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お姫様、魔法書はおやつには入りません。  作者: 浮夜海月


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二皿目 お姫様はお気に召さない

 王女付きの従者は王宮に住むらしい。侍女に案内されて、リュドヴィックは図書館近くのアパートから引っ越すことになった。

 リュドヴィックの荷物は魔法書が八冊入った革鞄ひとつだけだった。

 着替えは後から届けてもらうことになっている。というよりも、着替えより先に本を詰めたら鞄がいっぱいになっただけである。

 案内役の侍女が振り返りもせずに早足で進むので、ついて行くだけで精一杯だ。おまけに王宮の廊下というのは無駄に長い。壁にかかった歴代国王の肖像画が次から次へと流れていく。どの顔も偉そうだった。


「アンディセンブルさま」


 侍女が足を止めた。彼女の表情はどこか硬い。


「こちらがエレオノール殿下のお部屋です。お部屋に入る前にいくつかお伝えしておくことがございます」

「なんでしょう」

「まず、殿下の前で泣かないでください」

「泣く予定はありませんが」

「次に、殿下がお怒りになられても走って逃げないでください。廊下の花瓶を三つ割った従者がおります」

「……はあ」

「最後に、殿下に絶対に『子供』という言葉を使わないでください。前任者はそれで一分と持ちませんでした」


 あれは事故ではなく自爆だったらしい。

 侍女は一礼すると、まるで戦場から撤退する兵士のような足取りで去っていった。

 リュドヴィックは深呼吸をする。

 大丈夫だ。魔法書が好きな王女なのだ。話が合わないはずがない。彼には魔法書好きならどんな人とでも仲良くなれる自信があった。

 自信というか、確信だ。

 魔法書を愛する者同士が出会えば、自ずと語り合いたいことが溢れてくる。好きな魔法体系は何か、どの写本が最も美しいか、竜の血インクの製法についてどう思うか。そういう話題は尽きることがない。

 彼は意気揚々と扉を叩いた。

 返事はない。

 もう一度叩く。やはり返事はない。

 三度目を叩こうとしたところで、中からくぐもった声が聞こえた。


「……誰」

「本日より従者を務めます、リュドヴィック・アンディセンブルと申します。ご挨拶に参りました」


 五秒、十秒、十五秒。

 かちゃり、と錠の外れる音がした。

 扉が薄く開き、隙間から片目だけがこちらを覗く。

 茜色だ。国王と同じ、燃えるような赤に近い瞳。ただし、国王の目に宿っていた疲労の代わりに、そこにあるのは警戒心だった。小動物が巣穴から外敵を窺うときの目に似ている。


「……あなたが図書館の?」

「はい」

「魔法書に詳しいの?」

「詳しいというか、世界で一番好きです」


 瞳がわずかに揺れた。何かを計るような間があった。

 それから扉がもう少しだけ開く。


「入っていいわ。ただし、三分だけ」


 三分。前任者の三倍だ。上々の滑り出しと言えるだろう。

 リュドヴィックは一礼して部屋に足を踏み入れ——そして、息を呑んだ。

 王女の私室は、さながら古書店が爆発した跡地だった。

 本棚はとうに容量を超え、床には魔法書が山脈のように積み上げられている。机の上にも、椅子の上にも、窓辺にも、暖炉の前にも。足の踏み場がないというのは比喩ではなく、文字通り本の上を歩かなければ奥に進めない。

 リュドヴィックの目を引いたのは量だけではなかった。

 質だ。

 ちらりと見えた背表紙だけでも、「ヴェルダンの竜語辞典」初版、「月蝕の書」王立写本、「アルケミア・プリマ」の新装版——どれも王立図書館ですら所蔵していない稀覯本ばかりだった。


「す、すごい……」


 思わず声が漏れた。膝をついて一番近くにあった本の背表紙を撫でる。


「これ、ヴェルダンの初版ですよね? 現存数は世界で十二冊以下と言われている。まさかこんなところで——」


 感動のあまり目が潤みかけたところで、侍女の忠告を思い出す。殿下の前で泣かないでください。リュドヴィックは慌てて袖で目元を拭った。

 エレオノール王女は部屋の奥、本の山に囲まれた小さな机に腰掛けていた。


 国王と同じ茜色の髪が肩のあたりで揺れている。年は十二か十三ほどだろうか。整った顔立ちだが、どこかふてぶてしい。王族らしい気品はあるのだが、それが「わたしは何をしても許される」という確信に裏打ちされている類の気品だった。

 彼女は頬杖をつき、感動に打ち震えるリュドヴィックを冷めた目で見下ろしている。


「そんなに珍しい?」

「珍しいなんてものじゃありません。ヴェルダンの初版だけで小さな城が買えます」

「ふうん。わたしは城を持っているから、そういうのはよく分からないわ」


 悪気のない一言が心臓に刺さった。

 さすが王女だ。城が買えると言われて「もう持っている」と返す人間に初めて出会った。

 気を取り直そう。リュドヴィックは本題に入ることにした。ここからが勝負だ。魔法書好き同士、語り合えばきっと打ち解けられる。


「殿下は魔法書がお好きだと伺っています」

「ええ、大好きよ」

「嬉しいです。僕も——いえ、私も魔法書に目がなくて。差し支えなければ、殿下のお気に入りの一冊を教えていただけませんか」


 これは鉄板の話題だ。魔法書好きに好きな一冊を聞けば、三時間は語り続けるのが相場である。リュドヴィック自身、聞かれたら朝まで止まらない自信がある。

 エレオノール王女は少し考えるように視線を宙に泳がせた。


「そうね……。『サラマンドルの火典』かしら」

「おお!」


 リュドヴィックは思わず身を乗り出した。現存する中で最も古い火属性魔法の体系書だ。オルトリッシュ魔術学院ですら写本しか持っていない。趣味がいいどころの話ではない。


「あの本は素晴らしいですよね。特に第三章の火竜召喚の術式、あの構文の美しさは他に類を見ません。韻律魔法と図形魔法を融合させた最初期の試みで——」

「え? ああ、ええ、そうね」

「殿下はどの部分がお好きですか? 僕は書写師コルネリウスの手による装飾頭文字が特に——」

「装飾……ええ、きれいよね、あれ」


 なんだろう、この違和感は。

 リュドヴィックは首を傾げた。返事はしてくれるのだが、どうにも中身がない。魔法書好きなら食いついてくるはずの話題に、まるで当たり障りのない相槌しか返ってこない。

 もう少し踏み込んでみよう。


「『サラマンドルの火典』の原本には、通常の竜血インクではなく、火竜種の血を精製した特殊なインクが使われています。そのせいで、ページに触れると微かに温かいんです。殿下もお気づきになりましたか?」

「……ページが温かい?」

「はい。持っていると冬でも手が冷えないと言われるほどで」


 エレオノール王女の目が一瞬だけ奇妙な輝きを帯びた。何かを思い出すような、あるいは確かめるような表情だった。


「ええ。知っているわ。温かいわよね」


 知っている、という割には言われてみればそうね、とでもいうような反応だった。

 リュドヴィックの中で小さな疑問が芽生える。

 会話を続けるほどに、その疑問は大きくなった。

 リュドヴィックが術式の構成について語ると、エレオノール王女は「そうなのね」と頷く。魔法言語の翻訳について尋ねると、「難しいのよね」と曖昧に返す。具体的な内容に踏み込もうとすると、話題をするりとかわす。

 まるで、本の外側は知っているのに、中身を読んでいないような。

 いや、まさか。

 こんなに大量の魔法書を集めておいて、読んでいないはずがない。読み方が違うのだろう。彼女なりの楽しみ方があるのかもしれない。

 ——とはいえ、何がそんなに楽しいのだろう?

 引っかかりを覚えつつも、リュドヴィックは話題を変えた。


「ところで殿下。図書館の設計についてですが」


 エレオノール王女の表情がわずかに曇った。

 気のせいかと思ったが、気のせいではなかった。


「……ああ、図書館ね」

「はい。殿下の蔵書をすべて収蔵できる規模を考えておりまして。魔法書の保存には温度と湿度の管理が重要ですから——」

「保存」


 エレオノール王女がぽつりと繰り返した。その声にはっきりと落胆の色があった。


「ちゃんと管理して、保存するのよね?」

「もちろんです。魔法書は適切な環境で保管すれば何百年も持ちます」


 リュドヴィックは自信満々に宣言する。保管は司書の腕の業所だ。


「何百年も」

「はい。後世に残すべき知識の宝庫ですから」


 エレオノール王女は窓の外に視線を向けた。何かを諦めるような、ため息にも似た沈黙だった。


「……ねえ。図書館に入れたら、あの本たちはわたしのものではなくなるの?」

「所有者は殿下のままです。ただ、図書館として管理する以上、貸し出しの記録や保全の手続きは必要になります。勝手に持ち出したりはできなくなりますね」

「持ち出せない」

「ご安心ください。いつでも閲覧は——」

「…………そう」


 短い返事だった。

 嬉しいはずだ、とリュドヴィックは思った。魔法書好きにとって、自分だけの図書館ができるなど夢のような話ではないか。なのにエレオノール王女の顔には、喜ぶ者の表情はどこにもなかった。

 がっかりしている。明らかに、がっかりしている。

 なぜ?

 魔法書が好きで、魔法書が大量にあって、その魔法書を専門に扱う図書館を贈られて、なぜ落胆する?


「殿下。もしかして、図書館はお気に召しませんか」

「気に入ったわ」

「ですが、あまりお喜びのように見えないのですが」

「喜んでいるわよ。ありがたいと思っているわ」


 口ではそう言うが、声は平坦だった。テーブルの上の魔法書の表紙を指先でなぞりながら、エレオノール王女は独り言のように呟いた。


「ただ……わたしの本は、わたしの好きにしたかっただけ」

「好きに、と言いますと?」

「なんでもないわ」


 エレオノール王女は急に表情を切り替えた。ふてぶてしい笑みが戻ってくる。さっきまでの寂しげな空気を丸ごと振り払うように、彼女は椅子の上で足を組んだ。


「三分はとっくに過ぎたわ。出て行って」

「あ、すみません。つい話し込んでしまって」

「明日また来なさい。話の続きをしてあげる」

「はい。ぜひ、魔法書のお話もさせてください。今度は殿下のお好きな魔法体系について——」

「お好きな……ええ、いいわよ」


 また、あの曖昧な返事だ。

 リュドヴィックは一礼して部屋を出た。

 廊下に出た瞬間、どっと考えが押し寄せてきた。

 壁に背をもたれかけ、天井を仰ぐ。

 おかしい。何かがおかしい。

 エレオノール王女は魔法書が好きだと言った。部屋を埋め尽くすほどの蔵書がその証拠だ。

 だが、話が噛み合わない。

 魔法書好き同士なら通じるはずの言葉が、ことごとくすれ違う。術式の話をしても反応が薄い。写本の技法を語っても上の空。好きな一冊の好きな箇所すら、はっきり答えられなかった。

 あれだけの蔵書を揃えておいて、中身を読んでいないのだろうか。

 いや、そんなはずはない。あり得ない。それでは魔法書を集める意味がない。

 考えても答えは出なかった。リュドヴィックは革鞄を握り直し、与えられた従者部屋に向かって歩き出した。

 ——歩き出して、十歩ほどで足を止めた。

 なぜだか分からない。直感としか言いようがなかった。

 あのときのエレオノール王女の横顔が、頭から離れなかった。図書館の話をしたときの、あの沈んだ顔。「保存する」と聞いたときの、あの落胆。「わたしの本は、わたしの好きにしたかっただけ」という、あの言葉。

 王女が何を考えているのか、知りたかった。

 リュドヴィックは踵を返した。

 別に盗み聞きをするつもりはなかった。ただ、少しだけ——ほんの少しだけ、気になっただけだ。

 エレオノール王女の部屋の前まで戻ると、扉の向こうから微かに声が聞こえた。

 独り言だ。

 誰かと話している声ではない。一人きりの部屋で、自分に向けて呟いている声だった。

 聞こうとしたわけではない。だが、聞こえてしまった。


「最悪の誕生日プレゼントだわ」


 小さな、震えるような声だった。

 リュドヴィックは扉の前で立ち尽くした。

 最悪の誕生日プレゼント。

 父親が、娘のために、心を込めて贈ろうとしているものを——あの王女は、最悪だと言った。

 喜んでいるわ、と彼女は言った。ありがたいと思っているわ、と。

 嘘だったのだ。

 全部、嘘だった。

 なぜ。

 魔法書が好きなのに、魔法書の図書館が嫌。中身は読んでいないのに、大量の魔法書を集めている。保存すると言えば落胆し、持ち出せないと言えば黙り込む。

 何一つ辻褄が合わない。

 リュドヴィックは静かにその場を離れた。足音を殺して廊下を歩き、角を曲がったところで壁にもたれかかった。

 天井を仰ぐ。

 分からない。

 分からないが、一つだけ確かなことがある。

 あの王女は、何かを隠している。

 魔法書にまつわる、何か重大な秘密を。


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