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シャンデリアの光が、これほどまでに疎ましく感じられたことはない。
盛大な王宮のパーティー。会場を埋め尽くす色とりどりのドレスと、鼻を突くような香水の匂い。そして、耳を塞ぎたくなるような、計算高い笑い声たち。
私は手にした扇をそっと開き、口元を隠した。周囲の視線が、憐憫と好奇心に満ちて私を刺す。その中心にいるのは、私の婚約者である第一王子、エドワード殿下だ。
「――アイリス・アステリア! 貴様との婚約を、今この場をもって破棄する!」
静寂。音楽が止まり、人々が息を呑む音が聞こえる。
エドワード殿下の隣には、小刻みに震える肩を彼に預けた男爵令嬢、リリアがいた。潤んだ瞳で私を見つめるその姿は、いかにも「悪役令嬢にいじめられた悲劇のヒロイン」そのものだ。
「……こ、婚約破棄……?」
私はわざと、声を震わせて問い返した。感情を押し殺した、か細い声。それが会場の同情を引くための最も効果的な調律であることを、私は知っている。
「白々しい! 貴様がリリアに対して行ってきた数々の嫌がらせ、証拠はすべて挙がっているのだ。数々の嫌がらせのうえ、暗殺者まで差し向けたそうだな!」
あら。暗殺者なんて、身に覚えのないオプションまで付いているわ。
エドワード殿下は、自分が正義のヒーローにでもなったつもりなのだろう。勝ち誇った顔で私を見下している。リリア嬢は、彼の腕にすがりつきながら、服の裾をぎゅっと握りしめていた。その口角が、一瞬だけ、勝ち誇ったように吊り上がったのを私は見逃さない。
「殿下、私は……。私はただ、殿下の婚約者として相応しい振る舞いをと、リリア様に忠告を差し上げただけでございます」
私が弱々しく頭を垂れると、会場のあちこちからヒソヒソという囁き声が漏れた。
「やはり、あの噂は本当だったのか」「アステリア家の令嬢が、あんなにみっともなく……」
人々は残酷だ。昨夜まで私を「次期王妃様」と持ち上げていた口が、今は私を貶める道具に変わっている。けれど、それでいい。この「衆人環視」という舞台装置こそが、後の彼らを縛り上げる首輪になるのだから。
「黙れ! 貴様の傲慢さには反吐が出る。愛のない政略結婚など、これ以上続けるつもりはない。私は、真実の愛に生きることに決めたのだ!」
エドワード殿下は、リリアの腰を引き寄せ、いっそう強く抱き寄せた。
リリアは怯えたように目を伏せながらも、チラリと私を見て、その瞳の奥で嘲笑った。
(可哀想に。お疲れ様、元・婚約者様。あなたの席は、もう私のものよ)
そんな声が聞こえてきそうな、完璧な勝利者の目。
ああ、本当に面白いわ。
彼女は、自分が「真実の愛」を勝ち取ったと思っている。
エドワード殿下は、自分が「悪女を倒した正義」だと思っている。
けれど、彼らは気づいていない。
アステリア公爵家が、この国の財政の四割を支え、東部国境の守備を担う軍事力を秘密裏に保有しているという事実を。そして、その公爵家の長女である私との婚約が、ただの「縁談」ではなく、王室への「融資条件」であったことを。
「左様でございますか。殿下のお心が、既にその方に決まっておられるのであれば……」
私はゆっくりと、一歩前に進み出た。
それだけで、エドワード殿下はびくりと肩を揺らした。私の無機質な「公爵令嬢としての仮面」が、彼にはまだ威圧的に映るらしい。
「私の言葉は、もう何の意味も持たないのですね」
「その通りだ! 貴様のような冷酷な女、顔を見るのも忌々しい。即刻、この場から立ち去れ!」
さあ、ここまでは台本通り。
私はゆっくりと顔を上げた。これまでの「気弱な演技」を、内面のスイッチひとつで切り替える。
目を見開き、驚愕に固まるエドワード殿下の前で、私は扇をパチンと閉じた。その硬質な音が、静まり返った会場に銃声のように響く。
「承知いたしました、エドワード殿下。いえ、『元』婚約者様とお呼びすべきでしょうか」
私の声は、先ほどまでの震えが嘘のように、凛として響き渡った。
会場の空気が凍りつく。一瞬で、場の主導権が私の方へ移ったことを、誰もが肌で感じていた。
「一つだけ、訂正させていただいてもよろしいかしら? リリア様への『嫌がらせ』ですが、それは事実無根でございます」
「黙れと言ったはずだ! 証拠は――」
「証拠、ですか。例えば、リリア様のドレスを破ったという『現場を見た』と言い張る、彼女の取り巻きの令嬢たちの証言ですね? 彼女たちは私の実家のライバル派閥の娘ばかりですが。あるいは、階段で突き飛ばされたという日……その日、私は隣国の大使との会談に父の代理で出席しておりましたが? 王宮の登城記録、ご覧になっていないのですか?」
畳みかけるような正論に、エドワード殿下は口をパクパクと開かせた。
「そ、そんなものは後でいくらでも誤魔化せる! だいたい、リリアが嘘をつくはずがない!」
「ええ、彼女は嘘をつきませんものね。……ただ、少しばかり『勘違い』が激しいだけ。……そうですよね、リリア様?」
私は視線をリリアへ向けた。彼女は蛇に睨まれた蛙のように硬直している。
「あ、ああ……え、エドワード様、怖い……。アイリス様、そんな怖いお顔で私を睨まないで……っ」
「睨んでいるわけではありませんわ。観察しているのです。あなたのその、ドレス……。それは今年、アステリア商会が開発した最新の絹織物ですね。……そのドレス、どうやって手に入れましたの?」
「それは……エドワード様が、プレゼントしてくださったものですわ!」
待っていました、その言葉。
私は深いため息をつき、首を振った。
「エドワード殿下。そのドレスの代金、まだ『王宮費』の名目で、私の家へ請求が回ってきておりますのよ。婚約破棄をされるのでしたら、公私混同はやめていただきたいものです。……それから」
私は隠し持っていた封筒を取り出し、殿下の足元へ投げ捨てた。
ひらりと舞い、靴の上に落ちた紙束を見て、殿下の顔が土気色に変わる。
「それは、私から父へ、そして父から国王陛下へと既に提出済みの『婚約解消同意書』です。ついでに、あなたがリリア様との逢瀬のために使い込んだ、騎士団の運営予算の流用記録も添えておきました」
「な、……な、なんだと……!? いつの間に……」
「いつの間にか、ではありません。ずっと見ていたのですよ。あなたが私の目を盗んでいるつもりで、どれほど愚かな真似を重ねているか。……私が黙っていたのは、あなたに最後の良心が残っているか、見極めていただけです」
会場の貴族たちが、騒然となり始めた。もはや「婚約破棄」の是非などどうでもいい。王太子による公金の流用、そして公爵家への不当な扱い。これは国家を揺るがすスキャンダルだ。
「婚約破棄、喜んでお受けいたします。……いえ、むしろ私の方から、この紙切れを突き返したかった。あなたのような、自分の感情も管理できない方に、私の人生の時間を一秒たりとも捧げるのは苦痛でしたから」
私は一歩、殿下へ詰め寄る。彼はたまらず、後ろへ尻餅をついた。無様。本当に無様だわ。
「今のところ、私の人生は私だけのものです。あなたの所有物ではありません。……ですから、ゴミはゴミ箱へ。私は私の道へ行かせていただきますわ。……ああ、そうそう。明日の朝、アステリア商会が王宮へ融資している全額の引き揚げ通告が届きますので。どうぞ、リリア様との『真実の愛』で、国庫を潤してくださいませ」
私はドレスの裾を優雅にさばき、最も美しいカーテシーを披露した。
この国の王族に対する敬意など、もうこれっぽっちもない。これは、自由への扉を開くための鍵だ。
「それでは、ごきげんよう。……元・殿下」
私は彼らに背を向けた。
一歩一歩、石造りの廊下を歩くたびに、重たいドレスの重みが消えていくような気がした。
背後からは、エドワード殿下の情けない叫び声と、リリアの泣き叫ぶ声、そして騒然とする貴族たちの喧騒が聞こえてくる。
王宮の重厚な門を出ると、夜風が私の頬を撫でた。
空を見上げれば、無数の星。
「……さて。まずは美味しい紅茶でも飲んで、明日からの『復讐劇』の続きを考えましょうか」
私は、出迎えにきていた馬車の扉を開いた。
御者が静かに頭を下げる。彼は私の、私だけの直属の部下だ。
「お疲れ様でございました、お嬢様」
「ええ。最高の気分よ。……さあ、アステリア邸へ。私の人生を取り戻しに行くわ」
馬車が走り出す。
窓の外に流れる王都の夜景を見ながら、私は確信していた。
捨てられたのは私ではなく、あの男なのだと。そして、これから本当の「地獄」が彼らを待っているのだと。
私の人生は、私だけのもの。
その自由を手に入れるためなら、私は喜んで、世界を敵に回す悪女にでもなってやるわ。




