐藤先生の声には、いつものように含み笑いが混じっていた。

眼鏡をずらしながらトレイを見下ろす。

ABCスープやからあげなど人気メニューが並んでいたが、問題は野菜だった。

ブロッコリーとしらすとトマトの和え物。


「トマト。この前も食べたばっかりですよ。こんなにでるなんて……。」

「ええ、今週はトマト強化週間ですから。」


佐藤先生は、校長室の扉越しに楽しそうに言った。


「校長先生の苦手克服、応援してますよ。あ、ちなみに来週はピーマン週間です。」

「……そんな週間、誰が決めたんですか……」


トマトを前にしてしばらく固まった。箸を持つが進まなかった。


「校長先生が食べれば、みんな安心して食べられますからね。しっかり食べてください。」


佐藤先生の声は、冗談めいているが、どこか優しかった。

私は、トマトを口に運び、目をぎゅっと閉じた。


「……うん、大丈夫。たぶん……生きてる。」

「さすがです。じゃあ、来週のピーマンもよろしくお願いしますね。」


扉の向こうで、佐藤先生がくすくす笑っていた。

校長室の扉の方から、子どもたちの笑い声が聞こえる。

ささやかな幸せだった。


だが、数日後。

平和な日々を揺るがす出来事が起きた。

ある日、味噌汁に異様な苦味を感じた。

口に含んだ瞬間、舌がしびれるような感覚。

私はすぐに箸を置き、他の先生を呼んだ。


「佐藤先生、今日の味噌汁、何か…変じゃないですか?」


佐藤さんは驚いた顔で味見をし、首を傾げた。


「不味くはないですけど。でも、鉄分を感じますね。」


その日の味噌汁は、検査用に保管された一部を除き、全て廃棄された。

生徒たちは事情を知らないまま、パンと牛乳だけで昼食を終えた。


「今日使った鍋、いつものものですか?」


給食主任が眉をひそめる。


「実は、昨日の洗浄中に小さな傷が見つかって、予備の鍋を使ったんです。古いけど、問題はないはず…」


鍋の内側を確認した。指先でなぞると、微かにざらついた部分があった。

調理員たちは鍋の成分を調べ、微細な腐食が進んでいたことが判明した。


「校長先生、よく気づきましたね…」


佐藤先生がぽつりと呟いた。

校長室に戻り、空の器を見つめながら言った。

新しい鍋が届くまで、お弁当の協力を保護者に頼んだ。


原因を突き止めて解決したことにより、給食が再開された。

私はいつも通り、給食を最初に食べた。

味噌汁は、普通だった。

主菜も、副菜も、問題なかった。

だが、心の中には、あの日の苦味が残っていた。


「校長先生、今日も」


佐藤先生の声に、私は笑って頷いた。


「ええ、まあ…その、ちょっとだけ勇気を出してるだけです。」


生徒たちの笑顔が、学校に広がる。

私は、その中に身を置きながら、静かに思う。

毒見とは、恐怖を飲み込む儀式だ。

誰かのために、怯えながらも、箸を進める行為だ。

それが、私にできる精一杯の勇気なのだ。

そして、今日も私は、最初の一口を味噌汁に向ける。


「いただきます。」

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― 新着の感想 ―
 味噌汁への違和感からの鍋の変化に勘づくといった分析力ある校長が十年もの間、子供たちの安全と笑顔のために体をはって毒味し、サバの骨の喉刺さりに対する懸念するなどといった描写などが印象的でした。 静か…
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