四皿目 下ごしらえはゼロから
リュドヴィックがエレオノール王女の従者になってから一ヶ月以上経った。
その日の午後三時、リュドヴィックがいつものようにエレオノールの部屋を訪れると、扉が勢いよく開いた。
開いた、というより吹き飛んだ。風属性の魔法で内側から弾かれたらしく、蝶番がぎしりと鳴った。
「助けて!」
エレオノール王女が目を潤ませてこちらに駆け寄ってくる。顔面蒼白だ。いつものふてぶてしさは影も形もなく、世界の終わりが来たかのような表情をしている。
リュドヴィックは反射的に写本を抱え込んだ。まず本を守る。習性だ。
「どうしたんですか」
「入学試験があるの!」
「はい?」
「王立魔術アカデミーの入学試験が来月なの! 知らなかったの! 対策全くやってなかったの!家庭教師はみんなやめちゃったのよ」
リュドヴィックは一拍おいて、状況を理解した。それから、抱え込んでいた写本を元の位置に戻した。
「ああ、なんだ……自業自得ですね。一人で頑張ってください」
リュドヴィックは家庭教師としてエレオノール王女に仕えているのではない。あくまで司書、百歩譲っても従者である。
「なっ——」
「僕は写本の締め切りがあるので」
踵を返しかけたリュドヴィックの袖を、エレオノールが掴んだ。意外に力が強い。
「待ちなさい。わたしが入学できなかったら、あなたも入れないけど?」
足が止まった。
「……どういう意味ですか。僕がなぜアカデミーに入る必要が?」
「王立魔術アカデミーの付属図書館には、国内最大の魔法書コレクションがあるの。知ってるでしょう?」
「……知っています」
聞いたことはあった。学費など諸々を考えると早く仕事を始めた方が良いと判断して司書になったが、アカデミーへの入学を選択肢として考えたこともある。
「わたしが入学すれば、従者のあなたにもアカデミーへの入学許可が出るわ。いいえ、わたしがお父様に絶対に出させる。魔法書専門図書館の蔵書拡充のためという名目で、アカデミー付属図書館の閲覧権限もね。もし、わたしが落ちたら?」
「……もらえません」
「そうでしょ。あなたはアカデミーの図書館に入ってみたいとは思わないの?」
リュドヴィックは天井を仰いだ。
彼女はこういうところだけ恐ろしく頭が回る。
「……喜んで家庭教師をさせていただきます」
「最初からそう言えばいいのに」
エレオノールは勝ち誇った顔で袖を離した。
リュドヴィックは早くも後悔していた。
まず現状を把握しようと、リュドヴィックは簡単なテストを用意した。
魔法言語の基礎読解、初歩の歴史問題、簡単な計算。いずれも王立魔術アカデミーの入学試験より遥かに易しい問題だ。年齢に対して優しすぎる簡単な問題も混ぜた。エレオノール王女の学力の底を見極めるための、いわば診断テストである。
エレオノール王女は真剣な顔でペンを握り、三十分後に答案を提出した。
リュドヴィックは採点した。
零点だった。
零点。
全問不正解。
一問も合っていない。
歴史の問題が分からないのは百歩譲ってまだいい。魔法言語の読解で躓いたのも、まあ、彼女は読むより食べる方が得意なのだから仕方がないとしよう。
だが。
「あの」
「何」
「この最後の五問は、簡単な一桁の足し算と引き算です」
「ええ、それがどうしたっていうのよ」
ふんと鼻を鳴らして彼女は言った。やけに堂々としている。
「全て間違っています」
「そう?」
そう? ではない。
リュドヴィックは答案を指差した。
「三足す四は七です。十一ではありません」
「足すってなんだったかしら」
「…………」
リュドヴィックは一度深く息を吐き、もう一度吸った。
「待ってください。こんな簡単な計算すら分からないってどういうことですか。今までどうやって生きてきたんですか」
「計算なんて使う機会ないじゃない」
エレオノールが頬を膨らませて、何を言っているのと言いたげな顔をする。
リュドヴィックは自分の質問を恥じた。
考えてみれば当然だった。
王宮暮らしで、毎日の行動範囲は自室と図書館とお茶会だけ。買い物をする必要もなければ、家計を管理する必要もない。たまにお忍びで街に出かけることがあっても、財布を持っているのは侍女やリュドヴィックで、支払いもすべて彼がやっている。エレオノールは金を払わなければ物が買えないという概念は理解しているが、実際に計算をしたことが一度もなかった。
この惨状で家庭教師が辞めたというのも納得してしまう。どうやって教えようにも限界がある。
「姫」
いつの間にか敬称が変わっていた。最初は「殿下」だったのが、いつからか「姫」になっている。リュドヴィック自身、正確にいつからそうなったのか覚えていない。たぶん、三度目くらいに写本を完食されたあたりだ。丹精込めて書いたものを三日で平らげる相手に、かしこまった敬称を使い続ける気力が持たなかったのだろう。
「姫、入学する方法が三通りあるのは知っていますよね」
「ええ。統一試験、自己推薦、それと王族推薦でしょ?」
統一試験は、王族から平民まで幅広く受ける入試方式だ。王立魔術アカデミーで必修科目から二科目を選択して受験する。
一方で自己推薦は、過去に偉大な功績を残した者に限られる。魔術コンクール入賞者や魔物討伐経験者が大半を占め、教養はないが魔力と体力はあるという平民を積極的に受け入れるための枠だ。そのため、貴族が受けることは稀である。
王族推薦は文字通り王族の推薦で入学する方式だが、実質的には「どうしようもない王族の子弟を体裁よく入れるための救済枠」という認識が広まっており、これで入ると一生悪評がつきまとう。
「姫なら魔物討伐をしたことがあるので自己推薦で受かりますよ」
以前、エレオノール王女が何気なく語った話を思い出す。
エレオノール王女はついこの間お忍びで城下町に出かけた帰り道、森で中型の魔物に遭遇したらしい。彼女が火属性の魔法で追い払った——という話だったが、よくよく話を確認したところ「追い払った」のではなく「焼却した」のが正確な表現だったらしい。火力が栗のポタージュ級の着火術で、である。
「い、や、よ」
「何でそんな強情なんですか。こんな成績で統一試験なんて無理でしょう」
「王族が自己推薦の枠を埋めるなんてもっての外だわ。あれは平民のための枠なの。わたしが取ったら一人分、誰かの席を奪うことになる」
その考え方自体は立派だとリュドヴィックは思った。思ったが、目の前の答案用紙を見ると、立派さと現実の間には深い溝がある。
「じゃあ諦めてください。王族推薦を使いましょう」
「論外よ!」
エレオノール王女は断固として拒否する姿勢を見せた。
「わたしがそんなの使ったらなんて言われるか。アルフレッドもエドワールも統一試験で入ってるのよ。アルフレッドなんて成績トップで受かっているの」
アルフレッド第一王子とエドワール第二王子。エレオノールの二人の兄だ。リュドヴィックは直接会ったことはないが、どちらも文武両道の秀才として知られている。とりわけ長兄アルフレッドは、統一試験を歴代最高得点で通過した逸材だと聞いた。
「姫以外は優秀で素晴らしいですね」
「聞こえてるわよ」
「聞こえるように言いました」
「……あのね、わたしだって努力はするわよ。ただ、今までする機会がなかっただけで」
「三足す四を十一と書く人の『努力する』は、正直そんなに信用できません」
エレオノール王女がテーブルの上の消しゴムを投げてきた。リュドヴィックは首を傾けてかわした。最近こういう物が飛んでくることに慣れてきている自分が少し怖い。
「とにかく! わたしは統一試験を受けるの。しかも成績トップで」
「さらっとハードル上げないでください。成績トップなんて……」
言いかけて、リュドヴィックはふと入試要項を見ていて思い至った。
「あれ、選択科目って四つもあるんですか?」
「そうよ」
「魔法言語、魔法数学、歴史、剣舞。この中から二科目を選ぶ」
「ええ」
「姫はどの二科目を選んだんですか」
「魔法数学と歴史」
リュドヴィックは自分の耳を疑った。
「……この組み合わせで、なぜ魔法数学と歴史を?」
「アルフレッドがその選択だったからよ」
「はあ……」
張り合いたい気持ちも分からなくはない。兄が成績トップを取った科目で、自分も成績トップを取りたい。心意気だけは認めよう。だが、心意気で足し算はできるようにならない。
「……姫。提案があります」
「嫌な予感がする」
「科目を変えましょう。剣舞と魔法言語に」
エレオノールの眉が吊り上がった。
「どこがよ。剣舞って剣振り回すアレでしょう? やったこともないのに」
「それを言うなら、魔法数学もやったことがないでしょう。さっき足し算の記号を聞いてきましたよね。それと、剣舞は剣を振り回す競技ではありません。魔法を剣に纏わせて舞う実技です。魔力の精密制御と身体能力の両方が問われますが——姫の運動神経ならすぐに経験者の実力に追いつくでしょうね」
エレオノール王女は街に出ると、よく屋根の上を走っている。風属性の浮遊術で自分の体を軽くして、猫のような身軽さで飛び回るのだ。従者のリュドヴィックは地上を全力疾走させられるので迷惑極まりないが、彼女の身のこなしが常人離れしていることは認めざるを得ない。
「それから、魔法言語なら満点を取れますよ」
「あら、光栄だわ。理由を聞いてもいいかしら」
「他の人には難読でも、姫にとって魔法言語は料理のレシピと同じでしょう。何しろ、魔法言語は魔法書に書かれている言語ですからね」
エレオノール王女の表情がわずかに変わった。
「…………あ」
「そうです。姫は何百冊もの魔法書を食べてきた。魔法言語を舌の上で味わい、術式の構造を体で覚えている。僕が言うことを読んだことは一度もないでしょうが、味わったことは何百回もある。魔法言語の読解問題は、姫にとっては——」
「メニューを読むようなもの、ってこと?」
「そうです。『この術式は何属性の、どんな効果を持つ魔法か』という問いに、姫は味で答えられる。あとはその答えを文字で書けるようにするだけです。中身はもう全部知っているでしょう」
エレオノール王女は腕を組んで考え込んだ。
「……でも、アルフレッドは魔法数学と歴史で——」
「姫」
リュドヴィックは真っ直ぐにエレオノール王女を見た。
「アルフレッド殿下は魔法言語を味わったことがありますか」
「……ないわ」
「エドワール殿下は?」
「ないわよ」
「じゃあ、統一試験の歴代受験者の中に、魔法言語を舌の上でスフレだのポタージュだのと品評できる人間がいたことは?」
「……いないでしょうね」
「いないんです。これは姫だけの武器です。兄君たちの真似をしても勝てませんが、姫にしかできない方法なら、成績トップも夢じゃない」
リュドヴィックの説得にエレオノール王女はしばらく黙っていた。
腕組みを解き、テーブルの上の答案用紙を見下ろした。零点の答案だ。
それから、リュドヴィックの顔を見た。
「……本当に、満点が取れると思う?」
「魔法言語は取れます。断言します。剣舞はこれからの訓練次第ですが、姫の身体能力なら十分に可能性はある。二科目合わせて成績トップに届くかどうかは——まあ、やってみなければ分かりませんが」
「やってみなければ分からない、って。家庭教師としては頼りないわね」
「一桁の足し算が全滅の生徒を受け持つよりはましですよ」
「……言ってくれるじゃない」
エレオノールの目に、いつもの負けん気が戻ってきた。
「分かったわ。科目を変える。剣舞と魔法言語ね」
「賢明な判断です」
「ただし条件がある」
「何ですか」
「試験が終わるまで、おやつは通常の一・五倍にして」
「食べている場合ですか」
「食べなきゃ力が出ないの。受験生には栄養が必要よ」
「写本は栄養ではありません」
「わたしにとっては栄養なの」
リュドヴィックは反論できなかった。実際そうなのだから。
「……分かりました。ただし、勉強をサボったら一枚減らします」
「鬼」
「鬼で結構です。では、早速始めましょう」
リュドヴィックは不安になりながらもアカデミーの図書館のためと考えて気持ちを切り替えた。
……探している本もアカデミーにある可能性が高そうだ。
王立図書館で散々探しても見つからなかった本。その本を見つけられるのなら、何としてもエレオノール王女を入学させる必要がある。
そこに辿り着くために、まずは目の前の王女に足し算を教えなければならない。
先は長い。果てしなく長い。
だが——不思議と、悪くない気分だった。




