その名はアレクサンダー②
そしてあれよあれよと、スカーレットは友人によってどこかの建物へと連れて行かれた。突然の出来事に目を丸くしたが、そこで出迎えてくれたのは沢山の人と、壁際に飾られた様々な馬の絵だった。
「やあ、彼女が新しい会員かな?」
「あの、此処は……?」
1人の紳士が彼女達の所へと歩み寄り手を差し出す。スカーレットは握手を交わして此処がどこなのか尋ねると、紳士は笑顔で両腕を広げた。
「ようこそ、『馬を愛する会』へ。我々は君を歓迎しよう」
詳しく話を聞けば、どうやら此処は競馬ファンが集まるクラブの1つだそうで、最初に話しかけてくれたのはファンクラブの会長の公爵だった。
友人がスカーレットを競馬観戦に誘ったのも傍から布教目的だそうで、つまりは完全に彼女の思惑にホイホイと乗せられた訳である。
しかしこんな思惑なら大歓迎だ。レースが終わったからには帰らなければと思っていた反面、まだまだこの余韻に浸りたい気持ちがあったからだ。それにアレクサンダーについて語り合える人がこんなにいるだなんてと、友人に感謝さえした。
その日の夜はとても熱かった。決していやらしい意味ではなく、滾った気持ちを共有するという意味でだ。
スカーレットが初めて彼を目にした時の衝撃や、走りの素晴らしさを語れば仲間達は「分かる」と頷き、逆に仲間達が今までの彼のエピソードを語れば、スカーレットは子どものようにはしゃぐ。
ファッションや流行について友人と語り合うのとはまた違う楽しさに、彼女は時間も忘れて夢中になった。
世の中にこんな楽しみがあっただなんて。今まで仕事と夫ばかりだったスカーレットにとって、それはまったくの未知の世界だった。
あくまで人脈作りの一環だった競馬観賞で、こんなに夢中になれる何かに巡り合えるなんて、夢にも思っていなかった。
ファンクラブの人達はニワカファンのスカーレットにも嫌な顔を1つせず迎え入れてくれていた。それがまた嬉しくて、彼女はその日ばかりは寝る間も惜しんで仲間達と語り合った。
アレクサンダーの数多くある名場面の話から、今後出場するレースなどの貴重な情報まで教えてもらった。スカーレットは大興奮したが、同時に大後悔もした。
(そんな素晴らしい逸話があるのなら、是非この目で見てみたかった……!)
今まで競馬というジャンルに興味を持とうとしなかった自分を、100回くらい平手打ちしてやりたい気分だった。
この国には「100の言葉よりも1の刮目」という言葉がある。意味は「どんなに言葉を尽くして説明しても、実際にその目で見るのには敵わない」というものだ。
数々の名シーンを色んな人から聞いたとしても、実際に見た彼等と違ってスカーレットは頭の中で想像するしかない。
過去に渡る道具も、過去にあった出来事を目の前で再現してくれる道具も無い以上、逸話の証人となるにはその時にその場所にいるしかなくて。自分はこれまで何と勿体ない事をと思うと、悔しくてたまらないのだ。
しかし過去はもう変えられない。ならば自分に出来るのは全力で彼のレースを追いかけるのみである。
仕事や人脈作りに加えて更に忙しくなるが問題無い。よく言うじゃないか、時間とは作るものだと。スケジュールを調整して、家令に仕事を手伝ってもらえばどこかで観戦の時間は捻じ込める。
スカーレットの頑張る事リストの中に、「全力でアレクサンダーの活躍を見届ける」が追加された瞬間だった。人間、欲望が爆発すると無謀な事を考えるものである。
ついでに画家に描かせたという絵も見せられて、即決で購入してしまった。顔のアップと全身の2枚。
描き手の腕が良いからか少し値は張ったが、これくらいの散財ならいくら当て馬の妻でも簡単に目くじらは立てない筈だ。
普段無駄遣いせずに節制しておいて良かったと、スカーレットは日頃の己の行いに心から感謝した。
いつまでもこうしていたいと願うが、楽しい時間ほどあっという間に過ぎるものである。夜通し行われていたファンの集いは明け方を迎えて解散し、馬車で揺られて屋敷に戻り、ベッドにダイブした直後に泥のように眠った。
そして睡眠で疲れた身体を回復させて今に至るのである。
連絡も無しに丸一日家を空けてしまったのでメイド達は大層心配していたが、帰って来たスカーレットの様子が疲れてはいるものの楽しそうな雰囲気であったのと、こうして好きな馬の絵を眺めてはウットリしているのだから、みんなこの結果をとても喜んだ。
いつも主人との関係に悩んでいた奥方に一時でも悩みを忘れられる心の拠り所が出来たのだから。
「お支度が整いましたよ。今日は旦那様は朝早くから出かけていらっしゃるので、お1人でのお食事となりますが……」
スカーレットの髪を結い上げたメイドが「今日も良い出来だ」と、心の中で自画自賛しながら問いかける。
「それなら食堂じゃなくて部屋で食べるわ。彼の絵を見ながら食事を堪能したいの。それに彼の話を聞いてほしいし」
彼女のやりたい事は貴族のマナーとしてはあまり褒められたものじゃないが、今日くらいは許してあげたかった。
そう思ったメイドは「はい」と微笑ましそうに返事をし、食事の準備の為に一旦部屋を出た。




